第6章 映す
第七層は、明るい。
中継用の照明球が二十四機、天井に貼りついている。影がなかった。二十四の方向から光が来るので、床に落ちる自分の影が二十四に割れて、どれも薄い。壁の音は返ってこない。返っても、意味を持たない。ここでは俺の耳より、光のほうが早い。
それでも、俺は壁を二回叩く。癖だ。三千万に見られながら、壁を叩く。
「右、七十度、三歩」
銀色が通った。
群れが崩れて、床に湿ったものが降りきって、通路が静かになった。照明球が二十四機、いっせいに角度を変える。数字が、階段を踏み外すみたいに跳ねた。
彼女は、剣を鞘に戻した。
戻してから、鞘を床に置いた。
置いた。中継の最中に。俺は、それを見たことがなかった。五年、切り抜きを全部観て、鞘を床に置く美波を、一度も見たことがなかった。
彼女は、胸当ての内側に手を入れた。
出てきたのは、方眼のノートだった。
角が丸くなっている。南の三本目のページだけ、他より薄い。遠くからでもわかる。俺は、そのページを五年、弱く書いてきた。
今朝、控室の長椅子の上で、俺の鞄は彼女の鞄の隣にあった。底は、四角く張っていなかった。気づいたのは、今だった。
「この人の地図」
彼女は、レンズの少し上を見て言った。
「なにもないところの、五年分」
〈なにこれ〉
〈手書き?〉
〈なにもないの?〉
〈え、地図?〉
「なにもないよ」
彼女はページを開いた。三十七本の通路が、二十四機の照明の下で、三千万に向かって開かれた。
照明が、紙を透かした。南の三本目のページは、他より薄い。薄いところだけ、光が裏まで通って、向こうのページの線が重なって見えた。弱く書いた線の上に、隣の通路が、透けて乗っていた。
「だから便利なの。この人、なにもないところを五年書ける人だから」
彼女は、ページをもう一枚めくった。めくる音は、二十四機の照明の下では、返らなかった。
◇◇◇
俺の視界の右下は、その日、色になった。
〈解析枠?〉
〈半額のやつ?〉
〈乗算ってなに〉
〈壁の裏がわかる人だって〉
〈五年!?〉
〈五年〉
〈五年〉
文字が、読めなくなった。一行が目に入って、下から押し上げられて、消える。読めたのは「五」までだった。
数字は、俺の名前のついたページで、八桁になっていた。
その夜、ギルドの端末に通知が出た。専属指名、登録完了。解析枠の取り分の計算式が、変わっていた。映った秒数で割る。同じだ。今日、俺は映っていた。ノートが映っていた時間のぶん、俺は映ったことになっていた。
◇◇◇
地下の通路で、彼女に訊いた。
「見せたんですね」
「うん」
「あれは」
「役に立たないんでしょ。だから見せたの。役に立つやつは見せないよ、わたしも」
彼女は、フードを上げた。通路は、中継が終わったあとで、照明球は半分に落ちている。
「……はい」
「怒ってる?」
「怒ってません」
「ふうん」
終わらせるほうの、ふうん、だった。
彼女は、それ以上なにも言わなかった。謝らなかった。俺が怒らないことを、彼女は見ていた。見ていて、ふうん、と言った。俺は、怒っていなかった。怒り方を探した。二回叩いた。一段も返らなかった。
ノートは、返ってきた。
胸当ての内側から出てきて、俺の手に戻った。温かかった。彼女の体温で、表紙が、俺の手より温かかった。
鞄の底に入れた。底が、四角く張った。
◇◇◇
三日後、ギルドの公式地図が更新された。
窓口の横に、大きいのが貼ってある。第一層の南。
白かった端に、線が入っていた。
三十七本。
俺の線だった。俺の線を、誰かが清書していた。方眼の一マスが、公式の縮尺に直されていた。南の三本目の薄いページも、他と同じ太さで引かれていた。弱く書いた線が、普通の線になっていた。
「便利になりましたね」
窓口の人が言った。画面から、目を上げなかった。
「外れ、人が来るようになりましたよ。今日、三人」
「何を」
「苔だと思います」
