第23章 後継
予約投稿が尽きた日を、俺は知らない。
知ったのは、交差点だった。
◇◇◇
交差点の壁面に、顔があった。
十七歳の顔だった。制服みたいな黒い上下。新品の球。レンズが動いても、音がしない。
題が出ていた。
『颯太』
その下に、第一話、とあった。数字は一億を超えていた。
傘の群れが、全部そっちを向いていた。風に倒れた草みたいに、一方向に、全部。画面の中で、十七歳が二層の壁を指の背で二回叩いて、こちらを見て、笑った。一回目は手。二回目が壁。低いのは骨。ファミレスで、ストローの袋を細く折りながら復唱した子の口が、同じことを言っていた。
死んだ子が、主人公になっている。
俺は信号が青になるまで見ていた。青になって、渡った。渡りながら、携帯を開いた。履歴の、送り主のところ。
ソウマ。
合っている。俺の携帯は、まだ合っている。
世界は、回っていた。次が始まっていたからだ。三本目がいつ上がったのかは、どこにも出ない。上がった日と、この顔が出た日のあいだに、何もなかったのだと思う。何もないところは、白い。
◇◇◇
家に帰ると、彼女が携帯を見ていた。
音は出していなかった。画面の中で、十七歳が、壁を叩いていた。二回。一回目は手。二回目が壁。
「あの子」
彼女が言った。
「はい」
「あなたが教えたんだよね」
「ソウマくんに、教えました」
「颯太くんに」
「……ソウマくんに」
彼女は、画面を止めた。止めて、俺を見た。
「ソウマくん」
彼女は、そう言った。俺の言ったとおりに、言った。
「二人と、一億だね」
「……はい」
彼女は、画面を消した。消してから、自分の左手を見た。薬指だけが、他の指より、まっすぐだった。
「上手だったね、あの子」
「はい」
「あなたより」
「はい」
「ふうん」
終わらせるほうだった。
◇◇◇
立ち食いの店の隅の画面に、第一層が映っていた。
壁に苔がついていて、それをナイフで削いでいる手があった。袋に押し込んで、また削ぐ。誰でもできる。だから安い。
手の主は、俺より頭ひとつ小さかった。
顔は映っていない。手と、ナイフと、袋だけだ。画面の端の数字が、三千万を超えていた。
「二か月だって」
店主が、鍋から顔を上げずに言った。誰にともなく。
「九人だったのが、二か月で三千万」
俺は、汁を飲んだ。薄くて、胃の底に温度だけが残った。
画面の中の手が、ナイフを持ち替えた。袋のほうに手を伸ばした。
見ないで、伸ばした。
コメントが滝になっていて、読むというより、色が流れていくのを見ている状態だった。
その中で、一行だけ、目に入った。
〈わかんない〉
五文字。句読点がない。疑問符がない。
名前は、石けん、だった。
石けんという名前の人は、四千一人いる。滝の中に、同じ名前が何十も流れていた。〈尊い〉〈神〉〈伸びろ〉。みんな、少しずつ新しい。
この一人だけが、古かった。
四年前から、こう打つ。壁の裏、わかるんだ。わかんない。六十円の話まだ引っ張るな。
それでも観るよ、毎晩、と言った人だった。名前は、もうない。ハンドルだけが、古いまま残っていた。三千万の滝の中で、この一人が、壁の音の続きを探していた。
画面の中の手は、壁の音の話をしなかった。苔を削いで、袋に入れた。それだけだった。それで、三千万だった。
俺は、たまごを追加しなかった。
◇◇◇
事務所の人が、家に来た。
目を見て話す人だ。玄関で靴を揃えて、居間の畳に正座した。紅茶を出すと、両手で受け取って、一口飲んで、置いた。
「合同踏破の依頼が来てます」
「はい」
「美波さんに」
その人は、俺ではなく、彼女を見た。
「後継の子、というか。今、いちばん伸びてる解析枠の子がいて。その子の隊の、特級の初踏破に」
「はい」
「レガシー枠で、と言われてます」
彼女は、何も言わなかった。
「あの人の隣に立つだけでいいんです、と」
その人は、言いにくそうだった。言いにくそうな顔で、正確に言った。
「剣は、振らなくていいそうです。映るだけで、いいんです」
彼女は、自分の左手を見た。
「映るだけで」
「はい」
「いいんだ」
「……そう、言われてます」
その人は、頭を下げた。下げてから、紅茶をもう一口飲んで、残した。
◇◇◇
玄関で靴を履きながら、その人が言った。
「鳴海さん」
「はい」
「球、返しました?」
「返してません」
「よかった」
その人は、それだけ言って、出ていった。何がよかったのかは、言わなかった。
ドアが閉まってから、俺は机の上の赤い紙を思い出した。六畳の、キーボードの手前。角が立って、線が細くて、同じ太さで最後まで書いてある字。
美波:レガシー枠へ。
その通りになっていた。
◇◇◇
告知は、前の晩に出ていた。
携帯で開いた。特級の初踏破。合同。参加隊の一覧が、七つ並んでいる。先頭の枠に、三千万の数字と、新品の球の型番があった。名前の欄は、空いていた。まだ登録していないのだと思う。九人だった頃の名前を、三千万の前で使わないのだと思う。
その下に、一行あった。
