第7章 一億
翌週の朝、大家さんが階段を上がってきた。
家賃の催促だと思って財布を出したら、そうじゃなかった。うちの前に人がいる、という話だった。
窓から見ると、七人いた。カメラを持っているのが三人。あとの四人は、立っていた。俺の部屋の窓を見上げていた。
俺は窓から離れて、布団の上に座り直した。それから携帯を開いた。
二千四百件。
どこから見ればいいのかわからなくて、いちばん下まで飛ばした。
ギルドからの通知が混ざっていた。「弁償金七万八千円について、株式会社ミナミ・アセットが一括で清算しました」。二十四回払いは、一行で消えた。
俺は、その一行を三回読んだ。何も感じないことに、少しだけ驚いた。
そのひとつ下に、もう一件あった。
「出力比異常(乗算)の記録が保持されています。ご確認ください」
誰かに読ませるために出している文面ではなかった。機械が、決まりだから出している類のやつだ。座卓の脚の横に積んである封筒と、同じ刷り方をしていた。
その日の夕方、同じ文面が紙で届いた。
俺は、それを開かずに、山の上に置いた。
八通になった。
家賃三万二千円は、まだ払っていなかった。俺はその日、それを先に払いに行った。大家さんは、封筒を受け取るとき、俺の顔ではなく、俺の後ろの階段を見ていた。
◇◇◇
その日の昼、俺はいつもの時間に配信をした。
「はい、こんにちは。解析枠の、鳴海です」
球はまだ壊れたままだったから、携帯の内カメラで撮った。畳と、洗っていない鍋が映った。
〈うわ〉
〈生きてた〉
〈外に人いるんでしょ〉
〈説明しろ〉
「なんか、そういうことになりました」
〈なんか、で済ませるな〉
〈美波だぞ〉
〈美波だぞ!!!〉
みかん箱さんが二回叫んだ。俺は笑って、それから、うまく言葉が出なくなった。
「あの。五年、ありがとうございました」
〈え〉
〈終わるみたいに言うな〉
「終わらないですけど」
〈終わらないなら言うな〉
深夜二時さんの言い方が、いつもより雑だった。
しばらく誰も打たなかった。それから、石けんさんが一行だけ打った。
〈明日から、たぶん俺ら、見えなくなるね〉
俺は首を振った。カメラの前で、はっきり振った。
「見えますよ」
〈言ったな〉
深夜二時さんだった。三文字だった。
「言いました」
〈じゃあ、行ってこい〉
これも、深夜二時さんだった。理由は、なかった。
数字は十一だった。俺が締めたあと、名前の欄が空いている人は、いつもどおり少し遅れて出ていった。
礼を言ったのは、五年ではじめてだった。言ってから、言ったことに気づいた。
◇◇◇
新しい球は、事務所の人が持ってきた。
三十代くらいの男の人で、俺の目を見て話した。名刺を両手で出して、それから箱を開けて、電源の入れ方を三回説明した。三回目のときに、自分で「三回言いましたね、すみません」と言った。
「これ、うちの規定で貸与なんですけど」
「はい」
「壊れても、弁償はないです」
「……ないんですか」
「ないです。そういう契約なので」
俺は、七万八千円と、二十四回払いのことを考えた。
考えたことは、言わなかった。
新しい球は、動作音がしなかった。レンズに、指紋がなかった。
壊れた球は、弁償の日に、ギルドの窓口へ返してある。レンズの縁に、前の借り主の指紋が、割れたままついていた。誰の指かは、最後までわからなかった。
◇◇◇
契約は、事務所の会議室でやった。
紙が十九枚あった。俺は全部読んだ。読むのに一時間かかって、途中で担当の人が二回、コーヒーを持ってきた。
「あの、経歴のところ、埋めてもらえますか」
その人は、七枚目を指した。
登録してからの年ごとの欄が並んでいる。所属と、主な潜行と、資格。上から順に、埋まっていた。
一年だけ、空いていた。二段目だった。
上の段にも、下の段にも、潜行の回数と届出の番号が詰まっている。その一段だけ、罫線の白が広かった。
「そこ、システムから引っ張ってるんですけど、なにも出てこなくて」
「はい」
「潜行ゼロ、申請ゼロ、届出ゼロです。休養ですか」
俺は、その欄を見た。
その年に何をしていたかを、思い出そうとした。
前の年のことは出てくる。次の年のことも出てくる。あいだの十二か月に、手を伸ばした。
何もなかった。
悪いことを思い出さないようにしている感触ではなかった。壁を叩いて返りを待つときの、返ってこないほうだった。
「……休養です」
「じゃあ、休養で書いときますね。空欄だと審査が止まるので」
その人は、その場でボールペンで書いた。
二文字入って、欄が埋まった。
「これ、あとで直せますか」
「直せます。でも、直す人、あんまりいないですね」
その人は、次の紙をめくった。
十九枚目の下に、小さい字があった。
