第1章 十二人
地下二層は、歩くと靴底が鳴る。
水を吸った苔と、錆。天井から落ちた雫が襟から入って、背骨をたどって降りていった。
水の筋は、決まった間隔で落ちてくる。数えていれば、歩数の代わりになる。俺は、歩数のほうを数える。水は、季節で間隔が変わる。
俺は列の最後尾で、歩数を数えている。三十六。三十七。
三十八歩目で、右の壁が黙った。
「レイジさん、止まってください」
先頭の背中が、半分だけ振り返る。
「またか」
「四歩先、右。壁の裏が空です」
「空って、どのくらい」
「六畳くらい。天井まで抜けてます。底が湿ってます」
「何がいる」
「羽虫だと思います。乾いてれば、ただの穴なので」
トオルさんが鼻から息を抜いた。ユキさんは俺を見ない。
レイジさんは、足を止めた。当たった回数が、外した回数より、少しだけ多い。その少しのぶんだけ、この人は止まってくれる。
視界の右下で、数字が動いた。
〈壁の裏、わかるんだ〉
〈石けん〉さんだ。俺の背中を追って浮いている観測球は、ギルドから月八千円で借りている型落ちで、レンズの縁に前の借り主の指紋が焼き付いている。拭いても取れない。誰の指かは、貸し出しの記録に残っていない。同時接続、十二。朝からずっと十二。
「音の返りが遅いんですよ」
俺は誰にともなく答えて、右の壁を指の背で二回叩いた。厚いものは二段で返る。薄いものは一段。ここは、一段の途中で切れる。
レイジさんが斧を持ち替えた。ユキさんが二歩下がる。トオルさんが矢をつがえる。三人の動きに無駄がなくて、俺はいつも少しだけ見惚れてしまう。
壁が、内側から咳をした。
石が割れて、隙間から灰色が噴き出す。羽虫だ。掌ほどの大きさで、腹が湿って光っている。
レイジさんの斧が一往復して、それで終わった。
床に落ちた羽虫を、トオルさんがブーツの先で寄せる。三十匹ほど。気づかずに通っていたら、俺たちは背中から囲まれていた。羽虫は前からは来ない。壁の裏で息を止めて、通り過ぎるのを待つ。
「次から、もっと早く言え」
「はい」
レイジさんは先へ歩き出した。誰も俺のほうを見なかった。礼を言う人もいなかった。言われる仕事ではない。
左の手首に線が入っていた。石が飛んだのだと思う。手袋の縁が濡れていた。
横から、白い紙が来た。
回復札だ。ユキさんは、貼る前に、一度だけ息を止めた。止めて、貼って、指で二回押さえた。それだけだった。俺の顔は見なかった。押さえた指が離れたときには、もう三歩先にいた。
札は、二十秒で剥がれて落ちた。
トオルさんは、矢を回収しながら携帯を見ていた。片手で矢を抜いて、片手で画面を送る。よその隊の配信だ。画面の隅に、六桁の数字が出ている。矢は、一本に四秒かかった。
〈助かったじゃん〉
〈お礼くらい言えよ〉
俺は口の端だけで笑って、歩数を数え直した。一。二。三。
◇◇◇
地上に出ると、雨だった。
レイジさんが、階段を上がりきったところで足を止めた。
空を見た。
この人は、いつもこれをやる。晴れでも雨でも、外に出て五秒だけ、上を見る。
一度だけ、なんで見るんですか、と訊いたことがある。
「地面ばっか見てたからだろ」
答えになっていなかった。それきり訊いていない。訊くと、やめてしまう気がしたからだ。
五秒たって、レイジさんはフードをかぶった。トオルさんは傘を出さずに、携帯を袖の中にしまって歩き出した。ユキさんは、俺の三歩前を歩いた。四年、その距離だった。
◇◇◇
ギルドの受付は、雨の日はいつも混む。濡れた装備の匂いと、番号を呼ぶ声。俺は列の後ろで、手袋を脱いだ。指の股が白くふやけている。
床に、モップの跡がある。
入口から窓口まで、濡れたものを引いた線が、途切れずに続いている。毎日ある。朝いちばんに来ても、もうある。誰が引いているのかは、四年通って、見たことがない。
壁の掲示板の、右下の角がめくれている。前からめくれている。誰も貼り直さない。
ユキさんが、その前を通った。
通りしなに、指で角を二回押さえた。
押さえても、めくれたままだった。彼女は確かめなかった。
俺は、それを四年見ている。訊いたことはない。