レガシー:美波
昨日の晩に、出ていた。
事務所の人が、畳に正座して、紅茶を一口飲んで、映るだけでいいんです、と言ったのは、今朝だった。彼女は、まだ、何も答えていない。
答えていないのに、載っている。
俺は、画面を伏せた。彼女に見せなかった。見せても、彼女は、そっか、と言う。そう言ったっけ、と言ったときと同じ顔で、そっか、と言う。
見せなかったことを、俺は誰にも言わなかった。
◇◇◇
「行ったほうがいいんだよね」
夜、彼女が言った。
「……数字は、そうです」
「あなたは」
「俺は」
俺は、そこで止まった。
止まったまま、窓の外を見た。川の音が、二段で返っていた。
彼女は、待った。続きを待つほうの顔で、待った。
俺は、言わなかった。
◇◇◇
彼女は、布団の上で、左手を膝に置いていた。
俺は、それを見ていた。
薬指。第二関節から先。白い部屋で、俺が左から三番目を見ないで取って、二十分でそうした。便利ですね、と彼女は言った。二十二歳の俺は、何も思わなかった。
これを、三千万に渡す。
渡せば、彼女は映る。映れば、減らない。減らないのは疲れる。疲れた彼女は、外れで眠る。
外れは、もう、継ぎ目がない。
どこで眠ればいい。
俺の目は、彼女の薬指の角度を見ていた。十一度。見る必要のない精度で、見ていた。見ながら、右手が、膝の上で半分閉じていた。盤の上の、いちばんよく使うやつの軸の太さだけ、開いていた。
「ねえ」
彼女が言った。
「はい」
「次、どこにしようかな」
冗談の声だった。語尾が上がっていた。人が冗談を言うときの声を、彼女はちゃんと出せる。
四畳半で、一度言った。あのとき俺は、答えなかった。
「……もう、ないですよ」
今日は、答えた。
「ない?」
「便利にするところ。全部、やりました」
「うん」
彼女は、指を折った。親指から。小指で、開いた。数は、合っていた。
「じゃあ、外して」
「……」
「六回目。外すの」
俺の右手が、膝の上で、閉じた。
「外せます」
「あなたが付けたんだもんね」
「はい」
「六回目、って数えていい?」
「……はい」
「一回目は、いるって思ったの。五回目は、いらなかった。六回目は――」
彼女は、そこで止まった。止まって、自分の左手を見た。
「わかんない」
四畳半で言ったのと、同じだった。痛くないから、もう一回、って思うの、と言ったときの、わかんない。
「外れで」
彼女が言った。
「……継ぎ目、ないですよ、もう」
「うん。だから」
だから、の先を、彼女は言わなかった。
「球、置いてって」
「はい」
「わたしのも」
「はい」
外して、と彼女が言った。渡すくらいなら、と俺は思った。どちらが先だったか、俺は数えなかった。数えられるものを、そのときだけ、数えなかった。
渡すくらいなら、と思った。思ったのは、俺だ。
◇◇◇
夜の配信は、四百人だった。
「はい、こんばんは」
〈こんばんは〉
〈今日も平和〉
「今日は、お知らせがあります」
〈え〉
「明日から、しばらく休みます」
〈えー〉
〈なんで〉
〈次いつ〉
〈次いつ〉
〈次いつ〉
同じ三文字が、一斉に流れた。四百人のうち、何人が打ったのかは、数えなかった。
「……わからないです」
〈わからないって〉
〈次いつ〉
〈次いつ〉
「今日はここまでです。おつかれさまでした」
最後の言葉を言ってから、俺は球のスイッチに指を置いた。
四百、二百、六十、十二、四。
一。
一で、止まった。
俺は三十秒待った。
「……まだいるんですか」
返事はない。
「寝ましょうよ。明日、平日ですよ」
一のまま、動かない。
俺は、球の電源を落とした。
◇◇◇
次の朝、俺は一人で外れに行った。
理由は、言っていない。突き当たりの手前から、天井と両側の壁を全部叩く。崩れた石の山も、下から順に叩く。前の日と返りが変わっていないかを確かめる。五年、そうしてきた。明日、ここで外す。だから今日、叩く。一時間かかる。それだけのことだ。
入口の脇に、石が積んであった。
膝の高さに、近くなっていた。
積んでいる人がいた。灰色の作業着。髪を後ろでまとめている。石を一つ置いて、手を離して、襟を直した。
俺は、立ち止まった。
「ユキさん」
「……うん」
彼女は、こちらを見なかった。次の石を拾った。
「石、何個ですか」
「数えてない」
「百十二です」
彼女の手が、止まった。
「数えてたの」
「はい」
「わたしのを」
俺は、石の山を見た。百十二。九十一のときから、二十一増えた。拳の石を百十二、数えながら積んだ人の歩幅で、並んでいた。
「……自分のだと思って、数えてました」
彼女は、石を置いた。百十三。
襟を直した。
「名前、もう、ないよ」
「はい」
「呼んだね、いま」
「はい」
彼女は、それ以上、何も言わなかった。俺も言わなかった。入った。
突き当たりまで、一時間叩いた。全部、一段だった。変わっていなかった。変わらないことを、確かめた。
渡すくらいなら、と思った。思ったのは、俺だ。




