第24章 外す
ギルドの階段を、二十二段降りた。
受付とは反対に折れた。突き当たりまで行くと、白い扉がある。少し開いていた。
内側に、当番表が貼ってあった。名前の欄が三つ。三つとも、赤い線。二つ目の海の字が、右に傾いている。
部屋は白かった。床も壁も天井も、継ぎ目のない樹脂。叩かなかった。一段だとわかっている。
中央に椅子が一脚。右手の側に、可動式の盤。
俺は、盤を見なかった。
見ないで、右手を出した。高さも距離も、間違えなかった。左から三番目が、指の中に入った。
それから、もっと右の、めったに使わないところにあるやつを、取った。
二つを鞄に入れて、階段を二十二段上がった。
上がりきったところで、床を見た。モップの跡があった。入口から窓口まで。今日も、誰が引いたのか、見なかった。
◇◇◇
外れの入口の脇の石は、百十六になっていた。
積んでいる人は、いなかった。俺は、数えながら通った。彼女は、数えなかった。数えないで、石の山の横を通った。
突き当たりは、誰もいなかった。
板は立っていた。英雄の休息地。ペンキの字は、もう三歩離れると読めない。崩れた石は、崩れたままで、全部、一段で返る。
球は、二つとも家に置いてきた。事務所のも、彼女のも。床に置く小さいライトも、持ってこなかった。
暗かった。
彼女には、何も見えていない。俺には、全部見えている。
彼女は、崩れた石に腰かけた。フードを取った。銀が、周りより明るかった。
「外して」
彼女が言った。
「はい」
「痛い?」
「痛くないです」
「……痛いほうがいい」
「できません。そういう技術なので」
彼女は、暗闇で笑った。
「便利だね」
◇◇◇
「その前に」
彼女が、左手を出した。指が四本、こちらを向いている。親指は折ってある。
「叩いて」
俺は、薬指を二回叩いた。
一段。縁も、中心も、同じ音。岩と同じに聞こえた。
「最後だから」
彼女が言った。
「はい」
「憶えといて」
「はい」
憶えている。白い部屋で、俺がそうした。四畳半で、叩いた。岩より、怖かった。怖かったことを、俺は今も持っている。持っているものを、最後だから、と言われて、もう一度聞いた。
同じ音だった。
◇◇◇
一つ目。左手の薬指。
俺は、彼女の左手を取った。
見ないで、鞄から左から三番目を出した。
器具を当てて、待って、外した。
二十分だった。
血は出ない。音もほとんどしない。外れの水音のほうが大きい。
彼女は、左手を持ち上げた。指を曲げた。第二関節から先が、他の指と同じ角度で曲がった。十一度が、なくなった。
「あ、曲がる」
「曲がります」
「痛くないんだね」
「痛くありません」
彼女は薬指の腹を、親指でこすった。
「便利じゃなくなった」
彼女は、そう言った。恥じなかった。
◇◇◇
二つ目。左の中指と人差し指。
器具を当てて、待って、外した。
「四時間、握れなくなった」
彼女は、そう言って、左手を閉じた。
閉じた手の、指が三本、同じ角度で曲がっていた。閉じきらなかった。爪のあるところで、止まった。
「便利じゃなくなった」
◇◇◇
三つ目。右手。
器具を当てて、待って、外した。
彼女は、膝の横の鞘に、右手を伸ばした。見えていない。置いた場所を憶えている手が、そこへ行って、握った。
持ち上げた。
鞘が、落ちた。
石の上で、乾いた音がした。一段だった。
「あ、いま落ちた」
彼女が言った。
「握力って、じわじわ落ちるんじゃないんですよ」
彼女は、落ちた鞘のほうを向いて言った。見えていない。向いただけだった。
「ある瞬間に、ぱっと落ちるんです。あ、いま落ちた、ってわかるんです」
二十二歳の俺の前で、白い部屋の椅子に座って言った言葉だった。三十一歳の声で、同じ速さで、言った。
「便利じゃなくなった」
俺は、鞘を拾わなかった。
◇◇◇
四つ目。腕の付け根から背中。
彼女は、俺に背中を向けた。
器具を当てて、待って、外した。角度を半度だけ変えて、また当てて、待って、外した。
三時間かかった。
彼女は寝なかった。
暗闇で、背中を向けたまま、喋らなかった。白い部屋では、途中で寝た。起きたときに、あ、寝てました、と言って恥ずかしそうにした。今日は、寝なかった。三時間、起きていた。
二時間を過ぎたところで、一度だけ、言った。
「あなた、見えてるんだよね、今」
「はい」
「わたし、見えてない」
「はい」
「あのときと、逆だね」