掲示板には、その日の切り抜きの上位十本が貼ってある。一位は銀色の髪で、題は「美波、泣く」、数字は千二百万だった。古い切り抜きだ。俺が観はじめるより前からある。先週も一位だった。先々週も一位だった。俺は見ないようにして、見た。
分配は端末が勝手にやる。映った秒数で割るので、壁の裏を聴いている時間は入らない。解析枠の取り分は、だから半額と決まっている。今日は八千四百円だった。球のレンタルの日割りを引くと、七千六百円。
俺の探索者証には、Dと書いてある。上からA、B、C、D、E。
窓口の人が、画面を見ながら言った。
「鳴海さん、同時接続の月平均が三桁に届いてないので、来月からEになります」
「Eになると、どうなりますか」
「解析枠の募集が減ります。あと、球のレンタル料が千円上がります」
少ないから下がって、下がるから少なくなる。よくできている。
「Eの下は」
「ないです」
「切れると」
「三か月で、記録から名前が消えます」
「その後は」
その人は、端末を二回叩いた。左の手首を返して、内側に着けた時計を見て、また画面に戻した。
「清掃に回る方もいます」
「誰が」
「……わたし、見たことないです」
その人は、画面から目を上げなかった。言いにくそうでもなかった。毎日、何人にも同じことを言っているんだと思う。
「わかりました」
俺は伝票を折って、内ポケットに入れた。
階段を降りた。二十二段。降りきった先の通路は、商店街の地下につながっている。雨の日は、こっちから帰る。
◇◇◇
地下から上がると、商店街だった。雨は看板の光をほどいて、路面に流していた。赤が伸びて、黄色が伸びて、俺の靴の先で混ざって、次の一歩でまた別れる。傘を差している人と差していない人が同じ速さで歩いていて、どちらも急いでいないのが、この時間のこの通りだった。
店という店の中で、誰かの配信が流れている。定食屋も、床屋も、電気屋の前も。この街の音は、半分が誰かの実況だ。
立ち食いの店で、いちばん安いのを頼んだ。汁は薄くて、飲むと胃の底に温度だけが残る。カウンターの隅で、球のレンズを手拭いで拭いた。前の借り主の指紋は、何をしても取れない。
〈今日のごはん、それだけ?〉
〈たまごつけなよ〉
「六十円するんですよ、たまご」
俺が言うと、〈みかん箱〉さんが〈六十円くらい出せ〉と打った。〈深夜二時〉さんが〈出せ〉と続けた。
「来月から、球のレンタルが千円上がるんです」
〈出せ〉
「話を聞いてます?」
〈聞いた上で言ってる〉
深夜二時さんは、いつもこうだ。理由を言わない。三文字か四文字で終わる。俺はこの人が何をしている人なのか、四年経っても知らない。昼の枠には来ない。名前のとおりだ。
俺は財布を開いて、たまごを追加した。券売機のボタンが、押すとへこんだまま戻らない。
黄身を割って、麺に絡めた。
「うまいです」
十二人が、うまいですに反応した。それだけのことなのに、店を出るときには背中がまっすぐになっていた。
〈六十円の話まだ引っ張るな〉
石けんさんが、最後にそう打った。
◇◇◇
交差点の壁面が、まるごと画面になっている。
立ち止まったのは、信号が赤だったからだ。俺だけじゃない。傘の群れが、全部そっちを向いていた。
映っていたのは、銀色の髪だった。
美波。名字を言う人はもういない。特級迷宮の第七層、生中継。彼女が剣を振ると、画面の端の数字が跳ねる。同時接続、三千二百四十万。三千二百四十一万。
傘の下で、誰かが息を呑む音がした。
俺は数字ではなく、彼女の目を見ていた。
美波は、レンズを見ていない。レンズの、少し上を見ている。カメラの向こうに何かを探すみたいに、あるいは、そこに天井があるかどうかを確かめるみたいに。
信号が青になった。傘が動き出す。俺も歩いた。
視界の右下、十二。
◇◇◇
部屋は四畳半で、暖房はない。
家賃は三万二千円で、今月はまだ払っていない。大家さんは月末までは何も言わない人だ。だから俺も、月末までは何も言わない。
郵便受けに、ギルドからの封筒が一通あった。機械が刷ったやつだ。宛名の欄には登録番号だけが入っていて、名前は入っていない。先月も来た。その前の月も来た。
裏を返すと、糊の線が一本、引いてある。俺は封の縁に親指をかけて、かけたまま、座卓の脚の横に置いた。そこには同じ封筒が、六通積んである。
