第18章 打ち切り
彼は、椅子に座り直さなかった。
机の下から、紙の束を三つ出した。クリップで留めてある。一つは厚く、一つは薄く、一つは紙が黄ばんでいた。
「二年前。四年前。七年前」
彼は、それを机に並べた。三つとも、一枚目に、同じ字があった。違う題だった。同じ字で、違う題が三つ。
「主人公が、いつも君になる」
彼は言った。
「名前は変えてる。職も変えてる。他のを書こうとすると、途中で君になる。誰かの後ろを歩いてて、歩数を数えてて、壁の裏のことを言って、それで誰も聞いてない。気がつくと、そうなってる」
「……」
「君を書くと、いつも打ち切られる」
彼は、笑った。
その笑い方を、俺は知っていた。二十二歳の俺が、盤から左から三番目を取るときの顔だ。うまいからです、と言うときの顔だ。
◇◇◇
七年前の束を、彼が開いた。
黄ばんだ紙は、外れの南の三本目のページと同じ色をしていた。何度も触った紙の色だった。角が丸くなって、端が一枚ずつ浮いていた。七年ぶんの、めくり癖だった。
最後から、開いた。
終わりから二枚目に、二十九、とあった。七年前の俺が、羽虫の群れを通り過ぎたところだった。二歩目まで、あった。
三歩目が、なかった。
最後の一枚を、めくった。
白紙だった。
前のページまで、字が詰まっている。最後の一枚だけ、何もない。隅に、鉛筆で、小さく。
書けなかった
彼は、それを見て、何も言わなかった。
「ここで、主人公が死ぬはずだった」
それだけ言った。
俺は、白紙を見た。鉛筆の字を見た。
束を閉じた。
閉じたのは、俺だった。彼が閉じるのを待たなかった。
◇◇◇
机の上に、付箋があった。
画面の縁の五枚とは、別だった。机の、キーボードの手前。赤い紙だった。
字が、違った。
彼の字ではなかった。カレンダーに二重丸を描いた字とも、七年前の束の隅の鉛筆とも、違う。角が立って、線が細くて、同じ太さで最後まで書いてある字だった。
鳴海:較正値として使用。次作の主人公(颯太)の痛みの基準にすること
美波:レガシー枠へ
書き手:次の書き手に引き継ぎ
俺は、それを読んだ。
読んで、もう一回読んだ。
「これ、誰の字ですか」
「……編集さん」
「あなたが書いてたんじゃないんですか」
「書いてたよ」
彼は、赤い紙を見なかった。
「書いてたけど、俺もさ」
その先を、言わなかった。
俺は、赤い紙を見ていた。較正値。痛みの基準。俺の痛みは、颯太の痛みを測る定規だった。俺が二十二歳で六時間かけて目を乾かしたことも、二十六歩目で足を止めたことも、三十八歩目で右の壁が黙ることも、全部、次の主人公の痛みの目盛りだった。
書き手は、次の書き手に引き継ぎ。
彼も、誰かの下塗りだった。
俺は、そう思った。思って、言わなかった。彼も、言わなかった。赤い紙だけが、机の上にあった。
◇◇◇
「予約投稿が、三本ある」
彼が言った。
「月一で入れた。数字がいちばん落ちない間隔だ。三か月は、もつ」
「三か月」
「作者が消えて終わる話は、一回やってみたかった」
彼は、画面の右を見た。
「たぶん、跳ねると思う」
俺は、その言い方を聞いた。たぶん、跳ねると思う。瑠璃のところで跳ねた、と言ったときと、同じ声だった。
◇◇◇
彼は、引き出しを開けた。
白いものを出した。
消しゴムだった。文房具屋で百円くらいで売っている四角いやつだ。紙の帯が半分破れて、角が一つだけ丸くなっていた。
彼は、それを机に置いた。赤い紙の隣だった。
「白いのは置いていく」
俺は、消しゴムを見た。
「誰にですか」
「……さあ」
彼は、本当にわからない顔をした。
◇◇◇
彼が、椅子から立った。
十万の椅子だった。彼が立つと、座面が戻った。戻りきらなかった。誰かの形に、凹んだままだった。
「捨てないでくれよ、それ」
彼は、椅子を指した。
「はい」
「まだ使えるから」
「はい」
彼は、部屋の戸のほうへ歩いた。コルセットのせいで、上体が前に傾いていた。戸に手をかけた。
俺は、殺しに来た。
殺せなかった。鋏の手前で手が止まって、電話が先に切って、彼が打ち切りだと言った。
その背中に、俺の口が動いた。
「……ありがとうございました」
言った。
言った直後、自分で驚いた。声は、俺の声だった。言うつもりは、なかった。なかったものが、出た。
彼は、振り向かなかった。
振り向かなかったのが、よかった。
戸が開いて、閉まった。外の明るさが一秒だけ床に伸びて、消えた。
◇◇◇
部屋に、一人になった。
麦茶が、三センチ残っていた。
消しゴムの下に、紙が一枚あった。消しゴムを、どけた。手書きだった。二重丸を描いた字だった。
鳴海くんへ
これを君が読んでるってことは、たぶんうまくいった。
白いのは置いていく。
予約投稿が三本ある。三か月は、もつ。
これで終わるといいんだけど。
ごめんな
俺は、それを読んだ。
最後の一行を、もう一回読んだ。ごめんな。宅配便の人が、はい、荷物です、と言うのと同じ量で、この人は、ごめんな、と書く。
俺は、紙を消しゴムの下に戻した。
◇◇◇
左の画面を見た。
文字が、増えていた。
打っている人はいない。キーは動いていない。マウスも動いていない。
文字だけが、一行ずつ、下に伸びていた。
部屋に、一人になった。
麦茶が、三センチ残っていた。
俺は、近づいて読んだ。
シキは、紙を読んだ。最後の一行を、もう一回読んだ。
俺は、そこで顔を上げた。
顔を上げたところで、画面の下に一行増えた。
シキは、画面を見た。
俺は、画面を見ていた。
見ていることが、そこに書いてあった。
書いたのは、誰でもなかった。
ありがとうございました、と俺は言った。あの背中に言った。言うつもりは、なかった。




