第25章 清掃
外れに、一か月いた。
苔を削って、水を汲んで、夜は崩れた石の手前で寝た。球はない。数字はない。照明はない。
彼女は、よく寝た。六分で息が深くなって、朝まで起きなかった。三年、明るいところで寝ていた人が、一か月、暗いところで寝た。
三週間目に、彼女が言った。
「ツナマヨ」
「はい」
「なんで、ツナマヨだったっけ」
俺は、海苔の帯を横に引きちぎる手を見た。指が三本、同じ角度で曲がる手は、帯を二回で切った。一回では切れなかった。
「包みが、いちばん破りやすいので」
「そっか」
彼女は、米を三粒落とした。
落ちた三粒を、俺は見ていた。石の上に、三粒。拾わなかった。
食べ終わってから、左手を出した。指が四本、こちらを向いている。親指は折ってある。
「叩いて」
俺は、薬指を二回叩いた。
一段の途中で、切れた。
もう一回、指の先のほうを叩いた。それから、第二関節のすぐ上を。
違った。
縁と、中心で、音が違った。岩と同じには、聞こえなかった。
「どう」
「違います」
「なにが」
「縁と、真ん中で」
「ふうん」
終わらせるほうだった。彼女は左手を引っ込めて、膝に戻した。
◇◇◇
家に戻った日、郵便受けに封筒が二通あった。
どちらも、機械が刷ったやつだ。宛名は登録番号。裏に糊の線が一本。
一通は、俺の番号だった。
もう一通は、俺の番号ではなかった。見たことのない番号で、見たことのない番号の人は、この家に一人しかいなかった。
座卓の脚の横には、同じ封筒が十二通ある。この家にも持ってきてある。十二通とも、開けていない。八通目から先は、乗算の通知だ。同じ刷り方で、同じ一行が入っている。出力比異常の記録が保持されています。ご確認ください。確認しなかった。七通目までが何だったのかも、確認しなかった。
十三通目を、俺は封の縁に親指をかけて、かけたまま、置かなかった。
開けた。
はじめて開けた。
紙が一枚。三行。
通知。
三か月。
清掃。
それだけだった。説明はなかった。誰が出したのかも、書いていなかった。乗算の話は、書いていなかった。
俺は、紙の下の、署名の欄を見た。受け取りの欄だ。名前を書くところ。
鉛筆を持った。
鳴。
海、と書こうとして、止まった。
出てこなかった。氵は出た。その右が、出てこなかった。線が、次にどこへ行くのかが、手に来なかった。急いだときに右に傾く字だ。四年、レイジさんの字を見ていたように、俺は自分の字を見てきた。
壁を叩いて、返りを待つ長さで、待った。
出てきた。
海、と書いた。
それから、台所に行って、鍋を火から下ろして、置いた。
もう一通は、彼女が取った。封の縁に親指をかけて、かけたまま、座卓の脚の横の山に置いた。俺のやり方だった。一度も見せたことのないやり方を、彼女は、同じ手つきでやった。
十三通になった。一通は、彼女のだ。
◇◇◇
事務所の人が、来た。
目を見て話す人だ。玄関で靴を揃えて、居間の畳に正座した。紅茶を出すと、両手で受け取って、一口飲んで、置いた。
「球、お預かりに来ました」
「はい」
彼女が、押し入れから球を出した。両手で持った。持ち上げるときに、指が開いて、一度、畳に置き直した。二度目で、持ち上がった。
その人は、それを見た。
見て、何も言わなかった。両手で受け取って、箱に入れた。箱の蓋を閉めるとき、彼女の左手を、もう一度見た。薬指が、他の指と同じ角度で曲がっていた。
「……そうですか」
その人は、そう言った。
何がそうなのかは、言わなかった。レガシーという言葉を、言わなかった。映るだけで、という言葉も、言わなかった。
「鳴海さんのは、失効の手続きと一緒に、ギルドの窓口で」
「はい」