七通になった。
濡れた装備を鴨居にかけると、床に点が並んでいく。俺は座卓の前に座って、球を天井に浮かべた。夜の枠は、今日の映像を見返しながら喋るだけの配信だ。誰も来なくても、俺は喋る。
「はい、こんばんは。解析枠の、鳴海です。今日の二層、見返していきます」
映像を三十八歩目まで戻して、止めた。
「ここ、音が半拍遅いんですよ。わかります?」
俺はもう一度再生した。同じところで止めた。三回目で、石けんさんが〈わかんない〉と打った。
「わかんないですよね」
俺は笑った。本当は、誰にもわからないほうがいい。わかる人が増えたら、俺の取り分は半額ですらなくなる。
それでも俺は、壁の音の話を三十分した。羽虫が前から来ない理由と、湿った空洞の底の話と、歩数を数える癖の話を。ギルドの階段が二十二段あることまで話した。
〈それ要る?〉
みかん箱さんが打った。
「要らないです」
〈じゃあ言うな〉
〈言わせとけ〉
〈明日も二層?〉
みかん箱さんが訊いた。
「明日は休みなんで、外れに行きます」
〈でた〉
〈外れ〉
〈あれ何がいるの〉
「何もいないです」
〈じゃあ何しに行くの〉
「地図を書いてます」
俺は、座卓の上のノートを球のほうに向けた。方眼のページに、通路が三十七本ぶん書き込んである。
〈それ、金になるの〉
「なりません」
〈じゃあなんで〉
「なんででしょうね」
俺はノートを閉じた。
「五年やってるんで、いまさらやめるのも変というか」
〈五年〉
〈五年!?〉
みかん箱さんが二回叫んだ。深夜二時さんは、何も打たなかった。
千人いれば、球のレンタルが自前に変わる。三千人いれば、解析枠じゃなく前に立てる。一万人いれば――そこから先は考えたことがない。考えると、今日のたまご六十円が惨めになるから。
「今日はここまでです。おつかれさまでした」
いつもの言葉で締めた。
数字が落ちていく。十二、九、六、四、二。
一。
一で、止まった。
名前の欄が空いている人だ。四年前からいる。コメントを打ったことは一度もない。俺が喋りはじめると入ってきて、俺が締めると、少し遅れて出ていく。
俺は待った。三十秒くらい。
「……まだいるんですか」
返事はない。
「寝ましょうよ。明日、平日ですよ」
一のまま、動かない。
一が、まだ、いる。俺は、誰だか知らない一人に、見られている。俺は壁を叩くときの癖で、その人の部屋の厚みを測ろうとした。球の向こうへ、指の背を二回当てた。返りは来なかった。壁も、水も、人も、その先にはなかった。数字が、一つ、あった。
「じゃあ、消しますね」
球の電源を落とした。羽音が止まって、部屋が急に狭くなる。
鴨居の手袋が、俺の手の形のまま垂れている。指先から落ちた水が、畳の同じ一点を叩いていた。俺はその下に、飲みかけの湯呑を置いた。
音が、やわらかくなった。
視界の右下には、もう何もない。消す前まで、一だった。一で、止まっていた。
幕間① あなたは、開く
あなたは、少しだけのつもりで開く。
部屋は暗い。画面だけが明るい。顔の左側が照らされて、右側は照らされない。
あなたは横になっている。枕の位置が悪い。一度起き上がって、直す。毎晩、直す。
音は小さくしてある。誰かが起きるといけないから。あるいは、誰も起きないから。
画面の中の人が、壁の話をしている。長い。要点がない。あなたは半分しか聞いていない。
閉じない。
画面の下の端に、数字がある。
十二。
あなたは、それを一度だけ見る。
自分がその十二のうちの一であることは、数えない。
コメントは打たない。打とうとしたことは、たぶん、ある。打つと、観られる側に半分だけ移動してしまう気がする。だから打たない。
あなたは、観ている。
観ているだけの人間には、何の責任もない。あなたはそう思っている。
画面の中の人が「今日はここまでです」と言う。
あなたは閉じない。
九。六。四。二。
一。
あなたは、まだいる。
画面の中の人が、まだいるんですか、と言う。
あなたは答えない。答え方を、持っていない。
画面の中の人が、寝ましょうよ、と言う。
画面が、暗くなる。
あなたは、数えられていない。




