第2章 切り捨て
東口の集合場所には、いつも四人が立っている。
今日は五人いた。
俺は横断歩道の手前で足を止めた。信号は青だったから、後ろの人にぶつかられて、それで歩き出した。
五人目は、俺より頭ひとつ小さい男の子だった。制服みたいな黒い上下に、新品の球。球は勝手に高度を調整して、彼の左肩の上でぴたりと止まっている。うちのは、歩くたびに三十センチくらい遅れてついてくる。
「おはようございます」
俺が言うと、レイジさんが顎を引いた。トオルさんは携帯を見ていた。ユキさんは俺を見ない。
「鳴海さん、ですよね」
男の子が先に頭を下げた。
「ソウマです。十六です。あの、アーカイブ、全部見ました」
「全部?」
「二層の壁の音の回、五回見ました。あれで自分、罠の見え方が変わって」
彼の球のレンズが俺のほうを向いて、焦点を合わせた。動作音がしない。俺の球は、レンズが動くたびに小さく軋む。
視界の右下に、彼の数字が並んで表示された。
三万二千。
朝の六時に。
◇◇◇
「話がある」
レイジさんがそう言ったとき、俺はもう荷物を背負い直していた。ギルドの休憩スペースは自販機が三台と長椅子が四つあるだけで、床のタイルが端から浮いている。
レイジさんは座らなかった。俺も座らなかった。
「装備の会社がついた。うちに」
「おめでとうございます」
「三年契約だ。防具の実装データを取る代わりに、遠征費が全部出る」
「すごいですね」
レイジさんは、長椅子の上に置いた書類を見ていた。綴じてある。表紙に会社の名前があって、その下に、ギルドの判が押してある。
「条件がある。編成を、見直せって」
自販機が、勝手にごとりと鳴った。誰も何も買っていない。
レイジさんは書類の最後のページをめくって、署名の欄を見せた。自分の字が、もう入っていた。読んでから入れた字ではない。俺にはわかる。四年、この人の字を見ている。急いだときの「志」の字は、上の「士」が「土」になる。土になっていた。
署名の上に、細かい字が詰まっている。
俺は、それが読める距離にいた。
「観測支援に係る負債の承継」。その一行と、そのあとの三行。肩代わり、という字があった。将来の再生数、という字もあった。
読めた。
言わなかった。
「お前が悪いわけじゃない」
「はい」
「腕の話じゃない。壁の音、あれは、お前しかできない」
「はい」
「数字なんだ」
「はい」
自分の声が、思ったより普通に出た。
レイジさんは、そこで言葉を切った。切ったまま、十秒くらい何も言わなかった。
俺は待った。
「……四年だぞ」
彼は、そう言った。
「はい」
「四年、後ろにいた奴に言うことじゃないんだよ、これは」
「はい」
「わかってて言ってる」
「はい」
レイジさんは、そこで上を見た。
休憩スペースの天井は、配管がむき出しで、蛍光灯が二本切れている。
五秒たって、彼は目を下ろした。
「引き継ぎは、いつまでにやればいいですか」
レイジさんが、初めて俺の顔を見た。
その目に浮かんだものを、俺は名前をつけずに受け取った。
「……今日じゅうに頼む」
「わかりました」
トオルさんは、そのあいだずっと携帯を見ていた。画面には、どこかの隊の崩落の切り抜きが流れている。天井が落ちて、画面が灰色になって、数字が跳ねて、そこでまた最初に戻る。二十秒の繰り返しだ。彼は親指で止めずに、最初に戻るたびに、また見ていた。
出ていくときに、彼が言った。
「悪いな」
顔は上げなかった。
◇◇◇
外に出ると、いい天気だった。
雨のほうが良かった。晴れていると、自分の影が足元にちゃんとあって、それが少しうるさい。
「シキくん」
振り返ると、ユキさんが立っていた。俺を見ていた。三か月ぶりくらいに。
「言い出したの、わたし」
彼女は、言い訳を先に潰す言い方をする。
「そうですか」
「あなたが映ると、数字が止まるの」
風が来て、ギルドの旗が鳴った。
