第29章 消灯
清掃から帰ると、彼女が鴨居の下にいた。
湯呑を持ち上げようとしていた。指一本ぶんの水が入っている。毎朝、捨てて、戻す。今朝は、捨ててなかったらしい。
曲がる指が、湯呑の縁にかかった。
持ち上がった。
傾いた。
水が、畳に落ちた。湯呑も、落ちた。割れなかった。畳の上で、鈍い音がして、転がって、止まった。
彼女は、それを見た。
笑った。
声を出して、笑った。四畳半で、はじめて湯呑を見たときと、同じ笑い方だった。この家で、声を出して笑ったのは、はじめてだった。
「こぼした」
「はい」
「便利じゃないね」
「はい」
彼女は、湯呑を拾った。二回目で、拾えた。畳の目に合わせて、元の場所に戻した。正確には、戻らなかった。指一本ぶん、右にずれた。
直さなかった。
俺も、直さなかった。
◇◇◇
川の向こうの二階建てには、天井から紐が下がっている。
電球の下で、彼女が、俺の右手を取った。
左手で、取った。指が三本、同じ角度で曲がって、俺の手首で止まった。握っていなかった。乗せていた。
人差し指と、中指を見た。
爪のあった形のまま、乾いた白。
「痛い?」
「痛くないです」
「いつから」
「……わからないです」
彼女は、白いところを、親指の腹でこすった。粉が、落ちた。
「わたしのと、同じだ」
座卓の上に置いた薬指の、断面の粉。石膏を割ったときの粉に似ていて、甘い匂いがした。彼女は、それを見なかった。便利でしょ、と言った。
今日は、見た。俺の指を、見た。
「同じ、ですか」
「同じ」
彼女は、俺の人差し指を、自分の指の背で叩いた。
二回。
一回目と二回目のあいだが、長かった。曲がる指は、同じ速さで二回動かなかった。一回目が遅れて、二回目がもっと遅れた。
「……聞こえた?」
「はい」
「どっち」
「一段です」
「縁と、真ん中で」
「……同じです」
彼女は、ふうん、と言わなかった。
俺の手を離した。離した左手が、膝の上に戻って、指を折りはじめた。親指から。小指で、開いた。また親指に戻った。
数は、合っていなかった。
◇◇◇
彼女は、紐の下に座った。
座らない夜が、ある。今日は、座った。
「消して」
俺は立ち上がって、紐を引いた。
「消えました」
「ちゃんと消えた」
「……はい」
三百六十二。
◇◇◇
暗闇で、三秒あった。
「嘘だよね」
「はい」
「知ってるよ」
「はい」
「……いいよ」
彼女は、それだけ言った。
いいよ、の先に、何もなかった。言い直さなかった。念も押さなかった。天気の話をするときの言い方だった。
俺は、それを受け取った。
受け取って、何も言わなかった。怒り方を探さなかった。探しても返らないことを、知っていた。
彼女は、俺の隣でしか寝られない。俺は、暗闇でしか彼女を見られない。二人とも、それを知っている。知っていて、消して、と言う夜がある。言わない夜がある。言う夜だけ、数える。
◇◇◇
彼女が、横になった。
布が擦れた。膝を抱える音。左が、指一本ぶん高い。左手が、布団の外に出た。薬指は、他の四本と同じ角度で、布団の凹みに沿って曲がっていた。
俺は、座卓の前に座っていた。
「美波さん」
「……なに」
「二人で独り、ですね」
俺が、言った。
三回目だった。外れの突き当たりで、一回。同じ突き当たりで、継ぎ目がなくなってから、一回。どちらも、彼女の口から出た。俺は、訂正しなかった。切り抜きのテロップだけが、二人きり、に直した。
今日は、俺の口から出た。
二人きり、と言うつもりは、なかった。二人で独り、と言うつもりで、言った。
彼女は、何も言わなかった。
寝たのだと思う。息が、深くなった。
◇◇◇
俺は、把握を止めなかった。
紐は、もう揺れていない。膝の角度。左手。肩が上がって、下がる。曲がる指が、布団の端を掴んでいる形のまま、掴めていない。
止めないことを、彼女が知っている。
知っている暗闇で、見ている。
見られると壊れる。見られないと消える。彼女は、壊れながら消えないほうを選んでいる。選んでいるのは、俺かもしれない。わからない。わからないまま、明日もある。
俺が、言った。




