第21章 紅茶
川の向こうの二階建てには、天井から紐が下がっている。
一階の居間の真ん中に、電球が一つ。引けば消える。引かなくても、わかる形をしている。四畳半のと同じ形で、四畳半のより長い。天井が高いぶん、紐も長い。
彼女は、それを気に入っている。
◇◇◇
鍵は、事務所の人が持ってきた。
川の手前の三階の、玄関の横のスイッチの下に、その人は立っていた。両手で名刺を出す人だ。鍵も、両手で出した。
「川の向こうに、一軒、空いてます」
「はい」
「紐が、あります」
その人は、そう言った。言いにくそうではなかった。いいことを知らせるときの声で、正確に言った。
三階の部屋を引き払った日のことを、俺は思い出そうとして、やめた。鴨居の下の湯呑は、この家にもある。座卓も、座卓の脚の横の封筒の山も、ある。運んだのは俺のはずで、運んだ手を、俺は憶えていない。
三階で、月に二日が、毎晩になった。全部話した夜の、次の夜からだ。いつまでかは、数えていない。数えているのは、嘘のほうだけだ。
◇◇◇
最初の晩、彼女は、部屋に入ってすぐ、紐を引いた。
消えた。
「消える」
「消えます」
もう一度引いた。点いた。もう一度。消えた。
「ちゃんと消える」
三回やった。消して、とは言わなかった。自分で引いて、自分で見た。
窓を開けると、川が聞こえた。
「二段で返ります」
俺が言うと、彼女は窓に肘をついたまま、こちらを見ないで言った。
「聞き分けなくていいよ、そういうの」
それは、数えなかった。嘘ではなかった。紐を引いたのは、彼女だった。
◇◇◇
朝は、彼女が先に起きる。
台所から湯気が来た。彼女が紅茶を淹れている。ティーバッグを二つ、カップを二つ。湯を注いで、三十秒数えて、袋を引き上げる。数えているのは、声に出さない。唇が動くので、わかる。
窓から、朝の光が入っていた。畳の目に沿って、定規で引いたみたいに、まっすぐ入っていた。
カップが、俺の前に置かれた。
持ち上げた。
飲んだ。
昨日と同じ温度だった。
一昨日とも同じだった。先週とも同じだった。紅茶の温度というものは、湯の温度と、注いでから口に運ぶまでの時間と、カップの厚みで決まる。決まるのだから、同じになる日はある。同じになる日が、三か月続くこともある。
俺は、カップを置いた。
「おいしい?」
「はい」
「よかった」
彼女は、自分のぶんを飲んだ。飲んで、置いた。置いた音が、俺の置いた音と同じだった。
◇◇◇
鴨居の下に、湯呑がある。
四畳半から持ってきた。手袋を干すと水が落ちるので、下に置いている。指一本ぶんの水が、今朝も入っていた。
彼女は、それを持ち上げて、水を流しに捨てて、元の場所に戻した。正確に戻した。畳の目に合わせて、同じ向きに。
四畳半で、はじめてこれを見たとき、彼女は声を出して笑った。
今は笑わない。水を捨てて、戻す。毎朝やることになっているので、毎朝やる。
俺は、それを見ていた。見ていて、何も言わなかった。言うことがなかった。
◇◇◇
昼に、彼女がおにぎりを握った。
台所で、米を手に取って、塩をつけて、握る。三つ。海苔を巻く。ツナマヨだ。他のは、握らない。
俺の前に、一つ置いた。
彼女は、自分のを持って、海苔の帯を横に引きちぎった。
一回で、切れた。
米は、落ちなかった。
畳の上に、一粒もなかった。俺は、畳を見た。見てから、自分のを取って、帯を引いた。一回で切れた。落ちなかった。
「なんで、ツナマヨなんですか」
訊いたことは、あった。答えは知っていた。知っていて、訊いた。
「これがいちばん、包みが破りやすい」
彼女は、そう言った。外れで言ったのと、同じ言い方で。
破りやすい包みは、ここにはない。彼女が自分で握って、自分で巻いた。それでも、同じ理由を、同じ速さで言った。
俺は、食べた。うまかった。
◇◇◇
彼女が、座ったまま、両腕を上げた。
背中を伸ばす動きだった。上着の裾が上がって、左の脇腹が出た。
瑠璃の回廊で、前脚が入ったところだ。抜けてから、左手が行って、戻らなかったところ。
跡が、なかった。
見られた身体は、傷が早く閉じる。閉じることは、知っていた。閉じた跡まで、なかった。皮膚が、継ぎ目なく続いていた。
