第28章 ゼロ
球は、ギルドに返した。
窓口の人が、箱に入れて、判を押した。事務所の球だ。動作音がしなくて、レンズに指紋のないやつ。俺が借りていた型落ちは、もうない。壊れて、七万八千円が一行で消えた。
「返却、受け付けました」
画面から、目を上げなかった。
「あと、観測支援の残高ですけど」
「はい」
「失効から三か月で、記録から名前が消えます。消えると、請求先がなくなるので、残高も、一緒に消えます」
「……消えるんですか」
「名前がないと、請求できないので」
その人は、端末を二回叩いた。左の手首を返して、内側に着けた時計を見て、また画面に戻した。
「乗算の記録は、残ります。削除の項目が、そもそもないんです。前にも言いましたよね」
「はい」
「いちばん古いので、三十年前。開封、ゼロ件」
画面を送る音がした。
「鳴海さんのも、ゼロ件です」
四年前、この人は、これ、借金ですか、と訊かれて、そういう言い方はしないです、と言った。今日は、名前がないと請求できない、と言った。どちらも、画面を見たまま言った。
借りたものは、名前と一緒に消える。名前がなくても残るのは、誰も開けない記録だけだ。二人が、同じ時間に、同じ動きをしたこと。見ないで、同時に動いたこと。それだけが、削除の項目を持たないまま、三十年前からの列の、いちばん下に並んでいる。
「次の方」
俺の後ろに、誰もいなかった。その人は、誰もいない列に向かって、次の方、と言った。
箱の中で、レンズが、俺のほうを向いていた。三年、俺の背中を追って浮いていたレンズだ。俺は、そこに指を当てなかった。当てれば、指紋が残る。残った指紋が、次の借り主に渡る。誰の指かは、記録に残らない。
当てなかった。
残らなかった。
◇◇◇
配信は、古い携帯でやる。履歴にソウマと残っている携帯だ。内カメラは、暗いと何も映さない。
失効者の配信に、数字は出ない。
表示は、ゼロ。
ゼロの意味は、誰も見ていない、ではない。数えていない、だ。失効者の画面は、数えない。見ている人がいても、ゼロ。いなくても、ゼロ。
どちらなのか、俺にはわからない。
一覧も、ない。名前の欄が空いている人が、少し遅れて出ていく場所が、ない。深夜二時さんの名前が並ぶ場所も、ない。隣で、彼女が寝ている。携帯を顔の横に置いていない。置く画面が、ない。
◇◇◇
「はい、こんばんは」
画面は黒かった。声だけが入る。
「解析枠の……」
そこで、止まった。
「いや。清掃の、鳴海です」
言い直した。言い直したほうが、正しかった。証は失効した。解析枠の募集に、俺の名前は出ない。朝いちばんに来て、入口から窓口まで、濡れたものを引く。清掃の、が正しい。
正しいことが、いちばん嫌だった。
「今日は、北の外れの話をします」
◇◇◇
北の外れには、清掃で回された。
閉鎖の理由になった崩落は、南だけではなかった。北にも、閉鎖された区画がある。魔物はいない。素材もない。映らない。入口の脇に、石が積んである。膝の高さまで。積んでいるのは、灰色の作業着の人たちだ。名前はない。
三人いた。俺を入れて、四人。誰も喋らなかった。拳の石を拾って、置いて、手を離す。置いてから、手を離すまでに、間があった。全員、同じ間だった。
何のために積むのかは、誰にも訊かれなかった。訊く人が、いなかった。
俺は、石を積む前に、入口から二十メートル、歩いた。
五歩ごとに叩いた。
「入口から五歩目で、一段です。十歩目も一段。十五歩目で――」
俺は、そこで息を吸った。
「半拍、遅れます」
ゼロの画面に向かって、俺は言った。
「継ぎ目です。北の外れには、まだ、あります。南には、もうないです。南は――」
言いかけて、やめた。
「南は、全部、一段で返ります。北は、二十メートルのあいだに、継ぎ目が四つあります。五歩ごとです。作った人がいると、わかります」
ゼロのままだった。
「二十メートルのところで、天井の継ぎ目から落ちる水が、床の窪みに溜まってます。窪みが二つあって、手前のほうが先に溢れます。溢れた水が、次の窪みに届くまでに、靴で三歩あります」
ゼロのままだった。