俺は、手を止めなかった。
「あのときは、わたしが天井見てて、あなたは手元見てた。今は、わたしは何も見えなくて、あなたは全部見えてる」
「はい」
「……ずるいね」
「はい」
それきり、彼女は喋らなかった。
肩甲骨のあいだを、二回叩いた。
一段の途中で、切れた。
継ぎ目が、戻っていた。
彼女は、何も言わなかった。背中を向けたまま、何も言わなかった。肩が、一度だけ、上がって、下がった。
◇◇◇
五つ目。目。
「開けてください」
「開けてる」
「閉じてください」
「……うん」
俺は、もっと右の、めったに使わないところにあるやつを、出した。
見ないで出した。
器具を当てて、待って、外して、角度を半度だけ変えて、また当てて、待って、外して、そのあいだ俺は彼女の目ではなく目の奥の深さを測っていて、白い部屋で一段ずつ浅くしたところの返りが一段ずつ深くなっていくのを、南の三本目の水が増える晩の半拍鈍る返りを聞き分けるのと同じ耳で聞き分けていて、深くなるたびに次に当てる場所が先にわかって、わかるたびに手が考えより先に動いて、動くたびに工程は縮んでいって――
止まった。
手が、止まった。
四時間を過ぎたところだった。器具は、当たっていた。次に当てる場所は、わかっていた。わかっていて、動かなかった。
指の腹に、返りがあった。
二段だった。
彼女の目の奥から、近いのと、遠いのと。遠いほうの先が、まだ続いていた。白い部屋では、一段だった。俺が一段にした。一段にしたものが、いま、二段で返ってきた。
俺は、それを聞いていた。聞いているあいだ、手が動かなかった。
「どうしたの」
「……いえ」
動いた。
また当てて、待って、外して、そこから先は、待ち時間の長さまで読めて、読めたぶんだけ正確になって、正確になったことに満足していて、それは外れの通路を一本書き終えるときの満足と同じで、同じであることが、今日はじめて、少しだけ、違った。
六時間目の終わりに、最後のひとつを外した。
「開けてください」
彼女は、目を開けた。
照明はない。
水が、出た。
雨樋から落ちる最初の一滴みたいに、遅れて、来た。目尻から、頬へ、一本。左だけ。それから、右。
「泣いてないよ」
彼女が言った。
「はい」
「泣いてないからね」
「はい」
「照明、ないのに出るんだね」
「はい」
誰も、これを切り抜かない。球がない。二千六百万回の『美波、泣く』は、泣いていなかった。誰も見ていない今のは、泣いていない、と彼女が言う。俺は、はい、と言う。
彼女は、水を拭わなかった。左手で、右手で、拭わなかった。拭おうとして、指が閉じきらなかった。
閉じきらない指で、彼女は自分の目尻に触れた。
「濡れてる」
「はい」
「わたしの」
「はい」
それだけ言って、彼女は手を下ろした。便利じゃなくなった、とは、言わなかった。
◇◇◇
彼女は、映れない体になった。
指は揃わない。握力は落ちる。十二時間は続かない。照明の下で、水が出る。三千万に渡せない。
渡さない。
俺は、器具を二つ、鞄に戻した。
彼女は、落ちた鞘のほうへ、手を伸ばした。
見えていない。音のしたほうへ、伸ばした。指先が、石に当たって、鞘に当たった。握った。持ち上げようとして、指が開いた。鞘が、石の上に戻った。
もう一回、握った。
開いた。
三回目は、握らなかった。鞘の上に、手を置いた。置いたまま、動かさなかった。
「重いね、これ」
「はい」
「ずっと、これ持ってたんだ、わたし」
「はい」
「三年」
彼女は、指を折った。親指から。小指まで折って、開いた。また親指に戻った。便利でない指は、折れるところで折れて、開くところで開いた。
数は、合っていなかった。
教科書に載っている鞘が、崩れた石の上に、置いたままになった。
◇◇◇
「ねえ」
彼女が言った。暗闇で、崩れた石に背中を預けていた。
「はい」
「二人で独り、だね」
二回目だった。
俺は、何も言わなかった。
彼女は、言い直さなかった。俺も、言い直さなかった。切り抜きのテロップだけが、二人きり、になっている。ここには、切り抜く球がない。
◇◇◇
外れに、照明はない。
紐もない。床のライトもない。
彼女が、横になった。硬い床を、気にしなかった。
「……消して」
彼女が言った。
紐はない。引くものは、ない。俺は、何も引かなかった。
「消えました」
「ちゃんと消えた」
「……はい」
暗闇で、俺は――