読めた。同じ字だった。同意書の控えの、あの字と、同じ文だった。俺は読んで、署名した。
◇◇◇
その夜、四畳半で、方眼のノートの一本目のページを開いた。
日付が書いてある。
指で数えた。今日は、止まらなかった。
空いていた一年の、いちばん終わりの月だった。
その月に、俺は外れの一本目の入口に立って、歩数を数えはじめた。その前の十一か月に、俺がどこに立っていたのかは、ノートに書いていない。ノートは、一本目から始まっている。
俺は、ページを閉じた。
◇◇◇
第七層は、明るかった。
中継用の照明球が二十四機、天井に貼りついている。壁の音は返ってこない。返っても、意味を持たない。ここでは俺の耳より、光のほうがずっと早い。
それなのに、よく届いた。
二層で六畳の空洞を測るには、三回叩く。ここでは一回で足りた。返りが濃かった。深さも、湿りも、一度で全部入ってきた。
球が新しいからだと思った。思って、そこで考えるのをやめた。
でも、彼女は目を閉じた。
最初の群れが来たとき、美波は照明の下で、はっきりと目を閉じた。
「右、七十度、三歩」
音の、置き去り。
俺の声が終わる前に、もう終わっている。あの暗闇と同じだった。明るくても、彼女は確かめない。
「左、二、四、いま」
銀色が三度、通った。
照明球が慌てて追いかけて、追いつかない。中継の画面は、たぶんそのとき何も映していない。
視界の右下の数字が、跳ねた。
三千万。四千万。
「いま、いま、いま」
俺は数を刻んだ。彼女はその全部に間に合った。
第七層の踏破記録は、九分四十秒だった。それまでの記録は、四時間十八分だった。
最後の群れのとき、石が飛んで、左の手の甲を切った。線が一本。手袋の縁が、そこだけ濡れた。
朝には、なかった。
線も、跡も、なかった。手の甲は、昨日の朝の手の甲だった。二層で切った手首の線は、一週間あった。これは、一晩でなかった。
球が新しいからだと思った。思って、そこで考えるのをやめた。二度目だった。
◇◇◇
二週間目に、ギルドへ行く用ができた。所属の変更届に、本人の判がいる。
事務所の車は、東口の手前で俺を降ろした。
「ここからは、歩いてもらえますか。車だと、わかるので」
運転手さんは前を向いたまま言った。後ろの座席に、薄い水色のウインドブレーカーが置いてあった。コンビニのやつだ。俺はそれを着て、フードを目深にかぶった。
前が、半分見えなくなった。把握は、前も後ろも同じだけ返してきた。見えなくても、困らなかった。
階段を降りてくる男の子が、四人いた。一人が「いま」と言った。残りの三人が「いま、いま」と続けて、四人とも笑って、一段飛ばしで降りていった。声が、俺のより高かった。
俺は東口の信号で立ち止まった。青になった。渡らなかった。次に赤になって、また青になるまで、そこに立っていた。
悪い気は、しなかった。
ギルドの受付は、晴れているのに混んでいた。変更届は、窓口の端の箱に入れればよかった。判を押すのに、十秒もかからなかった。
床に、モップの跡があった。入口から窓口まで。今日も、誰が引いたのかわからなかった。
掲示板の一位は、銀色のままだった。その下に、見たことのない切り抜きが貼ってあった。俺だった。八桁が、二つ並んでいた。
右下の角は、めくれたままだった。
その前を、人が通った。
隊の装備だった。胸当てに、装備会社の名前が入っていた。新しい縫い目だった。髪を後ろでまとめていた。通りしなに、指で角を二回押さえた。押さえても、めくれたままだった。確かめなかった。
ユキさんだった。
俺はフードの中にいた。彼女は、俺を見なかった。見る理由がなかった。掲示板の二位の切り抜きを、彼女は見なかった。角だけを押さえて、窓口のほうへ歩いていった。
四年、俺は彼女がそれをするのを見ていた。今日は、見られていない場所から見た。フードの中は、外れと同じだった。
◇◇◇
商店街を抜けた。店という店の中で、配信が流れている。定食屋も、床屋も、電気屋の前も。今日は、全部が同じ声だった。三、二、いま、いま、いま。床屋の鏡の中と、定食屋の換気扇の下とで、同じ声が半拍ずれて重なっていて、二重になって返る音を、俺は自分の声で聞いていて、電気屋の前のテレビには体育館が映っていて、小学生が三十人くらい横一列に並んでこっちを向いて口を開けていて、音は消してあったが口の形だけで、いま、とわかって、その前をTシャツの背中が通って、胸に白い字が三つ、いま、いま、いま、着ている子は俺の腰までしかなくて、立ち食いの店の前には列があって、角を曲がってまだ続いていて、ガラスに貼り紙が一枚、「鳴海シキ選手が食べたのは、当店の並・たまご入りです」、手書きで、字が途中から小さくなっていて、紙の幅が足りなくなったんだと思う。
