第5章 消して
外れには、もう行けなくなった。
事務所が、彼女の移動に車をつけたからだ。本部から三層の入口まで、四十分が四十分になった。二時間二十分は、どこにもなくなった。
「誰も観てない場所が、月に二日欲しい」
控室で、彼女はそう言った。控室は白くて、天井に六つ、埋め込みの明かりがある。消すスイッチは、探したが見つからなかった。
「事務所には言わない」
「はい」
「あなたの部屋、狭い?」
「四畳半です」
「暖房は」
「ないです」
「いいね」
どこがいいのか、俺にはわからなかった。彼女は手袋をはめ直して、立ち上がった。手袋の指は、四本だけ、爪のところに当て布が足してあった。
控室の長椅子の上に、鞄が二つ並んでいた。俺のと、彼女のだ。俺の鞄は、底のほうが四角く張っている。方眼のノートの形だ。彼女は、それを見なかった。見なかったことを、俺は見ていた。
◇◇◇
彼女はフードを目深にかぶって、俺の一つ後ろの車両に乗った。降りる駅は、俺が先に降りて、彼女が三十秒後に降りた。商店街の裏を通って、外階段を上がった。
階段は、十三段だった。数えなくても、十三段だった。五年、数えている。
俺の部屋の前に、人はいなかった。
彼女は靴を脱いで、部屋の真ん中に立った。
「せまい」
「四畳半なので」
「これ、なに」
彼女は鴨居の下を指した。湯呑が置いてあった。
「手袋を干すと、水が落ちるので」
「下に置いてるの」
「音がうるさいので」
彼女は、その湯呑を持ち上げた。指一本ぶんの水が入っていた。
彼女は、それを見て笑った。声を出して笑った。
笑ってから、湯呑を元の場所に、正確に戻した。
◇◇◇
座卓の脚の横に、封筒の山がある。
彼女は、それも見た。
「これは」
「ギルドからです」
「開けないの」
「……はい」
「なんで」
「なんででしょうね」
彼女は、いちばん上の一通を取った。宛名の、登録番号だけの欄を見た。裏を返して、糊の線を見た。糊の線を、指の腹でなぞった。
開けなかった。
山の上に、同じ向きで戻した。七通のままだった。
「開けなくていいね」
「はい」
どこがいいのか、訊かなかった。
◇◇◇
座卓の上に、方眼のノートがある。鞄から出して、置いた。置いたのは、俺だ。
「見ていい?」
彼女が言った。
「……はい」
俺はそう言った。
言ってから、鞄の口を閉めなかった。ノートは、座卓の上にある。彼女は、それを取った。
ソウマくんには、はい、と言って、見せなかった。彼女には、はい、と言って、見せた。同じ音で、違うことをした。違いを、俺は探さなかった。
彼女は電球の下で、最初のページから開いた。一本目。二本目。指で、線をなぞらなかった。目だけで見た。めくる音が、四畳半の壁に、一段で返った。
南の三本目のところで、手が止まった。
「ここ、薄い」
「いちばん、書き直したので」
「なんで」
「水が多いんです、そこ。三日に一度、増えるので」
彼女は、そのページに、指を置いた。置いただけだった。鉛筆を強く当てると破れる紙の上に、指の腹を、置いた。
「破れないね」
「弱く置けば」
彼女はノートを閉じて、座卓の、俺のほうに戻した。
「なにもないね」
「はい」
「なにもないのに、三十七本」
「はい」
彼女は、ふうん、と言った。続きを待つほうだった。
俺は、続きを言わなかった。
◇◇◇
電球は、天井から紐で下がっている。
彼女は布団に座って、紐を見上げた。引けば消える。引かなくても、わかる形をしている。
「消して」
俺は立ち上がって、紐を引いた。
部屋が、暗くなった。
彼女は、暗くなった部屋の中で、三秒、黙っていた。三秒たってから、言った。
「ちゃんと消えた」
「はい」
消えていない。
俺には見えている。引いた紐がまだ揺れている。揺れの幅が、一往復ごとに狭くなっていく。彼女の膝の角度。布団の上で、膝を抱えている。左が、指一本ぶん高い。把握は、明かりがあっても、なくても、同じ精度で返す。
一。
◇◇◇
暗闇で、彼女が喋った。
外れのときより、声が近かった。四畳半だから、壁が近い。壁が近いと、声は返りが早い。
「見られてるかぎり、減らないんだよ」
「はい」
「傷がすぐ閉じるでしょ。疲れない。判断が速い。ぜんぶ、観られてるから」
「はい」
「腕。二日で閉じた。布、映したから」
彼女は、左腕を持ち上げたらしかった。把握が、肘の角度を返した。布は、もう巻いていない。巻いていた跡も、ない。
「減らないの、疲れるの」
俺は、何も言わなかった。壁の向こうで、隣の部屋のテレビがついた。音は小さい。配信だ。誰のかはわからない。
「だから外れで寝るんですか」
「薄くなりたいの、たまに」
彼女は、その言い方で言った。天気の話をするときの言い方だった。
「外れにいると、減るの。ちょっとずつ。名前の字を、一個、忘れそうになる。忘れそうになるところまで行って、戻る。それが休み」
「はい」
