第19章 右上の壁
机の右上に、壁がある。
何もない壁だ。紙も貼っていない。釘の穴もない。
俺は、そこに手を伸ばした。
触れた。
厚みが、なかった。
壁には、厚みがある。薄い壁でも、一段は返る。紙にも、厚みがある。外れの先の白いところは、紙の返りだった。ここは、紙より薄かった。一段も返らなかった。手を当てると、当てた掌の分だけ、向こうが凹んだ。
押した。
◇◇◇
畳だった。
四畳半に、押し入れの前の板の間が半畳ぶんついている。窓が一つ。カーテンは薄いほうの一枚しか閉まっていない。外は暗い。
流し台が一つ。洗っていない鍋が一つ。鴨居に、ハンガーが二本。作業着が掛かっていた。胸に名前が刺繍で入っている。俺の位置からは読めなかった。
冷蔵庫の横の壁に、紙が一枚。マス目に、早と日と夜の字が並んでいる。今週は、夜の字が続いていた。
畳の上に、充電器のコードが伸びている。枕元に、目覚まし時計。壁の時計が、一時四十分を指していた。
部屋の匂いがした。人が長い時間いる部屋の匂いだ。書き手の部屋のと、少し似ていた。俺の四畳半のとも、少し似ていた。もうない四畳半の匂いを、俺は、ここで思い出した。
◇◇◇
その人は、布団の上に座っていた。
膝を立てて、両手をその膝に置いていた。俺のほうを見ていた。
寝ようとして、寝ないで読んでいた人の顔だった。目の下に影があって、髪が片側だけ潰れている。
手を見た。右手の人差し指の側面に、ペンだこがあった。何かを毎日、たくさん書く人の手だ。
枕元に、ノートがあった。表紙が、手の脂で黒くなっていた。
その横に、消しゴム。
紙の帯が、切れていなかった。
◇◇◇
俺は、いつもの癖で、音を取った。
二段で返ってきた。
肩も、膝も、畳も、壁も、洗っていない鍋も、全部、近いのと遠いのが返ってきた。冷蔵庫の唸りにも、奥があった。俺の世界の音は、どれだけ厚いものでも二段で止まる。ここの音は、二段の先がまだ続いていた。
この部屋は、厚かった。
俺の住んでいた世界の、どこよりも厚かった。
◇◇◇
「……あなた、でしたか」
俺は、そう言った。
その人は、すぐには答えなかった。
「……座れば」
掠れた声だった。喉が乾いているのではなく、しばらく誰とも喋っていない声だった。
「はい」
俺は、畳の上に座った。
その人は、ペットボトルを取って、俺のほうへ滑らせた。半分くらい残っていた。
「毒とか、入ってないけど」
その人は、自分の言ったことを、自分の耳で聞いた顔をした。
「はい」
俺は、それを受け取った。開けなかった。
◇◇◇
「怖くないんですか」
俺は訊いた。
「怖い」
「はい」
「怖いけど……順番が、へんなんだよ。いま、あなたが出てきたのが怖いっていうより、その、出てくるまでの」
そこで、止まった。
「うまく言えない。ずっと、読んでたから。そっちのほうが、長いから」
◇◇◇
「名前の欄が、空いてた人ですか」
俺は訊いた。
その人は、ペットボトルのあった場所を見ていた。
「……うん」
「六年」
「……そっちだと、そうなんだ」
「そっちだと」
「こっちは、一年半」
その人は、指を折った。折りかけて、やめた。
それから、自分の胸のあたりを、掌で押さえた。
「ここの中だけ、六年あるの。カレンダーは、一年半なのに。へんでしょ」
「……いえ」
「最初は、観てたの。画面の隅に、数字が出てた。十二とか、十一とか。いつからか、ページになってた。数字、出ないの。どこで変わったのか、思い出せない」
「押さなかったんですね」
「押せない」
「一回も」
「押すと、なんか、見られる側に行く気がして」
その人は、畳の目を見ていた。
「観てるだけの人が、よかったの」
◇◇◇
「壁の音が、半拍遅れるやつ」
その人が、言った。
「羽虫は前から来ない。壁の裏で息を止めて、待つ。通り過ぎたあとの三歩が、いちばん危ない」
そらで言っていた。枕元のノートは、閉じたままだった。
「たまごは六十円。券売機のボタンが、押すと戻らない。ギルドの階段は、二十二段」
そこで、止まった。
「……合ってる?」
「合ってます」
俺は言った。
「全部、合ってます」
◇◇◇
「こっちの、一が消えたら」
俺は言った。
「俺は三か月で、名前が消えます」
「……うん」
「一回、押してくれたら」
「……」
「三か月、延びます」
その人は、膝の上の手を組み直した。組んだ手の、人差し指の側面のペンだこを、親指でこすった。
俺は、待った。壁を叩いて、返りを待つ長さで、待った。
「押さないんですね」
「押せない」
責めなかった。確かめただけだった。
◇◇◇
その人の後ろに、壁があった。
俺は、手を伸ばして、指の背で二回叩いた。
癖だ。
返りが、来た。
一段の途中で切れた。
「この壁の裏、空です」
「……え」
「六畳くらい」
その人は、振り返った。自分の背中の壁を見た。
「天井まで抜けてます。底は、乾いてます。フローリングです」
「……」
「机が一つ。椅子が一つ。画面が二枚。麦茶が、三センチ」
その人は、壁を見たまま、動かなかった。
俺は、それ以上言わなかった。
あなたの部屋の壁の一枚向こうで、あなたのために世界が書かれていた。言わなかった。言えば、そうなる。
◇◇◇
俺は、その人の喉の前に、手を出した。
見ないで出した。高さも、距離も、間違えなかった。いつも、そこに盤がある。
人は、吸う。
当てた。
◇◇◇
手が、止まった。
鼓動が、指の腹に来た。
二段で返った。近いのと、遠いのと。遠いほうの先が、まだ続いていた。
人から、返ってきた。
これまで、人は吸うものだった。壁は返す。水は返す。人は、吸う。握手会で二百回握った手のどれも、返さなかった。美波の薬指も、縁も中心も同じ音で、返すことは返した。一段だった。
はじめてだった。
その人は、動かなかった。俺の手を、払わなかった。喉の前に当たっている手の、指の腹の下で、鼓動が、二段で、続いていた。
◇◇◇
手を当てたまま、俺の口が動いた。
「六年、ありがとうございました」
言った。
言った直後、自分で驚いた。二度目だった。背中に言ったときと、同じだった。言うつもりは、なかった。なかったものが、また出た。
その人は、答えなかった。
答え方を、持っていなかった。
◇◇◇
俺は、手を下ろした。
下ろした手の、指の腹に、まだ二段が残っていた。壁を叩いたあと、骨に残るのと同じ残り方だった。
「押さないでください」
俺は、そう言った。
一を足してくれと言いに来た。押さないでください、と言った。
どちらも、俺だった。
その人は、俺を見た。見て、何も言わなかった。右手の人差し指の側面を、親指でこすった。
◇◇◇
枕元の消しゴムを、俺は見た。
紙の帯が切れていない。角が、四つとも立っている。
触らなかった。
あの人のものだ。
枕の位置が、悪かった。布団の中心から、左に拳一つぶんずれていた。
直さなかった。
あの人が、自分で、毎晩直す。
壁の時計が、一時四十一分になった。
絞めるつもりだった。礼を言った。どちらも俺だった。