彼女は、腕を下ろした。
「なに」
「……いえ」
「見てた?」
「はい」
「ふうん」
続きを待つほうだった。
◇◇◇
彼女の球は、押し入れにある。
三か月、出していない。事務所の球と、並べてある。俺のは、夜に三十分だけ出す。彼女のは、出さない。レンズに指紋はない。指紋がつくほど、誰も触っていない。
押し入れを開けるたびに、レンズがこちらを向いている。向いているだけだ。電源は入っていない。入っていないレンズに、俺は一度も指を当てなかった。
◇◇◇
外れへ行った。
電車を二回乗り換えて、第一層の南へ降りる。公式地図には三十七本が公式の太さで引いてあって、端は白くない。人は、いない。瑠璃の回廊の事故から、誰も来なくなった。来ないが、地図は消えない。一度見られたものは、見られなくなっても、すぐには白くならない。
入口の脇に、石が積んであった。
拳くらいの石を、一つずつ。膝の高さには、まだない。
積んでいる人がいた。
灰色の作業着。髪を後ろでまとめている。石を一つ置いて、手を離して、襟を直した。直っている襟を。
俺は、立ち止まらなかった。歩きながら、石を数えた。癖だ。
九十一。
拳の石が九十一、数えながら積んだ人の歩幅で、並んでいた。
彼女は、こちらを見なかった。俺も、声をかけなかった。名前は、もうない。ない名前を、口の中で言った。言って、入った。
◇◇◇
一本目の入口に立った。
歩数を数えながら奥へ行く。五歩ごとに立ち止まって、右の壁を指の背で二回叩く。返りが来るまでを数える。
五歩目。叩いた。
一段。
十歩目。叩いた。
一段。
この区画は、五歩ごとに継ぎ目が来る。継ぎ目の真上だけ、返りが一瞬、二重になる。水は、継ぎ目から先に染みる。五年、そう書いてきた。南の三本目は水が多くて、紙が薄くなるまで書き直した。
十五歩目。
一段。
二十歩目。二十五歩目。
俺は南の三本目に入った。薄いページの通路だ。三日に一度だけ水が増える。増える日の前の晩は、返りが半拍ぶん鈍る。
今日は、増える日の前の晩のはずだった。
叩いた。
一段。
もう一回叩いた。指の背を、強く。
一段。
半拍の遅れが、どこにもなかった。継ぎ目の二重も、どこにもなかった。五歩ごとに来るはずのものが、三十七本のどこにも、来なかった。壁の材質が揃っていて、音がよく揃う区画だ。揃っているので、狂うとわかる。
狂っていなかった。
どこを叩いても、同じ音で返った。
突き当たりまで行った。板は立っていた。英雄の休息地。ペンキの字が、端から薄くなっている。崩れた石は、崩れたままだった。俺は石の山を、下から順に叩いた。一時間かかった。
全部、一段だった。
揃っていた。揃うように、なっていた。
綺麗になっている。
俺はノートを開いて、南の三本目のページを見た。薄い紙に、弱く書いた線がある。五年ぶんの書き直しの跡が、鉛筆の粉で灰色になっている。
書き直さなかった。
ノートを閉じて、鞄に入れた。
◇◇◇
帰りの電車で、俺は壁の話をした。
「南の三本目、今日、増える日の前だったんですよ」
「ふうん」
続きを待つほうだった。
「増えてなかったです」
「ふうん」
続きを待つほうだった。
俺は、続きを言わなかった。言わないで、窓の外を見た。彼女は、待っていた。待ったまま、駅を二つ過ぎた。
「……それだけです」
「ふうん」
続きを待つほうだった。
俺は、もう一回、試した。
「今日、電車が空いてますね」
「ふうん」
続きを、待っていた。電車が空いている話に、続きはない。俺は、その聞き分けを、外れの三十分で覚えた。五年かけて壁の返りを覚えたのと、同じ耳で。役に立つやつは見せないよ、と言ったあとの、ふうん。二分十秒で、と言ったあとの、ふうん。あれは、そこで話を終わらせる音だった。
今日は、一度も来なかった。
三か月、来ていない。
◇◇◇
夜、二階の窓を開けると、川の音がする。
水の音は、壁より返りが長い。岸の石に当たって、石のあいだを抜けて、抜けたぶんが次の石に当たる。河原の石と、水面で、二段で返る。聞き分けなくていいよ、と彼女は最初の晩に言った。今は言わない。俺が聞き分けても、何も言わない。