「契約のほうは、来月で一度、整理になります」
「はい」
その人は、頭を下げた。下げてから、紅茶をもう一口飲んで、残した。
玄関で、靴を履きながら、その人は振り返らなかった。振り返らないまま、言った。
「お二人とも、お元気そうで」
ドアが閉まった。
◇◇◇
立ち食いの店の画面に、特級が映っていた。
初踏破の切り抜きだ。白い壁の通路。二十四機の照明。先頭に、苔を削っていた子の背中がある。顔は映らない。手と、ナイフのかわりに持った短い杖と、背中だけだ。
その隣に、銀色の髪が立っていた。
題が出た。
『美波、立つ』
数字は、四千万だった。
画面の中の彼女は、剣を持っていなかった。立っているだけだった。左手が、腰のところで軽く握ってある。指が四本、同じ角度で曲がって、薬指だけが、他の指より、まっすぐだった。目尻は、乾いていた。二十四機の照明の下で、乾いていた。
「戻ったんだねえ」
店主が、鍋から顔を上げずに言った。
「休んでたんだろ、ずっと」
俺は、汁を飲んだ。薄くて、胃の底に温度だけが残った。
画面の中の彼女が、レンズの少し上を見た。そこに天井があるかどうかを確かめるみたいに。俺が五年、交差点の壁面で見ていた目だった。
あの日、彼女は外れにいた。崩れた石の手前で、六分で息が深くなって、朝まで起きなかった。俺は、それを見ていた。光はなかった。把握が、指の角度と、石の角度と、息の深さを返していた。
画面の中の彼女は、立っていた。
俺は、たまごを追加しなかった。
◇◇◇
彼女が、携帯を見ていた。
音は出していない。画面の中で、白い通路があって、銀色の髪があって、立っていた。
「わたし、行った?」
彼女が言った。画面から目を離さずに。
「行ってません」
「行ったことになってる」
「はい」
彼女は、画面を三回戻した。三回とも、同じところで、彼女はレンズの少し上を見た。
「……じゃあ、行ったの」
俺は、何も言わなかった。
彼女は、携帯を伏せなかった。伏せないで、自分の左手を、画面の横に並べた。画面の中の左手と、畳の上の左手。
「あっちのほうが、揃ってる」
彼女が言った。
「はい」
「あっちのほうが、便利」
「……はい」
「ふうん」
終わらせるほうだった。
彼女は、携帯を伏せた。伏せてから、左手の薬指を、右手の親指でこすった。曲がる指を、こすった。
◇◇◇
その夜、彼女は、紐の下に座らなかった。
横になった。
消して、と言わなかった。
俺は、立ち上がって、紐を引いた。消えました、とは言わなかった。訊いた人がいなかった。
数えなかった。
消して、と言わない夜が、ある。言わない夜は、数えない。数えないものは、増えない。言う夜と言わない夜を、彼女がどう分けているのかは、訊かない。訊くと、やめてしまう気がする。
六分で、息が深くなった。
◇◇◇
清掃の初日は、朝の五時だった。
ギルドの裏口で、灰色の作業着を渡された。渡した人の顔は、見なかった。見る位置に、顔がなかった。作業着とモップとバケツが、台の上に置いてあって、取って、着た。胸に、名前の刺繍はなかった。
床に、まだ、モップの跡はなかった。
四年通って、はじめて見た。跡のない床。朝いちばんに来ても、もうあったものが、なかった。
俺は、入口に立った。バケツに水を汲んで、モップを浸して、絞った。
引いた。
入口から窓口まで。一往復ごとに、重なりができる。重なりの間隔は、俺の歩幅だ。
濡れた線が、乾いていく途中で、端から色を変えた。引いたときは黒くて、十分で灰色になって、三十分で、床と同じになる。毎日あったものが、こうやって毎日なくなっていたのだと、引いてから知った。
窓口に、人が来た。七時だった。