「三層の入口で、あなたが四十秒喋ったでしょう。地質の話。あれ、全部正しかった。正しかったんだよ。でも、あの四十秒で、二千人抜けた」
「知ってます」
「知ってるの」
「毎回、数えてるので」
ユキさんは、俺の襟に手を伸ばした。折れてもいない襟を、折れていたみたいに直した。直ってから、もう一回直した。
その手が、肩の鞄に入った。薄い冊子が、半分出た。表紙に「支える手」とある。端が、鞄の内側の形に丸まっていた。
彼女は、それを出しきらずに戻した。
「……怒らないんだ」
「はい」
「怒ってよ」
彼女はまっすぐ言った。恥ずかしがりもしなかった。
俺は、何も言えなかった。怒り方を探した。壁を叩くときみたいに、指の背を当てて、返りを待った。一段も返らなかった。
「昨日の、手首」
彼女が言った。
「はい」
「あれ、映ってた?」
「……たぶん、映ってないです。球、前を向いてたので」
「そう」
彼女は笑った。
「じゃあ、貼った意味あったね」
俺は、その意味を訊けなかった。
手首の線は、まだあった。袖の下に、昨日のままあった。
「まだ数えてるんだね、歩数」
「一生直らないと思います」
「うん」
彼女はそれから何も言わずに、ギルドのほうへ戻っていった。
自動ドアの脇に、剥がれかけたポスターがある。彼女は通りしなに、その角を二回押さえた。
ポスターは、めくれたままだった。
俺は、彼女の背中が自動ドアに吸われるまで見ていた。見ていることを、誰にも見られていなかった。
◇◇◇
引き継ぎは、ファミレスのドリンクバーで二時間かかった。
ソウマくんは、よく喋る子だった。よく笑う子でもあった。俺の二層のノートを写真に撮りながら、ひとつずつ確認していく。
「羽虫って、前からは来ないんですね」
「来ないです。壁の裏で息止めて、待つので」
「待つ……。えっ、待つんですか、あれ」
「待ちます。だから、通り過ぎたあとの三歩がいちばん危ないです」
彼はそれを、声に出して復唱してからメモした。俺のノートの、四年ぶんの走り書きを。
「なんで声に出すんですか」
「憶えられないんです、目だけだと」
彼は照れた。
「うち、母親がそうで。買い物のとき全部言うんです。たまご、牛乳、ねぎ、って。スーパーの中で。恥ずかしくて三メートル離れて歩いてたんですけど、こないだ自分がやってて。ねぎ、って。自分の声で」
「鳴海さんのアーカイブ、最初は声に出しながら観てたんです。半拍遅い、半拍遅い、って。夜中に。壁の薄いアパートなんで、隣の人に壁を叩かれました」
「すみません」
「鳴海さんのせいじゃないです。でも、あれ、面白くて」
彼はストローの袋を細く折りはじめた。折りながら、まだ喋っていた。
「二回叩かれたんですよ。二回目のほうが、低かったんです。あ、これ鳴海さんが言ってたやつだ、と思って」
「それは、その人の手の音です」
「え」
「一回目でその人の手の音が出ます。二回目は、その上に乗るので、低く聞こえるのは壁じゃなくて、その人の骨のほうです」
「……骨」
「はい」
彼はメモを取った。取ってから、声に出して読んだ。
「一回目は手。二回目が壁。低いのは骨」
「そうです」
「じゃあ俺、隣の人の骨の音を聞いてたんですね」
「そうなります」
彼はテーブルの縁を、指の背で二回叩いた。
叩いてから、こちらを見て、笑った。
「あと、あれも好きです。はい、こんばんは、解析枠の、鳴海です、って。毎回、同じ速さで言うじゃないですか」
「同じ速さですか」
「同じです。五回見たので」
俺は、全部渡した。
壁の音が半拍遅れる条件も、湿った空洞の底の匂いの見分け方も、羽虫の腹の光り方で湿度がわかることも、二層の水が三日に一度だけ多くなることも。
レイジさんが疲れると右に寄る癖も、渡した。
トオルさんが矢を回収するのに一本あたり四秒かかることも、渡した。
ユキさんが札を貼る前に、一度だけ息を止めることも、渡した。
「あの」
彼がメロンソーダを置いて、言った。二杯目だった。