列の中ほどの人が、俺のフードを見た。見てから、手の中の画面に目を戻した。画面の中の俺は、フードをかぶっていない。
列の最後尾に、俺は立たなかった。
中の券売機が見えた。たまごのボタンだけ、新しくなっていた。白くて、角が立っていた。
押したら、戻るんだと思う。
◇◇◇
三週間目に、俺は一度だけ、あの人たちを見つけた。
中継中だった。コメントは、その頃にはもう滝みたいになっていて、読むというより、色が流れていくのを見ている状態だった。
その中で、一行だけ、目に入った。
〈うまいですか〉
三文字でも四文字でもない。丁寧語で、疑問符がない。
俺は、考える前に言っていた。
「石けんさん?」
滝が、止まった。
止まったように見えただけで、実際は逆だった。同じ三文字が、一斉に流れはじめた。
〈石けん〉
〈石けんて誰〉
〈石けんさんwww〉
〈石けん〉
〈石けん〉
〈石けん〉
俺は、そのあと十分くらい、何を喋ったか憶えていない。
次の日には、切り抜きが回っていた。「鳴海シキ、突然『石けんさん?』」。再生数が二百万あった。
三日目には、その名前を表示名にしている人が四千人いた。
俺は検索した。四万件出た。
どれでもなかった。
石けんさんは、その日から、コメントを打たなくなった。
夜の枠に、名前だけは、ある。みかん箱さんも、ある。深夜二時さんも、ある。石けんさんの名前の横に、数字が出ていた。四千一。同じ名前が、四千一人。本人がどれかは、もう、どこにも書いていない。
〈うまいですか〉が、石けんさんだったのかどうかも、わからなかった。わかったと思って、口に出した。口に出したぶんだけ、四千人が増えた。本人は、その四千の中に、いるのかもしれなかった。いないのかもしれなかった。数えられなかった。
◇◇◇
トオルさんに会ったのは、四か月目だった。
商店街の、電気屋の前だった。彼は、立って携帯を見ていた。俺はフードをかぶっていた。把握が、先に返ってきた。矢を回収するときと同じ、右肩の下がり方。
「トオルさん」
彼は顔を上げなかった。画面を、俺のほうへ少し傾けた。
画面に、俺がいた。
第七層。今日の昼の中継。俺が壁を叩いている。
「……見てんだよ、うちのも、よそのも。朝と昼と夜」
彼は言った。画面から目を離さずに。
「うちの、落ちてんだよな。一日十件ずつ」
「はい」
「落ちた分、どっか行ってんだよな」
俺は、何も言わなかった。
「どこに」
彼は、自分で訊いた。
「……知らね」
自分で答えた。
それから彼は、画面を自分のほうへ戻して、親指で送った。俺の中継が消えて、別の隊の映像になった。崩落だった。二十秒の、あの繰り返しだった。彼は、最初に戻るたびに、また見ていた。
「悪いな」
彼は、そう言って歩いていった。何に対して言ったのかは、わからなかった。
◇◇◇
第九層の踏破は、生中継だった。
最後の一体が崩れて、通路の奥から風が来た。地上の風の匂いがした。俺たちは二十六時間潜っていて、二人とも埃で灰色になっていた。
視界の右下、一億一千九百万。
彼女は剣を鞘に戻して、俺のほうを向いた。
照明球が二十四機、いっせいに角度を変えた。
「シキ」
「はい」
それだけだった。彼女は、それだけ言って、前を向いた。数字が、一億二千万を超えた。
地上に出るまでのあいだ、彼女は俺の隣を歩いていた。埃をかぶった手が、俺の手に触れて、そのまま握った。左手だった。薬指だけが、他の指より、握り方が揃っていた。
◇◇◇
地上には人がいた。人しかいなかった。
俺は三時間、手を握った。名前を知らない人と、二百回くらい握手をした。紙にサインをした。子どもを抱き上げて、下ろした。
途中で一度、癖で音を取った。
返ってこなかった。壁は返す。水は返す。人は、吸う。
その三時間のあいだ、俺は一度も上を見なかった。
それが終わって、車に乗る前に、五秒だけ一人になった。
俺は右手を開いた。
掌の真ん中に、黒い点があった。
埃だと思って、親指でこすった。取れなかった。爪を立てた。痛くなかった。
俺は掌を目に近づけた。それは、点じゃなかった。
いつもの癖で、俺はそこの深さを測った。壁の裏を測るときと同じやり方で、指の背を二回当てて、返りを待った。
音が、返ってこなかった。
俺は手袋をはめた。車に乗った。運転手さんが、おつかれさまです、と言った。俺は、はい、と言った。
その夜、郵便受けに封筒があった。機械が刷ったやつだ。宛名は登録番号。裏に糊の線。
九通になった。
レイジさんの隊の数字は、一日十件ずつ落ちている。トオルさんが言った。落ちた分は、どこかに足された。足されたのは、こっちだ。




