第3章 銀
採取の仕事は、苔が一キロで千円になる。
一キロというのは、思っているより多い。第一層の壁からナイフで削ぎ落として、袋に押し込んで、また削ぐ。腕を上げっぱなしにするので、二時間で肩が上がらなくなる。
誰でもできる。だから安い。
休みの日は、いつもこれだ。五年、そうしている。
「はい、こんばんは、じゃなくて、こんにちは。解析枠の、鳴海です」
俺は球を浮かべて、袋の口を縛った。
「今日は採取です。壁を削ります。それだけです」
〈それだけ?〉
〈それだけ〉
みかん箱さんと石けんさんが、二秒差で同じことを打った。数字は十一のままだ。あの日から増えても減ってもいない。深夜二時さんの名前は、昼には、ない。
「四キロで四千円です。今日はそこまで行きたいですね」
言ってから、少し恥ずかしくなった。今日の目標を四千円と口に出すのは、思っていたより恥ずかしい。
〈がんばれ〉
〈たまご買えるじゃん〉
ナイフを持ち替えた。左手が、袋のほうへ行く。見ないで行く。袋はいつもそこにあって、手は迷わない。削いだ苔を押し込んで、また右手に持ち替える。
〈手、止まってる〉
「削りながら喋ってるんですよ」
〈両方やろうとするから両方だめなんだよ〉
みかん箱さんだった。
「厳しいですね」
〈事実だよ〉
◇◇◇
三キロを超えたところで、俺は袋を置いて、奥へ歩いた。
第一層の南、通称「外れ」。六年前に崩落があってから、閉鎖されている区画だ。魔物はいない。素材もない。落ちてくる水が多いだけだ。
天井の継ぎ目から糸になって落ちて、床の窪みに溜まって、溜まったぶんが溢れて、次の窪みへ行く。音は壁に当たって、薄く戻ってくる。戻り方が、他の区画より一拍長い。誰も歩かない場所の音は、よく伸びる。
魔物がいないので、映らない。映らないので、誰も来ない。
ギルドの公式地図では、この区画は端から白い。崩れているのではない。誰も見ないので、描き直されない。描き直されないので、古い線から順に消される。先月より、白い部分が一本ぶん広くなっていた。
通路は、どれもよく似ている。壁の材質が揃っていて、天井の高さが変わらず、五歩ごとに同じ間隔で継ぎ目が来る。
「今から、地図の続きをやります」
〈でた〉
〈趣味の時間だ〉
〈五年目だっけ〉
「五年と二か月です」
俺はノートを開いた。方眼のページに、通路が三十七本ぶん書き込んである。誰も歩かない場所の、誰も使わない地図。
一本目のページに、日付が書いてある。
俺は指で月を数えた。
途中で一度、指が止まった。壁を叩いてから返りが来るまでの長さで、止まった。
最初から数え直した。
五年と二か月だった。
紙に書いて数えたことは、一度もない。
金にはならない。ならないから、削られない。
やり方は決まっている。通路の入口に立って、歩数を数えながら奥へ行く。五歩ごとに立ち止まって、右の壁を指の背で二回叩く。返りが来るまでを数える。数えたぶんを、方眼の一マスに書く。
一本の通路を書くのに、四十分かかる。三十七本で、五年と二か月だ。
この地図には、宝の場所も、罠の位置も、書いていない。壁の厚さと、水の量と、天井の高さしか書いていない。
水の量は季節で変わる。変わるたびに、マスを消して書き直す。いちばん書き直したのは南の三本目で、そこだけ紙が薄くなっている。鉛筆を強く当てると破れる。だから、そこは弱く書く。
〈それ、誰かに訊かれたことあるの〉
みかん箱さんが打った。
「ないです」
〈じゃあ要らないじゃん〉
「誰にも訊かれないことと、誰にも要らないことは、違います」
打ってから、しばらく誰も何も打たなかった。俺は、自分が言ったことを、もう一回、口の中で言い直した。同じだった。言い直しても、同じだった。
〈じゃあ、誰に要るの〉
石けんさんだった。
俺は、答えなかった。答えるかわりに、次の通路の入口に立った。
俺は歩数を数えながら進んだ。十二、十三、十四。この区画は壁の材質が均一で、音がよく揃う。だから、少しでも狂うとわかる。
二十六歩目で、音が返ってこなかった。
壁は返す。水は返す。
人は、吸う。
俺は足を止めた。
「……すみません、ちょっと」