「外れの地図、見せてもらえませんか」
「あれは、役に立たないので」
「役に立たないから、見たいんです」
彼は、本気で言っていた。目が笑っていなかった。十六歳の、まだ何も削られていない顔で、役に立たないから見たいと言っていた。
「……はい」
俺はそう言った。
言ってから、鞄の口を閉めた。方眼のノートは、鞄の底にある。出さなかった。二層のノートだけが、テーブルの上に開いている。
彼はメロンソーダを飲んだ。「はい」を、見せてくれる、のほうに聞いた顔をしていた。
「二層のほう、コピー取っていいですか」
「どうぞ」
「表紙に、名前書いていいですか」
「俺のですか、ソウマくんのですか」
「両方です」
俺は、いいですよ、と言った。
「鳴海さんの配信、なんで伸びないんですかね」
最後に、ソウマくんが本気で不思議そうに言った。
「内容、完璧なのに」
「壁の音の話を三十分するからじゃないですか」
彼は吹き出した。俺も笑った。氷の溶けたメロンソーダが、グラスの底で二層に分かれていた。
悪い子じゃなかった。
◇◇◇
帰りに、ギルドの掲示板を見た。
右下の角は、めくれたままだった。
解析枠の募集は、七件あった。
同時接続三百以上。
同時接続五百以上。
同時接続千以上。
特級隊、同時接続一万以上、要面談。
条件の欄に「解析精度」と書いてある募集は、一件もなかった。
俺は七件を上から下まで二回読んで、それから何も申し込まずに階段を降りた。降りながら、段の数を数えた。二十二段。昨日と同じだった。
降りきったところで、通路は二つに分かれる。商店街の地下へ抜けるほうと、受付とは反対へ折れるほう。反対のほうへ、俺は四年、一度も折れたことがない。用がない。用がないところには、行かない。
商店街のほうへ歩いた。
◇◇◇
夜、いつもの時間に球を浮かべた。
「はい、こんばんは。解析枠の、鳴海です」
数字が、十一で止まった。
十二だったのに、と思った。誰が減ったのかは、わからない。一覧を見れば、いる人はわかる。減った人は、いた場所ごとない。
それだけ確かめて、俺は台本どおりに喋りはじめた。
「今日は、過去の二層の映像を見返します」
〈今日、潜らなかったの?〉
〈二層行くって言ってたよね〉
みかん箱さんだ。俺は口を開けて、閉じて、また開けた。
「休みです」
嘘は、思ったよりつるっと出た。
それから四十分、俺は羽虫の話をした。腹が湿って光る理由と、通り過ぎたあとの三歩の話を。誰も聞いていなくても喋れる話を、選んで喋った。
「今日はここまでです。おつかれさまでした」
締めの言葉を言ってから、俺は指を球のスイッチに置いた。置いたまま、五秒くらい何もしなかった。
「あ。あと」
声が、勝手に出た。
「今日から、あの隊、外れました」
〈は?〉
〈えっ〉
〈なんで〉
〈ふざけんな〉
文字が一気に流れて、消えて、また流れた。十一人しかいないのに、画面が埋まった。
「いや、いいんですよ」
俺は笑った。うまく笑えた。
「数字なんで」
誰も、それには何も打たなかった。
三十秒くらい、誰も打たなかった。
それから、深夜二時さんが一行だけ打った。
〈外れの地図、明日やる?〉
俺は、画面を見た。
「……やります」
〈じゃあいい〉
それきり、その人は何も打たなかった。
数字が落ちていく。十一、八、五、三、二。
一。
一で、止まった。
俺は球をつけたまま立ち上がって、壁のカレンダーに行った。来週の欄に、レイジさんの字で「三層/七時」と書いた紙が貼ってある。先月、忘れるなよと言って渡されたものだ。
剥がした。
セロテープの跡が四つ、壁に残った。
座り直した。
「寝ましょうよ。明日、平日ですよ」
一のまま、動かなかった。
球の電源を落とした。羽音が止まる。
〈じゃあいい〉の四文字が、消えた画面の場所に、まだあるような気がした。画面は黒い。四文字は、ない。俺は黒いところを、しばらく見ていた。




