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誰も見ていない  作者: ナオ
第三部 消して
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29/30

第29章 消灯

清掃から帰ると、彼女が鴨居の下にいた。


湯呑を持ち上げようとしていた。指一本ぶんの水が入っている。毎朝、捨てて、戻す。今朝は、捨ててなかったらしい。


曲がる指が、湯呑の縁にかかった。


持ち上がった。


傾いた。


水が、畳に落ちた。湯呑も、落ちた。割れなかった。畳の上で、鈍い音がして、転がって、止まった。


彼女は、それを見た。


笑った。


声を出して、笑った。四畳半で、はじめて湯呑を見たときと、同じ笑い方だった。この家で、声を出して笑ったのは、はじめてだった。


「こぼした」


「はい」


「便利じゃないね」


「はい」


彼女は、湯呑を拾った。二回目で、拾えた。畳の目に合わせて、元の場所に戻した。正確には、戻らなかった。指一本ぶん、右にずれた。


直さなかった。


俺も、直さなかった。


◇◇◇


川の向こうの二階建てには、天井から紐が下がっている。


電球の下で、彼女が、俺の右手を取った。


左手で、取った。指が三本、同じ角度で曲がって、俺の手首で止まった。握っていなかった。乗せていた。


人差し指と、中指を見た。


爪のあった形のまま、乾いた白。


「痛い?」


「痛くないです」


「いつから」


「……わからないです」


彼女は、白いところを、親指の腹でこすった。粉が、落ちた。


「わたしのと、同じだ」


座卓の上に置いた薬指の、断面の粉。石膏を割ったときの粉に似ていて、甘い匂いがした。彼女は、それを見なかった。便利でしょ、と言った。


今日は、見た。俺の指を、見た。


「同じ、ですか」


「同じ」


彼女は、俺の人差し指を、自分の指の背で叩いた。


二回。


一回目と二回目のあいだが、長かった。曲がる指は、同じ速さで二回動かなかった。一回目が遅れて、二回目がもっと遅れた。


「……聞こえた?」


「はい」


「どっち」


「一段です」


「縁と、真ん中で」


「……同じです」


彼女は、ふうん、と言わなかった。


俺の手を離した。離した左手が、膝の上に戻って、指を折りはじめた。親指から。小指で、開いた。また親指に戻った。


数は、合っていなかった。


◇◇◇


彼女は、紐の下に座った。


座らない夜が、ある。今日は、座った。


「消して」


俺は立ち上がって、紐を引いた。


「消えました」


「ちゃんと消えた」


「……はい」


三百六十二。


◇◇◇


暗闇で、三秒あった。


「嘘だよね」

「はい」

「知ってるよ」

「はい」

「……いいよ」


彼女は、それだけ言った。


いいよ、の先に、何もなかった。言い直さなかった。念も押さなかった。天気の話をするときの言い方だった。


俺は、それを受け取った。


受け取って、何も言わなかった。怒り方を探さなかった。探しても返らないことを、知っていた。


彼女は、俺の隣でしか寝られない。俺は、暗闇でしか彼女を見られない。二人とも、それを知っている。知っていて、消して、と言う夜がある。言わない夜がある。言う夜だけ、数える。


◇◇◇


彼女が、横になった。


布が擦れた。膝を抱える音。左が、指一本ぶん高い。左手が、布団の外に出た。薬指は、他の四本と同じ角度で、布団の凹みに沿って曲がっていた。


俺は、座卓の前に座っていた。


「美波さん」


「……なに」


「二人で独り、ですね」


俺が、言った。


三回目だった。外れの突き当たりで、一回。同じ突き当たりで、継ぎ目がなくなってから、一回。どちらも、彼女の口から出た。俺は、訂正しなかった。切り抜きのテロップだけが、二人きり、に直した。


今日は、俺の口から出た。


二人きり、と言うつもりは、なかった。二人で独り、と言うつもりで、言った。


彼女は、何も言わなかった。


寝たのだと思う。息が、深くなった。


◇◇◇


俺は、把握を止めなかった。


紐は、もう揺れていない。膝の角度。左手。肩が上がって、下がる。曲がる指が、布団の端を掴んでいる形のまま、掴めていない。


止めないことを、彼女が知っている。


知っている暗闇で、見ている。


見られると壊れる。見られないと消える。彼女は、壊れながら消えないほうを選んでいる。選んでいるのは、俺かもしれない。わからない。わからないまま、明日もある。


俺が、言った。

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