第8章 ざまぁ
知らせは、事務所の人から来た。
目を見て話す人だ。控室の前の廊下で、すれ違いざまに言われた。言いにくそうではなかった。業務の連絡をするときの声だった。
「レイジさんの隊、装備会社が降りたそうです」
「はい」
「観測支援の負債だけ残って。肩代わりの条件が切れたので」
「……条件」
「数字です。契約のとき、月の平均で線が引いてあって。そこを三か月続けて割ると、肩代わりが止まる。止まると、負債が隊に戻る」
その人は、持っていた書類を反対の手に持ち替えた。
「一日十件ずつ落ちてたって、トオルさんが言ってました」
俺が言うと、その人は少し首を傾げて、それから、ああ、と言った。
「レイジさんは、もう別の隊に入ってますよ。特級の、二番手のところ。斧の人が欲しかったらしくて」
「そうですか」
「いい判断だと思います。負債は隊に残って、人には残らないので」
その人は、一度息を吸ってから、付け足した。
「残った人に、残ります」
それだけ言って、歩いていった。
正しい判断をした人は、正しい判断をされる。俺は、それをそう言葉にして、それから、言葉にしたことを、少し後悔した。
◇◇◇
控室の机の上に、業界誌が置いてあった。
『支える手』。事務所が取っている。表紙は、回復札の新製品で、貼ったあとの指を二本並べた写真だった。押さえている指は、映っていない。
いちばん後ろのページに、小さい欄がある。「離脱者」。その月に証を返した人の、名前と職と所属が、五行ずつ並ぶ。
ユキさんの名前が、そこにあった。回復札。所属の欄には、隊の名前ではなく、元、という一字だけが付いていた。
俺は、そのページを閉じた。閉じてから、もう一回開いた。五行の、二段目だった。上と下は、知らない名前だった。
雑誌を、机の元の場所に戻した。表紙の向きを、元のとおりにした。
◇◇◇
切り抜きは、二本だけ残っていた。
一本は三年前の、二層で札を貼り損ねた場面。一本は去年の、三層で二千人抜けたときの、俺の四十秒の後ろで、彼女が鞄の口を閉め直している場面。どちらも、彼女が映っている。どちらも、彼女がしくじった場面だった。
再生数は、四百と、二百だった。
俺は、二本とも開かなかった。題と、数字を、見た。それだけだった。
◇◇◇
「見ないの?」
彼女が言った。車の中だった。控室から次の控室へ移動する三十分。運転手さんがいるので、たいてい黙っている。
「見ません」
「見たら、どうなるの」
俺は、窓の外を見た。新しいビルが建っていた。前が何だったか、思い出せなかった。
「……見たら、見たことになるので」
彼女は、ふうん、と言った。終わらせないほうだった。
俺は、続きを言わなかった。
彼女は、携帯を出した。
音は出さなかった。画面を、俺のほうに向けなかった。自分の膝の上で、見た。
「四百のほう」
彼女が言った。
「はい」
「二層。札が、剥がれてる。貼ったところから、ずれてる」
「はい」
「この人、貼る前に、息、止めてるね」
「……はい」
「一回だけ」
「はい」
俺は、窓の外を見ていた。ビルが、後ろへ流れていった。
「四百一になった」
彼女が言った。
「わたしの一」
彼女は、画面を閉じた。閉じてから、自分の左手を見た。薬指だけが、他の指より、まっすぐだった。
俺は、見なかった。見ていないので、見たことにはならない。聞いた。聞いたことになるのかどうかは、わからなかった。
「もう一本は」
彼女が言った。
「見ません」
「わたしも見ない」
「はい」
「あなたの四十秒、入ってるんでしょ」
「はい」
「それは、あなたのだから」
どこが俺のなのか、訊かなかった。四十秒は、とっくに誰のものでもなくなっている。払われて、二千人抜けて、二百回見られた。
◇◇◇
ギルドの床に、モップの跡がある。
俺はその日、それを数えた。
入口から窓口まで、濡れたものを引いた線。線は一本に見えるが、近くで見ると、一往復ごとに、重なりがある。重なりの数を数えれば、何回引いたかわかる。
二十二回だった。
俺は、重なりの間隔を見た。
一往復の幅が、揃っていた。揃っているから、数えられた。揃っているのは、引いた人の歩幅が変わらないからだ。
俺は、自分の靴の先を、重なりのひとつに合わせた。
一歩、歩いた。
次の重なりに、靴の先が、合った。
もう一歩。
合った。
俺は、そこで、数えるのをやめた。
掲示板の右下の角は、めくれたままだった。今日は、誰も押さえなかった。俺は押さえなかった。押さえる人が、いなかった。
窓口で判を押して、階段を降りた。二十二段。段を降りる歩幅は、床を歩く歩幅とは、違う。違うはずだった。俺は数えなかった。
◇◇◇
夜の配信は、四十一人になっていた。
いつのまにか、増えていた。十一が、四十一になった。誰が増えたのかは、わかる。一覧を見れば、名前が出る。知らない名前が三十、増えていた。
「はい、こんばんは。解析枠の、鳴海です」
〈こんばんは〉
〈夜の枠あったんだ〉
〈壁の話するとこ?〉
〈ここが本編って聞いた〉
みかん箱さんが、〈新規は黙って聞け〉と打った。
俺は、二層の映像を見返した。三十八歩目で止めて、半拍遅れる話をした。三十人のうち、何人が途中で抜けるかを、数えた。八人抜けた。三十三になった。
〈ユキって人、どうなったの〉
知らない名前の人が、打った。
〈元の隊にいた回復の人〉
〈離脱者の欄に載ってたよね〉
「知りません」
俺は、そう言った。
画面が、三秒、止まった。
それから、一行、流れた。
〈知ってるくせに〉
〈石けん〉。
四千一人いる、あの名前だった。どれかはわからない。わからないはずだった。
打ち方で、わかった。
五文字。句読点がない。疑問符がない。四年前から、この人はこう打つ。〈壁の裏、わかるんだ〉〈わかんない〉〈六十円の話まだ引っ張るな〉。切り抜きのあとで増えた四千人は、誰も、この打ち方をしない。みんな、少しずつ、新しい。
この一人だけが、古い。
俺は、画面を見ていた。
「今日はここまでです。おつかれさまでした」
三十三、二十、九、四、二。
一。
一で、止まった。
「寝ましょうよ。明日、平日ですよ」
一のまま、動かなかった。
石けんさんは、最初からいる人だ。四年前からいる。
〈知ってるくせに〉。
石けんさんは、最初からいる人だ。




