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誰も見ていない  作者: ナオ
第三部 消して
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22/30

第22章 人形

彼女が、携帯を見ていた。


音は出していない。画面の中で、照明の強い通路があって、銀色の髪があって、その目尻から水が出ていた。〇・二五倍速に落とされて、数字を重ねられた一秒。


題は『美波、泣く』。数字は、二千六百万になっていた。


「わたし、泣いた?」


彼女が言った。画面から目を離さずに。


「泣いてません」


「泣いたことになってる」


「はい」


彼女は、画面を三回戻した。三回とも、同じところで水が出た。


「……じゃあ、泣いたの」


俺は、何も言わなかった。


彼女の記憶が、彼女の口の中で負けた。二人と、二千六百万で。


◇◇◇


彼女は携帯を伏せた。


伏せた携帯の縁から、光が畳に漏れていた。細くて、薄い刃みたいに、畳の目を一本だけ照らしていた。


「ねえ」


「はい」


「わたしね。この三か月、嫌なこと、ほんとに一個もなかったの」


「はい」


「おかしいでしょ」


「……はい」


「わたし、直されたよね」


俺は、顔を上げた。


彼女は、俺を見ていなかった。自分の左手を見ていた。薬指だけが、他の指より、まっすぐだった。


「誰に」


俺は訊いた。


「……わかんない。でも、あなたの隣で、あなたの聞きたいことだけ言ってる」


「はい」


「幸せだもん、って言ったでしょ。あれ、言う前に、もう口が動いてた」


「はい」


「ふうん、って言うときも。続きを待つほうしか出ないの。終わらせるほう、出そうとしても出ない。出し方、憶えてるのに」


彼女は、そこで、やってみせた。


「ふうん」


続きを待つほうだった。


「……ふうん」


続きを待つほうだった。


三回目は、言わなかった。口を開けて、閉じた。閉じた口の形が、終わらせるほうの形をしていた。形だけが、あった。音が、ついてこなかった。


彼女は、立ち上がって、台所へ行った。


戻ってきたとき、手に海苔の袋があった。一枚出して、端を持った。


「見てて」


彼女は、海苔を斜めに引いた。横ではなく、斜めに。破りにくいほうへ、引いた。


まっすぐ、切れた。


もう一枚、出した。今度は、端ではなく真ん中を持って、両手で引いた。


まっすぐ、切れた。


彼女は、切れた海苔を畳に置いた。四枚とも、同じ幅だった。測って切ったみたいに、同じ幅だった。


「破れないの」


彼女が言った。


「はい」


「破ろうとしてるのに」


「はい」


彼女は、左手を閉じて、開いた。


「それ、わたし?」


俺は、答えられなかった。


答えは、持っていた。持っているものは、言えない。言えば、そうなる。


「おにぎり」


彼女が言った。


「はい」


「米、落ちなかったね。昼の」


「……はい」


「外れで、三粒落ちたの。憶えてる」


「憶えてます」


「わたしも憶えてる。憶えてるのに、落ちないの」


彼女は、自分の指を見た。海苔を一回で切った指を。


「わたし、便利になってる?」


「……」


「前より。白い部屋のときより。今、いちばん便利?」


俺は、彼女の膝を見た。昨日、二回叩いた。一段だった。縁も中心も同じ音だった。


「はい」


「そっか」


彼女は、笑った。便利、と言ったときの顔で。


◇◇◇


紐の下に、彼女が座った。


「消して」


俺は、紐を引いた。


「消えました」


「ちゃんと消えた」


「はい」


暗くなった。紐が揺れて、狭くなって、止まった。


三秒あった。


「……嘘でしょ」


彼女の声が、正面から来た。


俺は、何も言わなかった。


「いま、わたし、どっち向いてる」

「……右です」

「手は」

「左手が、布団の外に出てます。薬指が、十一度」

「十一度」

「布団の面に対して」


暗闇で、布が擦れた。彼女が左手を引っ込めた。


「ずっと見てたでしょ。暗くしても」

「……はい」

「最初から」

「はい」

「一回も消えてなかった」

「はい」

「数えてた?」


俺は、間をあけた。一段ぶん。


「……三百十二です」

「三百十二」

「はい」

「今日ので」

「はい」


彼女は、暗闇で黙った。


「何、見てたの。ずっと」


「紐です」


「紐」


「引いたあと、揺れが止まるまで。それから、膝の角度。左が、指一本ぶん高いです。それから、左手。布団の外に出ます。薬指が、十一度。それから、肩が、上がって、下がります。六分で、深くなります」


「六分」


「外れのときから、六分です」


「……それだけ?」


「それだけです」


「毎晩」


「はい」


彼女は、息を吐いた。笑ったのかもしれなかった。暗闇で、把握は、肩の動きしか返さなかった。


「つまんない男」


「はい」


◇◇◇


彼女は、怒らなかった。


暗闇で、膝を抱え直した。左が、指一本ぶん高い。


「便利にしたまま、置いてって、暗くしてからも、見てたんだ」


「はい」


「最悪だね」


「はい」


「……なんで謝んないの」


「謝ると、優しくなるので」


「ふうん」


終わらせるほうだった。


俺は、暗闇で、自分の息が一つ止まるのを聞いた。


戻ってきた。三か月ぶんの続きを待つ「ふうん」の向こうから、終わらせるほうが、戻ってきた。役に立つやつは見せないよ、と言ったあとの音。二分十秒で、と言ったあとの音。


俺は、それが嬉しかった。


自分が最悪だと言われた直後に、嬉しかった。嬉しかったことを、俺は、どこにも言わなかった。


「あなた、いま、笑った?」


「……はい」


「暗いのに」


「はい」


「暗いのに、わかるんだ、わたしにも」


「……はい」


彼女は、それ以上訊かなかった。


◇◇◇


「わたしね」


少ししてから、彼女が言った。


「あなたの隣でしか、寝れないの」


「はい」


「憎いのに」


二度目だった。川の手前の三階で一度。川の向こうの二階建てで、一度。言い方は、変わらなかった。天気の話をするときの言い方だった。


彼女は、横になった。


「消さなくていいよ」


横になったまま、言った。


「……何をですか」


「消さなくていい。知ってるから」


息が深くなるまで、六分だった。


俺は、把握を止めなかった。


紐。膝の角度。布団の外に出た左手。薬指の十一度。肩が上がって、下がる。


止めないことを、今夜は、彼女が知っている。知っていて、寝た。知られている暗闇で、俺は見ていた。見られると止まる人が、見られていると知って、寝た。


見られると壊れる。見られないと消える。彼女は、その両方を身体で持っていて、その両方を知っている男の隣で寝る。解決しない。解決しないから、毎晩ある。


憎いのに、と言って、彼女は寝た。

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