第4章 乗算
三日目に、彼女はおにぎりを二つ持ってきた。
突き当たりの崩れた石に腰かけて、片方を俺のほうへ差し出す。理由は言わなかった。俺も訊かなかった。ツナマヨだった。次の日も、その次の日もツナマヨだった。
「他の、食べないんですか」
「これがいちばん、包みが破りやすい」
そう言って彼女は、海苔の帯を横に引きちぎった。米が三粒、床に落ちた。
俺は自分のぶんの包みを開けて、彼女の前に置いた。彼女は少し黙ってから、それを取った。
◇◇◇
俺は、彼女より一時間早く行くようになった。
理由は、言っていない。
突き当たりの手前から、天井と両側の壁を全部叩く。崩れた石の山も、下から順に叩く。前の日と返りが変わっていないかを確かめる。
あの日の壁は、二日待っていた羽虫だった。あれが三日目だったら、彼女は眠っている最中に囲まれていた。
魔物はいない、というのは登録の話だ。羽虫は、数えられていない。
同じことが、あと三十七本ぶんの通路のどこかで起きる可能性がある。
だから、毎日叩く。一時間かかる。それだけのことだ。
突き当たりの壁に、彼女の背中のぶんだけ、苔が薄くなっているところがあった。俺はそこを、地図に書かなかった。
球は、彼女が来る前に消す。消した球は、鞄の底に入れる。明かりは、別に持ってきた。文房具屋で売っている、ライトだけの小さいやつだ。床に置くと、天井まで届かない。届かなくても、困らない。
彼女がフードを取って座る頃には、俺はもうノートを広げて、何もしていなかった顔をしている。
◇◇◇
彼女は四十分眠る。
俺が地図を書きはじめると、いつのまにか壁にもたれて息が深くなっている。俺のノートのページをめくる音でも起きない。石を踏む音では起きる。前に一度、それで喉に刃を当てられた。
「明かり、消してくれる?」
最初の日に、彼女はそう言った。
「暗いと、寝れます?」
「暗いと寝れるの。三年、明るいところで寝てたから」
三年。俺はその数を、口の中で転がした。
四日目に、彼女はこう言った。
「寝るまで、なんか喋ってて」
「なにをですか」
「壁の」
「壁の話をすると、寝ますか」
「寝る」
俺は、南三本目の水の話をした。三日に一度だけ量が増えること。増える日の前の晩は、返りが半拍ぶん鈍ること。
喋っているあいだ、彼女の左手が動いていることがあった。
膝の上で、指を親指から順に折っていく。小指まで折ると、開いて、また親指に戻る。
俺が数を言うところと、指が折れるところは、合っていない。
訊かなかった。訊くと、やめてしまう気がした。
六分で、彼女の息が深くなった。
俺は、そこで喋るのをやめた。やめてから、この人が眠るのを見ているのは失礼な気がして、ノートに目を戻した。
目を戻したまま、俺は自分がまだ喋りたかったことに気づいた。
◇◇◇
眠っているあいだ、俺は彼女の手を見た。
明かりはない。それでも、把握は輪郭を返してくる。
左手。親指の付け根と、人差し指の第二関節に、皮が厚く盛り上がっている。爪は四枚が縦に割れていて、そのうち二枚は根元まで走っていた。割れていないのは、一枚だけだった。
右の手首に、細い傷が三本ある。古い。
交差点の壁面に映る彼女の手は、そうなっていない。あの手はいつも、白くて、指が長くて、まっすぐだ。
俺は誰にも言わなかった。十一人にも言わなかった。
◇◇◇
夜の配信は、いつもどおりやった。
見返す映像は、彼女が来る前の一時間ぶんだけだ。天井を叩いて、壁を叩いて、石を叩く。それだけが映っている。
「はい、こんばんは。解析枠の、鳴海です。今日は外れの、南の三本目です」
〈今日も外れ〉
〈シキの外れの時間〉
〈五年目〉
「五年と二か月です」
〈今日も一時間で切れてたね〉
みかん箱さんだった。あの日、〈え〉が一つだけ出て消えてから、外れの昼の枠は、毎日、一時間で切れている。
「球の調子が、悪くて。あと、南の三本目は、三日に一度、水が増えるんですよ。今日は、増える日の前だったので」
〈聞いてない〉
〈あの日から?〉
「……はい」
〈弁償だなぁ〉
〈八千円の球の弁償っていくら〉
〈知らん〉
嘘は、二回目もつるっと出た。つるっと出たことを、俺は自分で聞いていた。
石けんさんが〈なんかあった?〉と打った。
「なにがですか」
〈最近、声が明るい〉
俺はナイフを持ち替えるふりをして、二秒稼いだ。
「壁の音が、よく揃う日が続いてるので」