「あなたは、減らないの」
「減るほど、観られてないので」
彼女は、そこで笑った。暗闇で、膝の角度が変わった。
「いいね」
◇◇◇
「ねえ」
少ししてから、彼女が言った。
「あなた、壁を叩くでしょ。指の背で」
「はい」
「叩いてみて」
布が擦れる音。彼女の左手が、暗闇の中で俺のほうへ出てきた。把握が、輪郭を返す。指が四本、俺のほうを向いている。親指は折ってある。
「どれを」
「薬指。第二関節から先」
俺は、手を伸ばした。
彼女の薬指を、自分の人差し指の背で、二回叩いた。
返りが、あった。
一段だった。薄いものの返り方だ。それはいい。指は薄い。問題は、そこじゃなかった。
俺は、もう一回叩いた。今度は、指の先のほうを。それから、第二関節のすぐ上を。
同じだった。
縁も、中心も、同じ音だった。
継ぎ目がない。
壁なら、必ずある。五歩ごとに継ぎ目が来て、そこだけ返りが二重になる。岩にもある。割れ目があって、湿りがあって、一枚の岩の中でも場所によって返りが違う。俺は五年、その違いを聞き分けてきた。
彼女の薬指は、どこを叩いても、同じ音で返した。
岩と同じに聞こえた。
岩より、怖かった。
「便利なんだよ」
彼女が言った。
「六年前。握力が落ちないように。これだけ、爪が割れないの」
「はい」
「痛くないよ。叩いても」
「はい」
俺は手を引いた。引いた手の、人差し指の背に、あの返りがまだ残っていた。壁を叩いたあと、骨に残るのと同じ残り方だった。
◇◇◇
「あのね」
彼女が言った。
「専属って、今より、もっと観られるってことなんだよ」
「はい」
「わたしの隣は、そういう場所。わたしがいる場所のことじゃなくて、隣。わたしを観てる人は、隣にいる人も観る。観るっていうか、数える」
「はい」
「今より、もっと観られるってことなんだよ」
二回、言った。
一回目と二回目で、言い方は変わらなかった。念を押す言い方でも、謝る言い方でもなかった。同じことを、同じ速さで、二回言った。
俺は、二回とも「はい」と言った。
それから彼女は、布団に横になった。
息が深くなるまで、六分だった。外れと同じだった。
◇◇◇
俺は、座卓の前に座っていた。
明かりはない。把握は、止めていない。
紐は、もう揺れていない。彼女の輪郭が、布団の上にある。肩が上がって、下がる。左の手が、布団の外に出ている。薬指だけが、他の指より、まっすぐだった。
俺は、それを、朝まで見ていた。
見ている、という言葉が正しいのかどうか、わからない。光は要らない。だから、見ているのとは違うのかもしれない。
違わないのかもしれない。
夜の枠は、休んだ。休みます、と十一人に打った。〈また休み〉と、みかん箱さんが打った。打った文字を、俺は暗闇で見た。携帯の画面が、四畳半で、いちばん明るかった。
◇◇◇
朝の五時に、彼女は起きた。
起きて、鴨居の下の湯呑を見た。水が、指一本ぶん。夜のあいだに、落ちたぶんだ。彼女は、それを持ち上げなかった。見ただけだった。
靴を履いて、フードをかぶって、外階段を降りた。十三段。俺は、三十秒待ってから降りた。駅で、彼女は一つ前の車両に乗った。
控室で、彼女は手袋をはめた。当て布のある四本の指を、順に入れた。
「今日、七層」
「はい」
「明るいよ」
「はい」
◇◇◇
七層の前に、待ち時間が四十分あった。
控室の長椅子で、彼女は目を閉じた。六つの明かりの下で、仰向けになって、手袋をしたまま、腹の上で手を組んだ。
「寝る」
彼女は、そう言った。
俺は、壁際の椅子に座って、数えた。
六分で、息は深くならなかった。十分でも、ならなかった。十五分で、少しだけ深くなって、すぐ戻った。戻ってから、浅いままだった。
明るいところで寝る寝方だった。三年、そうしてきた人の寝方だった。瞼が、六つの明かりを、閉じたまま受けている。把握が、瞼の上の光の重さまでは返さない。返さないものを、俺は、見ていた。
四十分で、事務所の人が呼びに来た。
彼女は起きた。起きて、指を折った。親指から。小指で、開いた。数は、合っていなかった。
「寝た?」
彼女が、俺に訊いた。
「……浅かったです」
「そっか」
彼女は、手袋の指を一本ずつ引っ張って、立ち上がった。明かりは、六つとも、ついたままだった。消すスイッチは、今日も見つからなかった。
◇◇◇
二日目の夜。
彼女は、自分で紐の下に座った。
「消して」
俺は紐を引いた。
「消えました」
「ちゃんと消えた」
「はい」
二。
幕間② あなたは、飛ばす
悪いことをしたつもりはない。実際、悪いことではない。
消灯の場面はよかった。
二度目だった。
あなたは親指を上に滑らせる。一回。二回。三回。
止めるところは自分でわかる。字面が変わるからだ。
あなたは何も要求していない。短くしてくれとも、変えてくれとも言っていない。
指が、動いただけだ。
誰も、あなたの指の動きなど見ていない。




