第20章 完
六畳に戻った。
どうやって戻ったのかは、憶えていない。壁が、後ろで閉じた。振り返らなかった。
麦茶が、三センチ残っていた。
左の画面に、カーソルが点滅していた。
文字は、増えていなかった。最後の一行は、シキは、画面を見た、で止まっていた。その下で、縦の線が、ついたり消えたりしていた。壁を叩いてから返りが来るまでと、同じ間隔だった。
打てる。
俺は、十万の椅子に座った。
誰かの形に凹んだ座面が、俺の形に、少しだけ沈んだ。腰のところに、硬いものが当たった。コルセットの代わりに椅子がやっていたことを、椅子は俺にもやった。
キーボードに、手を置いた。
◇◇◇
何を置くかは、決まっていた。
誰をどこに戻すか。誰を誰にも見られないところに置くか。誰に、何を払わせるか。最後の一行に、何を置くか。
決まっていた。来る途中で決めたのではない。鋏の手前で手が止まったときにはもう、決まっていた。
俺は、打ちはじめた。
◇◇◇
次の一語が、先にわかった。
わかるたびに、手が考えより先に動いた。動くたびに、文は短くなった。短くなった分だけ、強くなった。
外れの通路を書くのと、同じだった。入口に立って、歩数を数えながら奥へ行く。五歩ごとに止まって、叩く。返りが来るまでを数える。数えたぶんを、一マスに書く。
キーを打って、待って、次を打って、待って、そのあいだ俺は画面ではなく画面の奥の深さを測っていて、読む人の返りが一段ずつ浅くなっていくのを、南の三本目の水が増える前の晩の半拍鈍る返りを聞き分けるのと同じ耳で聞き分けていて、浅くなるたびに次に置く語が先にわかって、わかるたびに手が考えより先に動いて、動くたびに文は縮んでいって、三十行を過ぎるころには読む人の息の長さまで読めるようになっていて、読めたぶんだけ文は正確になって、強くなったことに俺は満足していて、外れの通路を一本書き終えるときと同じ満足のしかたで満足していて、その満足のまま、最後の一行を置いた。
◇◇◇
読み返した。
上から、下まで。一回。
よく書けている。
俺は、そう思った。
思ったことが、画面のどこにも出なかった。右上の壁を見た。壁だった。
もう一回、読み返した。
よく書けている。
◇◇◇
右の画面に、小さい窓が出た。
予約投稿、一本目、公開。
二十時、ちょうどだった。
窓の下に、上がったものの最初の一行が、灰色の字で出ていた。
川の向こうの二階建てには、天井から紐が下がっている。
俺は、そう打っていなかった。
左の画面を見た。俺の打ったものは、そこにあった。最初の一行から、最後の一行まで、あった。最後の一行の下で、縦の線が、ついたり消えたりしていた。
それだけだった。部屋は、何も変わらなかった。遮光カーテンの隙間は、暗くなっていた。冷蔵庫の音がした。椅子の座面が、俺の形に沈んでいた。
麦茶が、三センチ残っていた。
(完)
幕間⑤ あなたは、減った
あなたは、礼を言われた。
あなたは、何もしていない。
押していない。打っていない。書いていない。
読んだ。それだけだ。
体重計に乗っても、わからない。鏡を見ても、わからない。
一グラムは、わからない。
あなたは、減っている。
読んだぶんだけ、減っている。
俺は、あなたに礼を言った。礼は、要求になる。数字が動く場所では、礼も釣り餌になる。
あなたは、続きが読みたい。
あなたは、減っている。