画面を見ながら、席に着いた。端末を二回叩いた。左の手首を返して、内側に着けた時計を見て、また画面に戻した。
「清掃の方、そこ、終わったら裏に置いといてください」
画面から、目を上げなかった。
わたし、見たことないです、と言った人だった。四年前。雨の日。清掃に回る方もいます、誰が、わたし、見たことないです。
今日も、見なかった。
「はい」
俺は、モップを裏に置いた。
◇◇◇
ギルドの掲示板の、右下の角がめくれている。
前からめくれている。誰も貼り直さない。
柱の陰から、俺はそれを見ていた。
灰色の作業着の人が、その前を通った。通りしなに、指で角を二回押さえた。
押さえても、めくれたままだった。彼女は確かめなかった。
名前が、もうない。押さえに来る理由も、もうない。回復札を貼る手で、四年、あの角を押さえた人が、札を貼る証を失効して、名前を記録から消されて、押さえに来ている。
俺は、見ていた。見ていることを、数えた。
一。
◇◇◇
ギルドの床に、モップが二本あった。
一本は、俺のだ。
三か月の封筒が来て、証が失効して、映らない仕事に回された。朝いちばんに来て、入口から窓口まで、濡れたものを引く。四年、誰が引いているのか見たことのなかった線を、俺が引く。
もう一本は、柱の陰から出てきた。
灰色の作業着。襟を直す手。
俺たちは、並んで拭いた。
何も言わなかった。入口から窓口まで、一往復ごとに、重なりができる。彼女の跡と、俺の跡が、隣で並んだ。
重なりの間隔が、同じだった。
一。二。三。
揃っているから、数えられた。揃っているのは、引いた二人の歩幅が同じだからだ。
十二。十三。十四。
二十六。二十七。
三十七。
三十八で、彼女が止まった。
俺も止まった。
「ユキさん」
「……なに」
「三十八です」
「……うん」
「右の壁が黙ります」
「壁の話、しないでよ、ここで」
「はい」
彼女は、モップを引きはじめた。俺も引いた。窓口まで、あと十二歩だった。
◇◇◇
窓口の前で、レイジさんが通った。
特級の二番手の隊の装備で、斧を背負っていた。俺たちを見なかった。床のモップの跡を踏まないように、跨いで通った。
自動ドアが開いた。
外は、晴れていた。
彼は、階段を上がりきったところで、足を止めた。
空を見た。
五秒だった。
瑠璃の回廊の地上で、担架のほうを向いたまま見なかった空を、見た。理由は、わからない。訊かない。訊くと、やめてしまう気がする。
五秒たって、彼は歩いていった。
◇◇◇
そのあとで、トオルさんが通った。
携帯を見ていた。右肩が、矢を回収するときの下がり方で下がっていた。
画面に、白い通路が映っていた。苔を削っていた子の背中と、その隣に、銀色の髪。四千万。
彼は、モップの跡を踏んだ。気づかなかった。画面から目を離さずに、窓口へ行って、判を押して、戻ってきた。
戻ってくるときも、踏んだ。
「……悪いな」
誰にともなく言った。
俺は、踏まれた跡を、もう一回引いた。
彼女も、もう一回引いた。
同じ間隔だった。
数えていたのは、俺だった。
幕間⑥ あなたは、数える
あなたは、読むのをやめる。
何かを、思い出しそうになる。
あなたは、自分が憶えている人を数えはじめる。指を折る。
家族。
友達。
前の職場の、名前の出てこない人。
五人目で、少し時間がかかる。
六人目で、止まる。
七人目を、あなたは探す。探せば、いる。顔は出る。名前も出る。
あなたは、指を折らない。
折らなかった理由を、あなたは自分で知っている。
俺も、知っている。俺も、折らなかった。
あなたは、その人のことを、明日には思い出さない。
あなたは画面に戻る。続きが読みたい。
あなたは、指を折らない。