川は、昼のあいだに溜めた光を、少しずつ岸に返していた。対岸の街灯が、水の上で一本ずつほどけて、流れて、また一本に戻る。
「美波さん」
「うん」
「今日、何か嫌なことありましたか」
「ない」
「昨日は」
「ない」
「先週は」
彼女は、考える顔をした。
「……ないよ。幸せだもん」
その言い方を、俺は知っていた。
天気の話をするときの言い方だった。薄くなりたいの、たまに、と言ったときの言い方。憎いのに、と言ったときの言い方。同じ速さで、同じ温度で、幸せだもん、と言った。
俺がいちばん聞きたかった言い方で、言った。
俺は、窓を閉めた。
◇◇◇
川沿いを、歩いた。
夕方だった。彼女は、フードをかぶらなかった。銀が、周りより明るかった。
誰も、通らなかった。
橋の手前まで行って、戻った。犬を連れた人も、自転車も、通らなかった。商店街の音は、川のこちら側まで来なかった。来ないことを、俺は三か月、気にしていなかった。
彼女は、俺の半歩前を歩いた。止まらなかった。レンズがないので、止まる理由がなかった。
「静かだね」
「はい」
「いいね」
どこがいいのか、訊かなかった。四畳半のときも、訊かなかった。
◇◇◇
「叩いてみて」
布団の上で、彼女が左手を出した。四畳半でやったのと、同じ出し方だった。指が四本、こちらを向いている。親指は折ってある。
俺は、薬指を二回叩いた。
一段。縁も、中心も、同じ音。白い部屋で、二十二歳の俺がそうした。
「肩も」
彼女は、背中を向けた。
肩甲骨のあいだを、二回叩いた。腕の付け根から背中にかけて、十二時間同じ力が出るように、俺がそうした場所だ。四回目の施術だった。三時間かかった。
一段だった。
俺は、手を下ろした。
下ろしてから、もう一度上げた。彼女の膝。背中ではなく、何もしていない膝。
二回叩いた。
一段だった。
縁も、中心も、同じ音だった。
彼女は、左手を膝に戻して、指を折りはじめた。親指から。小指まで折って、開いた。また親指に戻った。
数が、合っていた。
俺が口の中で数えた数と、彼女の指が折れるところが、合っていた。外れでは、合わなかった。四畳半でも、合わなかった。
合っていた。
「どう」
彼女が訊いた。
「……揃ってます」
「ふうん」
続きを待つほうだった。
◇◇◇
夜の配信は、四百人になっていた。
四十一が、四百になった。いつのまにか増えていた。誰が増えたのかは、一覧を見ればわかる。古い名前だけを、見た。
「はい、こんばんは」
〈こんばんは〉
〈今日も平和〉
〈外れ行ってたの?〉
「行ってました。南の三本目です」
〈尊い〉
〈ずっとこのままでいて〉
〈シキくん美波さんおやすみ〉
〈美波さん元気?〉
「元気です」
〈尊い〉
〈尊い〉
「壁の話しか、してないんですけど」
〈それがいい〉
〈それがいい〉
「……そうですか」
俺は、壁の話を三十分した。南の三本目の水が、今日は増えていなかったこと。三日に一度のはずだったこと。
〈へえ〉
〈ずっとこのままでいて〉
〈今日も平和〉
誰も、〈わかんない〉と打たなかった。四年前から〈わかんない〉と打っていた人の名前は、四千一人ぶん並んでいて、どれも、今日は〈尊い〉と打っていた。
一覧の下のほうに、深夜二時さんの名前があった。
打っていない。名前だけが、ある。
隣で、彼女が横になっていた。携帯を、顔の横に置いている。画面に、俺の顔が映っている。俺の声が、半拍遅れて、隣の画面から聞こえる。彼女は、打たなかった。打たないで、聞いていた。続きを待つ顔で、聞いていた。
「今日はここまでです。おつかれさまでした」
四百、二百、九十、三十、八、三。
一。
一で、止まった。
◇◇◇
彼女は、紐の下に座った。
「消して」
俺は立ち上がって、紐を引いた。
「消えました」
「ちゃんと消えた」
「はい」
三百十一。
消えていない。紐が揺れている。揺れの幅が一往復ごとに狭くなって、止まる。彼女の膝の角度。左が、指一本ぶん高い。薬指の十一度。
六分で、息が深くなった。
三か月で、九十増えた。一晩に、一つ。
嘘だけが、増えている。他に増えるものがない。
嫌なことが、ない。三か月、一度もない。




