第26章 定規
外れの突き当たりの先は、まだ白かった。
崩れた石を越えた。叩いた。紙の返りだった。一回目の自分の骨の音だけが残って、二回目が、乗る場所を持たなかった。
押した。
破れた。
◇◇◇
六畳だった。
匂いが、なかった。
閉め切った空気も、冷めたコーヒーも、洗っていない毛布も、なかった。人が長い時間いた部屋の匂いが、抜けていた。抜けるまでに、どれだけかかるのかは知らない。
机が一つ。画面が二枚。どちらも消えていた。
キーボードの、いちばん手前のキーを、一つ押した。
画面は、黒いままだった。カーソルは、出なかった。
麦茶は、なかった。三センチ残っていた二リットルが、机の脇にない。薬の箱も、三つとも、ない。
机の上に、紙が一枚あった。
手書きの、二重丸を描いた字。鳴海くんへ。白いのは置いていく。ごめんな。
紙の真ん中に、四角い跡があった。白いものが、そこに載っていた形だ。紙の帯が半分破れて、角が一つだけ丸い、文房具屋で百円で売っているやつが、載っていた形。
なかった。
紙だけが、あった。ごめんな、の上に、四角い跡だけが、あった。誰が持っていったのかは、紙に書いていなかった。
椅子だけが、あった。
十万の椅子。引き出されたままで、背もたれに、コルセットが掛かっていた。腰に巻いていたやつだ。掛けたまま、出ていった形だった。
誰もいなかった。
◇◇◇
机の上に、付箋があった。
画面の縁の五枚は、なくなっていた。歯医者も、シキ=数える/叩く/はい、も、剥がしてあった。
かわりに、赤いのが、六枚。
角が立って、線が細くて、同じ太さで最後まで書いてある字だった。
鳴海:較正値。使用済み
美波:レガシー。済
ユキ:回収済み
書き手:引き継ぎ済み。次の書き手は
その先が、読めなかった。字はあった。字は、あって、読めなかった。
読者:離脱率改善
後継:
六枚目は、それだけだった。後継、の右に、何もなかった。名前を書くところが、空いていた。空いたまま、貼ってあった。
俺は、剥がさなかった。
読んだ。もう一回読んだ。
較正値の横の、使用済み、の字は、他の字と同じ太さだった。同じ太さで、同じ速さで、書いてあった。当番表の赤い線と、同じだった。まっすぐで、途中で一度も途切れていない。
編集さんは、最後まで顔を出さない。字だけだ。悪い人じゃない。作品を良くしている。良くするたびに、何かが――
俺は、そこで壁を叩こうとして、叩かなかった。
◇◇◇
俺は、定規だった。
それは設計ではなくて、事実で、事実だったというのは、赤い紙に書いてあったからではなくて、書いてある前からそうだったからで、地図を三千万の前で開かれたとき、俺は怒らなかったのではなくて、怒れなかったのでもなくて、嬉しかった、嬉しかったのであって、ソウマくんが切り抜いて、元の人、と書かれたときも、嬉しくて、嬉しいことを誰にも言わなかったのは、釣り餌になるからではなくて、嬉しいと言った瞬間に自分が嬉しがる人間だと決まってしまうのが嫌で、決められるのが嫌で、それなのに付箋で癖を決められて、決められた癖を手放せなくて、はい、と言って、叩いて、数えて、美波の指を作り変えたのはうまいからで、うまいことが快くて、快いことを今も手が憶えていて、盤のほうに見ないで手が出て、高さも距離も間違えなくて、間違えないことが誇らしくて、誇らしいことが恥ずかしくて、恥ずかしいまま六時間かけて目を乾かして、乾いたことに満足して、消灯のあとに把握を止めなかったのは、見たかったからで、見ているあいだ見られたくなくて、見られたくないから暗闇で、暗闇なら光は要らなくて、光が要らないことが、俺の、いちばん、卑怯なところで、卑怯だと知っていて三年やって、主役になった子供が死んだときに、もっと観てくれと思って、思ったことを後で自分に許さなかったが、許さなかっただけで、やめなかった、やめなかったのは、観られれば濃くて、濃ければ届いて、七人を階段まで届かせたことを俺は誇りにしていて、誇りにしていることを、その子の名前が変わった夜にも、嘘を一つ数えながら、持っていて、美波の石を――ユキさんの石を、自分の石として数えて、自分のだと思って、と言って、本当に自分のだと思っていて、区別がつかなくて、つかないまま並んで床を拭いて、間隔が同じで、同じだということが、罰なのか、救いなのか、俺にはわからなくて、わからないまま、書き手に礼を言って、あの人に礼を言って、礼を言うたびに自分が何をしているのかわからなくなって、わからないまま、――
わからないまま、ではない。
わかっていた。
わかっていたから、数えていた。数えるのは、憶えるためではなくて、憶えられるためでもなくて、数えていれば、数だけは、誰にも直されないからで、嘘の数は俺のもので、二人で独り、は俺のもので、十四時二十一分の正解です、は俺のもので、直されないものを、俺は、三つだけ持っていて、三つとも、誰にも言えないもので、言えば主観になるもので、言わなければ、薄くなるもので、薄くなるとわかっていて、言わなくて、言わないことを、俺は、選んでいて、選んだことだけが、赤い紙に、書いていなくて――
俺は、そこで息を吸った。
吸って、吐いた。
美波の石、と言った。言い直した。言い直したほうが正しかった。正しいほうを、口が、遅れて出した。
六畳に、誰もいなかった。
言ったことは、どこにも出なかった。右上を見た。壁だった。叩いた。返らなかった。吸わなかった。返すものも、吸うものも、そこにはなかった。読んでる人たち、と呼ばれた場所は、壁だった。
◇◇◇
俺は、十万の椅子に座った。
座面が、誰かの形に凹んでいた。
長く使った枕みたいに、真ん中が沈んで、縁が少しだけ立っていた。
俺の形ではなかった。前に座ったとき、俺の形に少しだけ沈んだ。今日は、沈まなかった。凹みが、俺より先に、別の形で、そこにあった。
書き手の形でもなかった。書き手は、腰が悪い。腰の悪い人の凹みは、後ろが深い。この凹みは、後ろが浅かった。
誰の形かは、わからなかった。
俺は、その凹みに、合わないまま座っていた。合わないまま、背もたれのコルセットが、背中に当たっていた。
俺は、定規だ。それは設計ではなく、事実だった。