「ノート、開きます」
俺は、鞄から方眼のノートを出した。三十七本目の、次のページ。白い。何も書いていない。
北、一本目、と書いた。
入口から二十メートル。五歩ごとに、一マス。四マスぶん。一本の通路を書くのに、四十分かかる。二十メートルなら、十分で足りる。
十分で、四マス、埋まった。
その先は、白い。清掃の範囲が、二十メートルまでだからだ。四マスの右に、方眼が続いている。続いているが、俺は、そこに入れない。
「四マスです。今日は」
ゼロに向かって、言った。
三十分、話した。
◇◇◇
あと十五分ぶん、話す予定があった。
話した。
湿った空洞の底の匂いは季節で変わって、春は土が先に来て、夏は水が先に来て、秋は落ち葉が水面にまだ届いていないのに匂いだけが先に沈んでいて、冬は全部が薄くなるかわりに自分の息が混ざって、息が混ざると返りが半拍鈍って、鈍ったぶんが自分の体温のぶんだとわかるのは冬だけで、だから窪みを測るなら冬がいちばんいいと俺は思っていて、それを五年、誰にも訊かれないまま思っていて、いま言って、言い終えて、次の窪みに移った。
十五分は、ちゃんと十五分あった。
◇◇◇
匂いの話の終わりに、もう一つ、言った。
「誰にも訊かれないことと、誰にも要らないことは、違います」
二度目だった。
四年前に、十一人に言った。言ってから、口の中で言い直した。同じだった。今日も、口の中で言い直した。同じだった。
◇◇◇
十五分が、終わった。
「今日はここまでです」と言う場所だった。
言わなかった。
「それで、二十メートルの先なんですけど」
四十五分になった。
「二十メートルから先は、まだ行ってないです。清掃の範囲が、二十メートルまでなので」
一時間になった。
「南の、継ぎ目があった頃の話なんですけど」
南の三本目の話をした。三日に一度だけ水が増えること。増える日の前の晩は、返りが半拍ぶん鈍ること。紙が薄くなるまで書き直したこと。今は、増えないこと。
一時間十分。
終わらなかった。
終わらせる言葉を、俺は持っていた。四年、毎晩言った。今日はここまでです。おつかれさまでした。
持っていて、出さなかった。
◇◇◇
「それで、ええと、清掃の――」
自分の名前を言おうとした。
なるみ、と口は言った。言えた。口は、憶えていた。
字が、出てこなかった。
鳴、は出た。海、が出てこなかった。氵の右が、白かった。急いだときに右に傾く字が、傾くための線を持っていなかった。
壁を叩いて、返りを待つ長さで、待った。
出てこなかった。
俺は、携帯を置いた。
画面を下にして、座卓に置いた。配信は切らなかった。黒い画面が、座卓の天板を映している。
それから、台所に行って、湯を沸かした。
◇◇◇
彼女が、隣で寝ていた。
布団の上で、横になって、左手で、布団の端を掴んでいた。
掴めていなかった。
指が三本、同じ角度で曲がって、爪のところで止まっている。握力が落ちているので、布団は指の中から抜けている。抜けているのに、指は、掴んでいる形のままだった。
掴んでいるつもりでいる。
俺は、それを見ていた。光はない。把握が、指の角度と、抜けた布団の端と、息の深さを返してくる。
六分で深くなった息が、一時間十分、深いままだった。
◇◇◇
湯が沸いた。
湯呑に注ごうとして、右手を見た。
爪が、二枚、なかった。
人差し指と、中指。痛くなかった。血も出なかった。いつ外れたのかも、わからなかった。爪のあった場所は、乾いていて、白かった。石膏を割ったときの粉に似ていた。
叩いた。指の背を、二回。
一段だった。
縁も、中心も、同じ音だった。
俺は、湯呑に湯を注いだ。
鴨居の下に、置いた。手袋から落ちる水の、下に。音が、やわらかくなった。
◇◇◇
座卓の上で、携帯は、まだ配信をしていた。
画面を下にして、座卓の天板を映して、誰にも数えられないまま、黒い画面を送っていた。夜の川みたいに、何も映さないまま、何かを、下流へ送っていた。
誰も見ていない。
俺は、携帯を起こした。
「……すみません。続きなんですけど」
ゼロのままだった。
ゼロで、止まらなかった。