〈ふーん〉
ふーん、の三文字が、こんなに長く画面に残ることがあるのかと思った。
数字は十一のままだった。
その週、深夜二時さんは一度も打たなかった。
毎晩、入ってはいる。名前は出ている。何も打たない。
俺は三日目に「深夜二時さん、生きてますか」と訊いた。返事はなかった。四日目にはもう訊かなかった。
名前の欄が空いている人は、その週も、俺が締めてから一分くらい残っていた。
◇◇◇
六日目に、床が落ちた。
音の返りが、南の三本目だけ一日ごとに薄くなっていた。俺はそれを「湿りが増えた」とノートに書いた。
朝、一時間かけて叩いたときは、床は叩いていない。
俺が毎日確かめていたのは、壁と天井だけだった。
前の日に、床の話が出ていた。
「ここ、平気だよ」
彼女は言った。
「毎日寝てるもん。落ちるなら落ちてる」
俺は頷いた。
彼女がおにぎりの包みを開けたところで、足の下が、ひとつ息を吐いた。
「動かないで」
俺が言い終わる前に、石畳が斜めに折れた。
落ちた。二人とも。
◇◇◇
背中から着地して、肺の空気が全部出ていった。
落下は四メートルもなかったと思う。問題はそこじゃなかった。
真っ暗だった。
床のライトは、落ちる途中でどこかへ転がって、消えた。鞄は、肩から抜けて、俺より先に落ちた。底で何かが割れる音を、俺は着地する前に聞いた。球だ。月八千円の、前の借り主の指紋のついた球が、鞄の底で、割れた。
彼女が立ち上がる音がした。鞘を拾う音。
「明かり、ある?」
「壊れました」
「そう」
その一言で、彼女の声から温度が抜けた。
空気が動いた。上からじゃない。横からだ。俺は膝をついたまま、壁と床と天井の返りを取った。
広い。第一層の三倍は天井がある。そして、返ってこない。壁が返さないんじゃない。壁の手前で、何かが吸っている。
「美波さん」
「うん」
「三十以上います」
「見えない」
「はい」
「わたし、見えないと当たらない」
彼女はそう言った。
俺は、自分の心臓の音がうるさくて、一度息を止めた。止めると、よく聴こえた。
「右、四十五度、二歩半」
彼女が動いた。刃の音。空振り。
「……ずれた」
外したんじゃない。遅れたんだ。
俺の声が届く。彼女がそちらを向く。向いてから、耳で確かめる。何かがいる音を拾って、それから振る。
確かめる時間が、そのぶんだ。
半拍だった。
「美波さん」
彼女の呼吸が、乱れていた。腕をやられている。匂いでわかった。
「目、閉じてください」
「は?」
「確かめないでください。俺が言ったところに、いるので」
沈黙が、たぶん一秒あった。
「間違えたら」
「死にます」
「うん」
彼女は、それだけ言った。
布が擦れる音。彼女が構え直した。
「左、六十度、一歩」
音の、置き去り。
俺の言葉が終わる前に、もう終わっていた。
「後ろ、真後ろ、半歩」
終わった。
「右、三、二時、四時、順に」
三つ。返事もなかった。振り向く動作すらなかった。彼女は、俺の声を耳で受けてから体を動かしているんじゃなくて、俺の声と同じ時間に動いていた。
俺はもう、方向を言っていなかった。数と、間隔だけを刻んでいた。
三、二、いま、いま、いま。
止まった。
床に、湿ったものが降りきる音がして、それきり何も動かなかった。
俺は、自分がずっと膝をついたままだったことに気づいた。
彼女が座り込んだ音がした。すぐ隣だった。
息が荒い。ぜんぜん整わない。
「今の、なに」
「わからないです」
「わからないの」
「はい」
彼女が笑った。笑い方が下手だった。息が混ざって、途中で咳になった。
「速かった」
「はい」
「わたし、あんなに速くない」
「知ってます。全部観てるので」
言ってから、しまったと思った。暗くてよかった。
「……全部?」
「切り抜きは、全部」
「本編は」
「四層以降は、有料なので」
彼女はまた笑った。今度は咳にならなかった。
「あなた、なんで倒れなかったの」
「え」
「三十匹の真ん中で、座ってたでしょ。逃げなかったよね」
「逃げると、しゃべれないので」
彼女は、しばらく何も言わなかった。
それから、床に手をついた。指先が何かに触れる音。
「おにぎり、潰れてる」
「はい」
「二つとも」
「はい」
彼女は、そのままそこに座っていた。俺も座っていた。
目を閉じたままだった。彼女の瞼の角度が、把握で返ってくる。閉じている。俺が言ったとおりに、閉じたままでいる。開けて確かめることを、彼女はしなかった。