俺は地図の前に立って、三十七本を数えた。数えなくても、三十七本だった。
水の量の欄は、なかった。天井の高さの欄も、なかった。公式の地図には、壁の線だけがある。壁の厚さは、線の太さで、全部同じだった。
◇◇◇
その日の午後、外れに行った。
車を断った。電車を二回乗り換えて、第一層の南へ降りた。
一本目の入口に、袋が一つ、置いてあった。苔の採取の袋だ。半分くらい入っている。持ち主は、いなかった。奥のほうで、ナイフの音がした。壁を削ぐ音は、五年、俺の音だった。今日は、俺の音じゃなかった。
俺は、その横を通った。
南の三本目に入った。歩数を数えながら奥へ行く。十、十五、二十。
床に、足跡があった。
濡れた床に、靴の形が、奥まで続いていた。俺のではない。俺の靴は、もっと小さい。足跡は、水の増える日の前の晩に半拍鈍る壁の、真下を、まっすぐ通っていた。叩いた跡は、なかった。壁は、誰にも叩かれていなかった。通られただけだった。
突き当たりまで行った。
誰もいなかった。崩れた石は、そのままだった。俺はいつもの場所に座って、天井と両側の壁を叩いた。一時間かかった。
何も変わっていなかった。
変わっていないことを確かめて、俺は帰った。帰り道で、さっきの足跡が、乾きはじめていた。端から色が変わって、床と同じになっていく。俺は、それを踏まないで歩いた。
◇◇◇
ソウマくんから、連絡が来た。
長いのが来た。切り抜きを作った、ということ。題は「誰も見ていない地図」。二分。中継の、ノートが映っていた部分を切り出して、俺の夜の配信の、壁の音の話を少し足したもの。ソウマくんの名義で出している。
伸びている。二百万。
最後に、こう書いてあった。
「鳴海さんの地図が、やっと見られてます。嬉しいです」
俺は「ありがとうございます」と返した。
切り抜きを、開いた。
二分だった。俺のノートが開かれて、彼女が「なにもないよ」と言って、そのあとに俺の声が入っていた。去年の夜の配信の声だ。継ぎ目だけは、作った人がいるとわかるので。そこで、切れていた。
下のコメントを、六行、見た。
〈これ本人の許可あるの?〉
〈元の人なので、って言ってる〉
〈元の人w〉
〈なにもないのに五年ってすごくない?〉
〈暇なんだろ〉
〈好きなんだろ〉
閉じた。
「元の人」という言い方を、俺はその日、はじめて聞いた。元の人。元の人なので。
◇◇◇
夜の配信は、十一人だった。
八桁のページと、十一人の部屋は、別だった。夜の枠は、誰にも教えていない。専属になっても、ここは変わらなかった。変わらないことに、俺は気づいていなかった。
球はまだない。携帯の内カメラで撮った。畳が映った。
「はい、こんばんは。解析枠の、鳴海です」
〈見た〉
〈見たよ〉
〈美波があんたのノート持ってた〉
「見せたみたいですね」
〈みたいですね、じゃないだろ〉
〈あれ、いいの?〉
「役に立たないので」
〈役に立たないから見せたって、美波言ってた〉
「はい」
〈それでいいの?〉
「いいです」
俺は、それ以上うまく言えなかった。
石けんさんが、打った。
〈両方やろうとするから両方だめなんだよ〉
文脈が、なかった。
俺は、何が両方なのか、訊かなかった。
それから、深夜二時さんが打った。
〈出せ〉
これも、文脈がなかった。たまごの話は、していない。六十円の話も、していない。
〈出せ〉
俺は、画面を見た。出せ、と言われたものが何なのか、俺にはわからなかった。わかる気もした。わかる気がしただけで、わからなかった。
「今日はここまでです。おつかれさまでした」
十一、八、五、二。
一。
一で、止まった。
「寝ましょうよ。明日、平日ですよ」
一のまま、動かなかった。
◇◇◇
ギルドの端末に、今月の分配の明細が出た。
映った秒数の欄に、数字が入っていた。中継で、ノートが開かれていた時間。一分四十秒。
その一分四十秒が、俺の五年より、多かった。
地図は、誰のものでもなくなった。払われた。