球のマイクにそう言って、そこから先は口を閉じた。
◇◇◇
突き当たりだった。
崩れた石が斜めに積まれて、その手前の壁に、背中を預けて座っている人がいた。
コンビニで売っている、薄い水色のウインドブレーカー。フードを目深にかぶって、膝を抱えている。俺は最初、遭難者だと思った。次に、死体かもしれないと思った。
息をしている。眠っている。
それから、俺は膝の横に置かれたものを見た。
鞘だけで、俺の身長の三分の二くらいある。鍔のところに、羽根を折りたたんだような意匠。中学生でも知っている。教科書に載っている。文房具屋にキーホルダーが売っている。
俺は、その場で二歩下がった。
そして、その二歩が失敗だった。
石を踏んだ音がした。
起きなかった。眠ったままだった。眠ったまま、鞘が動いた。
冷たいものが喉に触れて、そこで俺の視界のいちばん端にいた彼女は、もう俺の正面にいた。
フードが落ちた。
銀。
照明のない場所で、それは光っていなかった。周りより明るかった。
「動かないで」
彼女が言った。低い声だった。画面で聞くのより、ずっと低い。
「はい」
「なんで、ここにいるの」
「地図を、書いてます」
「地図」
「五年目です」
沈黙が三秒あった。
「ここ、なにもないよ」
「はい」
「なにもないところの地図を、五年」
「はい」
彼女は、俺の顔を見ていた。刃は動かなかった。
俺は、喉の刃を意識しないようにしながら、次に言うべきことを選んだ。
「あの、それより」
「なに」
「その壁、裏が空です」
◇◇◇
彼女の目が、初めて俺から離れた。
自分が背中を預けていた壁を見た。
「六畳くらい。天井まで抜けてます。底が湿ってるので、羽虫です」
「羽虫って、前から来るやつ?」
「来ません。待ちます」
彼女は俺の顔に視線を戻した。刃は喉から離れていない。
「壁の裏で息を止めて、通り過ぎるのを待つんです。だから、眠ってる人の後ろにいたら、いちばん都合がいい」
「どのくらい待てるの」
「三日くらいは」
「三日」
「今日で、たぶん二日目です」
石が、内側から崩れた。
彼女が動いたのが先だったのか、壁が割れたのが先だったのか、俺にはわからない。俺の把握は、そのとき何も返してこなかった。
銀色が、一度だけ動いた。
それだけだった。
灰色の破片が、床に降った。雨みたいな音がして、それから止んだ。俺は数を数えようとして、やめた。四十匹以上あった。
彼女は鞘に手をかけていた。抜いていなかった。
◇◇◇
彼女は破片をひとつ、爪先で転がした。
「ありがと」
俺は返事ができなかった。喉が渇いていた。
俺は五年、この人を観てきた。交差点の壁面で、立ち食いの店の隅の画面で、〇・二五倍速に落とされて数字を重ねられた切り抜きで、擦り切れるまで再生された一秒で、雨の日の傘の群れの頭上で、その全部で彼女は揃っていて、その揃い方はいつも、二十四機の照明と回り込むレンズと三千万の目が先に確かめたあとのもので、俺のところへ届く頃には、誰かの指で何度も折られた紙みたいに、折り目のかたちに、揃っていた。
いま動いたのは、それじゃなかった。
誰も観ていなかった。
――いや。
彼女が、俺の頭の上を見た。
俺の球が、そこにいた。レンズが動いて、軋む音がした。
彼女は、動かなくなった。
逃げようとも、隠れようともしなかった。体の内側の何かが止まったみたいに、そこに立っていた。犬でも猫でもない、もっと大きい動物が、罠を踏んだあとにする止まり方だった。
俺は手を伸ばして、球の側面を押した。
羽音が止まった。
視界の隅で、〈え〉という文字がひとつだけ見えて、消えた。
球が、俺の掌に降りてきた。浮いているあいだ、それは少し温かい。掌で受けて、鞄の底に入れた。
◇◇◇
暗くなった。俺の球はライトも兼ねていたから、通路は本当に暗くなった。
「なんで消したの」
彼女の声が、正面から聞こえた。
「映りたくなさそうだったので」
「切り抜けば、たぶん、何百万か再生される」
「そうでしょうね」
「あなた、何人観てるの」
「十一人です」
沈黙があった。長かった。
「十一人?」
「はい」
「それを、消したの」
「はい」