彼女が確かめないでいてくれることが、俺には、便利だった。
「明日も来る」
彼女が言った。
「はい」
「腕、縫うかも」
「病院、行ってください」
「行かない。行くと、記録が残る」
俺は何も言えなかった。彼女の腕から落ちたものが、床の同じ場所を打っている音を聞いていた。
「美波さん」
「なに」
「目、開けていいです」
「……うん」
彼女は、開けなかった。開けたかどうかは、把握でわかる。瞼の角度は、閉じたままだった。
「開けても、同じだし」
彼女が言った。
「ここ、暗いもん」
◇◇◇
ギルドの窓口で、球の弁償額を言われた。
「七万八千円です」
「……分割、できますか」
「二十四回まで」
俺は伝票にサインした。ペンのインクが出なくて、二回、紙の隅で丸を描いた。
「あと、これなんですけど」
窓口の人が、画面をこちらに向けずに言った。
「鳴海さんの証、出力比に異常値が出てて。単独潜行の申請なのに、二人ぶんの動作記録が乗ってます」
俺の指が止まった。
「同行者は」
「登録がないですね。まあ、たまにあるんですよ、機械の誤検知。……ああ、でもこれ、値が変ですね」
「変、というと」
「足し算じゃなくて、掛け算みたいになってる。ええと、なんでしたっけこれ、名前あるんですよ」
彼女は端末を二回叩いた。
「――乗算。はい、乗算です」
「どういうときに出るんですか」
「二人以上が、同じ時間に同じ動きをしたときらしいです。片方が動いて、もう片方がそれを見てから動くと、足し算になるんですって。見ないで、同時に動くと、掛け算になる」
その人は、画面から目を上げなかった。
「年に何件か出ます。だいたい誤検知なので、気にしなくていいです」
「記録は、残りますか」
「残ります。誰も見ません。削除の項目が、そもそもないんです」
その人は、画面を送った。左の手首を返して、内側に着けた時計を見て、また画面に戻した。
「いちばん古いので、二十六年前。開封、ゼロ件」
分割の同意書が、一枚出てきた。弁償の金額と回数が上に印刷されていて、下に、ギルドの契約の抜粋が詰まっている。小さい字だ。同意書はいつもこれが付いてくる。誰も読まない。読むところではない。
俺は、読んだ。
「同時接続による身体への効果は、観測支援として計上し、将来の再生数を担保に貸し付ける」
「これ、借金ですか」
窓口の人が、初めて顔を上げた。
「そういう言い方は、しないです」
「全員ですか」
「全員です。最初からです」
その人は、画面に目を戻した。
「次から、球はぶつけないでくださいね」
「はい」
俺は同意書の控えを折って、内ポケットに入れた。伝票の隣に入った。
階段を降りた。二十二段。数えなくても、二十二段だった。
◇◇◇
その夜、俺は立ち食いの店にいた。
球がないので、配信はできない。休みますと十一人に打って、それだけだった。
いちばん安いのを頼んだ。汁は薄くて、胃の底に温度だけが残る。
店の隅の小さい画面が、勝手についていた。特級迷宮の中継だ。銀色が映っていた。
左腕に、白い布が巻いてある。中継用の照明が当たると、そこだけ光を返さない。
『――今日は、お知らせがあります』
彼女の声だった。画面の彼女の声は、あの通路で聞くのより、半音高い。
『専属の解析役を取ります』
俺は、汁の残った丼を持ち上げたまま止まった。
『鳴海シキさん。第一層の、外れの地図を、五年と二か月書いてる人です』
店の店主が、鍋から顔を上げた。
俺の携帯が、太腿の上で震えはじめた。一度じゃなかった。震えて、止まらなくなった。
画面の隅の数字が、五千万を超えて跳ねていた。俺の携帯の、俺の名前のついたページの数字も、同じ方向に動いていた。
十一。
千二百。
八千四百。
一万二千。
止まらない。
俺は携帯を裏返して、カウンターに置いた。
裏返した携帯が、カウンターの上で震え続けて、少しずつ端のほうへ動いていった。
俺はそれを、指で押さえた。
押さえたまま、もう片方の手で、内ポケットの紙に触れた。折った紙が二枚ある。どちらが伝票で、どちらが同意書か、指の腹でわかる。同意書のほうが、厚い。字が、多いからだ。
それから立ち上がって、券売機の前に行った。
たまごのボタンを押した。
へこんだまま、戻らなかった。
小さい字は、読めた。読めたことを、俺は誰にも言わなかった。




