第22章 人形
彼女が、携帯を見ていた。
音は出していない。画面の中で、照明の強い通路があって、銀色の髪があって、その目尻から水が出ていた。〇・二五倍速に落とされて、数字を重ねられた一秒。
題は『美波、泣く』。数字は、二千六百万になっていた。
「わたし、泣いた?」
彼女が言った。画面から目を離さずに。
「泣いてません」
「泣いたことになってる」
「はい」
彼女は、画面を三回戻した。三回とも、同じところで水が出た。
「……じゃあ、泣いたの」
俺は、何も言わなかった。
彼女の記憶が、彼女の口の中で負けた。二人と、二千六百万で。
◇◇◇
彼女は携帯を伏せた。
伏せた携帯の縁から、光が畳に漏れていた。細くて、薄い刃みたいに、畳の目を一本だけ照らしていた。
「ねえ」
「はい」
「わたしね。この三か月、嫌なこと、ほんとに一個もなかったの」
「はい」
「おかしいでしょ」
「……はい」
「わたし、直されたよね」
俺は、顔を上げた。
彼女は、俺を見ていなかった。自分の左手を見ていた。薬指だけが、他の指より、まっすぐだった。
「誰に」
俺は訊いた。
「……わかんない。でも、あなたの隣で、あなたの聞きたいことだけ言ってる」
「はい」
「幸せだもん、って言ったでしょ。あれ、言う前に、もう口が動いてた」
「はい」
「ふうん、って言うときも。続きを待つほうしか出ないの。終わらせるほう、出そうとしても出ない。出し方、憶えてるのに」
彼女は、そこで、やってみせた。
「ふうん」
続きを待つほうだった。
「……ふうん」
続きを待つほうだった。
三回目は、言わなかった。口を開けて、閉じた。閉じた口の形が、終わらせるほうの形をしていた。形だけが、あった。音が、ついてこなかった。
彼女は、立ち上がって、台所へ行った。
戻ってきたとき、手に海苔の袋があった。一枚出して、端を持った。
「見てて」
彼女は、海苔を斜めに引いた。横ではなく、斜めに。破りにくいほうへ、引いた。
まっすぐ、切れた。
もう一枚、出した。今度は、端ではなく真ん中を持って、両手で引いた。
まっすぐ、切れた。
彼女は、切れた海苔を畳に置いた。四枚とも、同じ幅だった。測って切ったみたいに、同じ幅だった。
「破れないの」
彼女が言った。
「はい」
「破ろうとしてるのに」
「はい」
彼女は、左手を閉じて、開いた。
「それ、わたし?」
俺は、答えられなかった。
答えは、持っていた。持っているものは、言えない。言えば、そうなる。
「おにぎり」
彼女が言った。
「はい」
「米、落ちなかったね。昼の」
「……はい」
「外れで、三粒落ちたの。憶えてる」
「憶えてます」
「わたしも憶えてる。憶えてるのに、落ちないの」
彼女は、自分の指を見た。海苔を一回で切った指を。
「わたし、便利になってる?」
「……」
「前より。白い部屋のときより。今、いちばん便利?」
俺は、彼女の膝を見た。昨日、二回叩いた。一段だった。縁も中心も同じ音だった。
「はい」
「そっか」
彼女は、笑った。便利、と言ったときの顔で。
◇◇◇
紐の下に、彼女が座った。
「消して」
俺は、紐を引いた。
「消えました」
「ちゃんと消えた」
「はい」
暗くなった。紐が揺れて、狭くなって、止まった。
三秒あった。
「……嘘でしょ」
彼女の声が、正面から来た。
俺は、何も言わなかった。
「いま、わたし、どっち向いてる」
「……右です」
「手は」
「左手が、布団の外に出てます。薬指が、十一度」
「十一度」
「布団の面に対して」
暗闇で、布が擦れた。彼女が左手を引っ込めた。
「ずっと見てたでしょ。暗くしても」
「……はい」
「最初から」
「はい」
「一回も消えてなかった」
「はい」
「数えてた?」
俺は、間をあけた。一段ぶん。
「……三百十二です」
「三百十二」
「はい」
「今日ので」
「はい」
彼女は、暗闇で黙った。
「何、見てたの。ずっと」
「紐です」
「紐」
「引いたあと、揺れが止まるまで。それから、膝の角度。左が、指一本ぶん高いです。それから、左手。布団の外に出ます。薬指が、十一度。それから、肩が、上がって、下がります。六分で、深くなります」
「六分」
「外れのときから、六分です」
「……それだけ?」
「それだけです」
「毎晩」
「はい」
彼女は、息を吐いた。笑ったのかもしれなかった。暗闇で、把握は、肩の動きしか返さなかった。
「つまんない男」
「はい」
◇◇◇
彼女は、怒らなかった。
暗闇で、膝を抱え直した。左が、指一本ぶん高い。
「便利にしたまま、置いてって、暗くしてからも、見てたんだ」
「はい」
「最悪だね」
「はい」
「……なんで謝んないの」
「謝ると、優しくなるので」
「ふうん」
終わらせるほうだった。
俺は、暗闇で、自分の息が一つ止まるのを聞いた。
戻ってきた。三か月ぶんの続きを待つ「ふうん」の向こうから、終わらせるほうが、戻ってきた。役に立つやつは見せないよ、と言ったあとの音。二分十秒で、と言ったあとの音。
俺は、それが嬉しかった。
自分が最悪だと言われた直後に、嬉しかった。嬉しかったことを、俺は、どこにも言わなかった。
「あなた、いま、笑った?」
「……はい」
「暗いのに」
「はい」
「暗いのに、わかるんだ、わたしにも」
「……はい」
彼女は、それ以上訊かなかった。
◇◇◇
「わたしね」
少ししてから、彼女が言った。
「あなたの隣でしか、寝れないの」
「はい」
「憎いのに」
二度目だった。川の手前の三階で一度。川の向こうの二階建てで、一度。言い方は、変わらなかった。天気の話をするときの言い方だった。
彼女は、横になった。
「消さなくていいよ」
横になったまま、言った。
「……何をですか」
「消さなくていい。知ってるから」
息が深くなるまで、六分だった。
俺は、把握を止めなかった。
紐。膝の角度。布団の外に出た左手。薬指の十一度。肩が上がって、下がる。
止めないことを、今夜は、彼女が知っている。知っていて、寝た。知られている暗闇で、俺は見ていた。見られると止まる人が、見られていると知って、寝た。
見られると壊れる。見られないと消える。彼女は、その両方を身体で持っていて、その両方を知っている男の隣で寝る。解決しない。解決しないから、毎晩ある。
憎いのに、と言って、彼女は寝た。




