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誰も見ていない  作者: ナオ
第三部 消して
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第27章 あの人

ギルドの床に、モップの跡がある。


入口から窓口まで、濡れたものを引いた線。毎日ある。朝いちばんに来ても、もうある。


俺が引いている。


失効者の映像はない。数字はない。球は返した。誰も、床を引く人間を見ない。四年、俺が見なかったように。


◇◇◇


工場の昼休みは、四十五分ある。


食堂の、窓際のいちばん端の席。あの人は、そこに座る。弁当の蓋を開けて、携帯を立てかける。


画面に、白い通路が映っている。


先頭の背中。短い杖。その隣に、銀色の髪。四千万を超えた数字。


あの人は、箸を動かしながら、それを見ている。半分しか見ていない。画面の中の背中が、壁のほうへ手を伸ばす。見ないで伸ばす。


あの人の箸が、止まる。


三秒くらい。


それから、また動く。


俺は、映らない。映らない人を、あの人は見られない。見る場所が、ない。


◇◇◇


休憩の終わりに、あの人は、携帯の画面を一度、切り替える。


履歴の、下のほうにあるページだ。一年半、毎晩開いていたページ。名前の欄が空いている人が、少し遅れて出ていく場所。


開く。


白い画面に、一行。


 該当なし。


あの人は、それを三秒見る。


閉じる。弁当の蓋を閉めて、携帯を作業着の胸に入れて、食堂を出る。


次の日も、開く。


該当なし。


三秒。閉じる。


毎日、開く。出てこないものを、毎日、開く。押さえても直らない角を、押さえに来る人と、同じ動きだった。あの人は、そのことを知らない。ユキさんの手を、見たことがない。


◇◇◇


夜勤の前の夜。


畳。四畳半と、板の間が半畳。鴨居に作業着。胸の刺繍は、あの人の位置からは読めない。


あの人は、布団の上に座っている。膝を立てて、膝にノートを載せている。


表紙が、手の脂で黒くなっている。


開いたページは、罫線だった。方眼ではない。文房具屋で売っている、いちばん安いやつだ。


そこに、線が引いてある。


通路だ。


俺の地図だった。


三十七本のうち、二十一本。記憶で書いてある。一年半、画面の向こうで、半分しか聞いていなかった壁の話を、半分のほうだけ、線にしている。縮尺はない。マス目もない。曲がっているところが、曲がっている。曲がっていないところも、曲がっている。乾いた川の跡みたいに、どこで分かれたのか、線を見ただけではわからない。清書ではない。走り書きだった。


南の三本目のところだけ、線が他より濃かった。何度もなぞった跡だった。


余白に、字があった。


 六十円


 三十八


 二十二段


 通り過ぎたあと、三歩


 半拍


 三日に一度


その横に、少し小さく。


 四日


どちらも、消していない。三日、と聞いた夜と、四日、と聞こえた夜が、並んで残っていた。俺は、三日に一度、と言った。五年、そう言った。あの人の耳には、二つ残っていた。二つとも、そのままだった。


いちばん下に、もう一つ。


 なるみ


ひらがなだった。


あの人は、俺の字を見たことがない。画面の中で、俺は一度も名前を書かなかった。口で言った。はい、こんばんは、鳴海です。口で言ったものが、あの人の耳に入って、ひらがなになった。氵も、その右も、あの人は持っていない。持っていないものを、あの人は書けない。書けないものを、書かなかった。音だけを、書いた。


俺は、この人に地図を見せていない。


ソウマくんにも、はい、と言って、見せなかった。美波が三千万の前で開いた一分四十秒は、美波の中継だった。あの人は、夜の枠しか開かない。十二、十一、と数字の出ていた枠しか、開かない。


あの人が持っているのは、俺の声だけだ。


壁の裏が空です。半拍遅れます。一回目は手、二回目が壁、低いのは骨。


声から、線を引いた。


二十一本。


曲がっているところが、曲がっている。


◇◇◇


ペンが、右手の人差し指の側面に当たっている。毎日、同じところに当たる。


あの人は、二十二本目を引こうとして、止めた。


止めて、ノートを閉じなかった。


枕元に、消しゴムがある。紙の帯が切れていない。角が四つとも立っている。


触らない。


四日、の字も、消さない。


送る場所は、ある。携帯の中に、ある。


送らない。


◇◇◇


あの人は、見ていない。


昼休みに見ているのは、白い通路の背中だ。俺ではない。俺は、どの画面にも、もういない。


憶えている。


憶えているものは、ひらがなで、曲がっていて、三日と四日が並んでいる。


◇◇◇


右上の壁は、どこにもない。


六畳が空になった。机の右上の、何もない壁。読んでる人たち、と呼ばれていた場所。叩いて、返らなかった。吸わなかった。


あの人の部屋は、その壁の向こうにあった。一枚向こうに、あった。


今は、どこにもない。


俺は、あの人の部屋を二段で叩ける距離に、もういない。行けない。行けないことが、望んだ形と、同じ形をしている。


見られたくない。


憶えられていたい。


両方が、いま、叶っている。


叶っていることと、薄くなることが、同じだった。


◇◇◇


あの人は、ノートを枕元に置いた。消しゴムの横に。


横になった。


枕の位置が悪い。布団の中心から、左に拳一つぶんずれている。


一度起き上がって、直す。


毎晩、直す。


見ていない人が、いちばん厚かった。

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