彼女は何も言わなかった。それから、床に座る音がした。膝を抱え直したんだと思う。俺も、少し離れたところに座った。
「移動中は映さなくていいの、規約で」
彼女が言った。訊いていないのに。
「本部から三層の入口まで、三時間かかることにしてる。ほんとは四十分」
「二時間二十分」
「うん」
「毎日ですか」
「毎日」
暗いところで、布が擦れる音がした。
「ここ、誰も来ないから」
俺は頷いた。暗くて見えなかったはずだけど、彼女は「うん」と言った。
「あなたの球、レンズ汚れてたよ」
「ああ、指紋です。前に借りてた人の」
「借り物なんだ」
「月八千円です。来月から九千円になります」
「なんで上がるの」
「数字が足りないので」
彼女は、何も言わなかった。
少しして、こう言った。
「そういうふうに、なってるんだ」
◇◇◇
「その壁の話」
彼女が言った。
「はい」
「もう少し、聞かせて」
俺は、口を開けたまま、何も言えなかった。
壁の音の話をしていいですかと訊いて、いいと言われたことが、俺は五年間、一度もなかった。
「……あの、長いですよ」
「いいよ」
「三十分くらいかかります」
「いいって」
俺は、暗闇の中で、自分の指がノートの角を折っているのに気づいて、直した。
だから俺は話した。
壁が返す音が半拍遅れる条件。指の背で二回叩く理由。一回だと自分の骨の音が混ざること。湿りの深さで空洞の広さが変わること。
「なんで二回なの」
彼女が訊いた。
訊きながら、彼女はもう壁に手を当てていた。布の擦れる音でわかった。指の背だった。
「一回目で自分の手の音を出しちゃうんです。二回目は、その残りに乗るので、壁のぶんだけ聞こえます」
「ふうん」
「あと、爪だと硬すぎます。指の腹だと柔らかすぎます。背の、第二関節のところがちょうどいいです」
「それ、誰かに教わったの」
「いえ」
「じゃあ、なんで知ってるの」
「五年やってると、わかります」
彼女は、そこで少し笑ったと思う。
俺は続けた。羽虫が通り過ぎたあとの三歩がいちばん危ないこと。この外れの区画は材質が揃っているから練習にちょうどいいこと。誰も来ないから、間違えても誰にも迷惑がかからないこと。
彼女は、一度も遮らなかった。
途中で二回だけ「それ、どうやってわかるの」と訊いて、俺が答えると「ふうん」と言った。
「ふうん」には、二種類あった。話がそこで終わる「ふうん」と、続きを待つ「ふうん」。俺は三十分で、その聞き分けを覚えた。五年かけて壁の返りを覚えたのと、同じ耳だった。
継ぎ目の話をしたときだけ、どちらの「ふうん」も来なかった。
この区画は、五歩ごとに継ぎ目が来る。継ぎ目の真上だけ、返りが一瞬、二重になる。水は、継ぎ目から先に染みる。俺はそういう話をして、最後に、継ぎ目が好きだと言った。口に出したのは、はじめてだった。
「なんで」
「継ぎ目だけは、作った人がいるとわかるので」
しばらく、返事がなかった。
「作った人」
「はい」
「壁を」
「はい。誰かが、ここまで作って、ここから先を、別の日に作ったんです。五歩ごとに。だから五歩ごとに、一回、手が止まってる」
暗闇で、彼女が壁を叩いた。二回。指の背だった。一回目が強くて、二回目が弱かった。逆だった。
それから彼女は、「そっか」と言った。
◇◇◇
三十分が過ぎて、俺が黙ると、彼女は立ち上がった。
「行かなきゃ」
「はい」
「見なかったことにして」
「はい」
服の埃を払う音。鞘を拾う音。
「名前」
「鳴海です。鳴海シキ」
「シキ」
彼女は、それを一度だけ、確かめるように言った。
「美波」
それだけ言って、彼女は三歩、歩いた。
三歩目で、止まった。
「あなた、暗いの平気なんだ」
「はい」
「見えてないよね」
俺は、間をあけた。一段ぶん。
「……はい」
見えていた。
壁も、石も、積まれた石の角度も、鞘の先が床から何センチ浮いているかも。彼女が、はい、と俺が言ったあとで、顔を右に向けたことも。
空間把握に、光は要らない。
俺は「はい」と言って、彼女の輪郭を把握し続けた。足音は、三歩目から聞こえなくなった。把握は、十一歩目まで返ってきた。十一歩目で、彼女は角を曲がった。
暗闇で、俺は彼女の顔の向きを知っていた。




