↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
誰も見ていない  作者: ナオ
第二部 継ぎ目
PR
17/30

第17章 書き手

外れの先は、白かった。


公式地図の、三十七本の突き当たりから先。一度は青く塗られたところが、事故のあとで線を抜かれて、白に戻った。戻ってから、一年が過ぎた。誰も見ない。見ないので、描き直されない。


俺は、そこへ行った。


朝、玄関で、彼女は自分の薬指を叩いた。一段。


「外れ?」

「先です」

「白いとこ」

「はい」

「……紐、ないよ、そこ」

「はい」


彼女は、それ以上訊かなかった。


◇◇◇


突き当たりの板は、まだ立っていた。英雄の休息地。ペンキの字が、端から薄くなっていた。英、の字の右側が、もうなかった。人は、来なくなっていた。事故のあとは、誰も来ない。休息地の先で九人が運ばれたからだ。


崩れた石を越えた。


その先は、白かった。


壁が白いのではない。壁が、ない。叩いた。


紙の返りだった。


厚みがない。水もない。岩でもない。指の背を二回当てると、一回目の自分の骨の音だけが残って、二回目が、乗る場所を持たなかった。


公式地図で白くなった場所は、現地でも白い。誰も見ないので記述が更新されない端は、紙の端と同じだった。


俺は、そこを指で押した。


破れた。


◇◇◇


六畳くらいだった。


最初に、匂いが来た。人が長い時間いる部屋の匂いだ。閉め切った空気と、冷めたコーヒーと、洗っていない毛布。


床はフローリングだった。木目が印刷されているのがわかる。同じ木目が、九十センチごとに、最初に戻っていた。


机が一つ。椅子が一つ。画面が二枚。


窓には、遮光カーテンが引いてあった。隙間から、外が明るいのがわかった。昼だった。


机の脇に、麦茶の二リットルが立っていた。あと三センチだけ残っている。底に、カーテンの隙間の光が溜まっていた。


壁に、紙が貼ってあった。方眼に線を引いた表で、縦軸に数字、横軸に日付。線は、真ん中あたりで高く跳ねて、右のほうで下を向いていた。


カレンダーがあった。十九日に、赤いペンで丸が二重に描いてあった。


机の前に、人が座っていた。


◇◇◇


背中を向けていた。


こちらを見なかった。俺が床を踏んだ音は、たしかにした。


その人は画面を見て、右手でキーを打っていた。三行打って、消した。二行打って、消した。頭を掻いた。


灰色のスウェットで、袖の口がほつれていた。腰にコルセットを巻いていた。机の隅に、薬の箱が三つ積んであった。


その人が、椅子ごと半分こちらを向いた。


三十代の半ばくらいの男の人だった。無精髭が伸びていて、目の下が黒かった。


驚かなかった。


「ああ」


その人は、そう言った。


「また来たのか」


◇◇◇


俺は、何も言えなかった。


その人は椅子を回して、正面から俺を見た。背筋を伸ばして、また丸めた。


「悪いけど、いま忙しいんだ」

「……あなたは」

「そう。まあ、そういうことになる」


彼は自分の後頭部を掻いた。


「書いてる。君のを」


宅配便の人が「はい、荷物です」と言うのと、同じ量の言い方だった。


「座る?」


椅子は一つしかなかった。彼はそれに気づいて、「ああ、ないな」と言った。


「腰が悪くなってさ、いいのを買ったんだ。十万した。十万の椅子だよ。それ買った月に、打ち切られたんだけど」


彼は肘掛けを指で叩いた。二回。指の腹だった。


「これは、まだ使えるからな」


俺は、立ったままでいた。


◇◇◇


「彼女の指のことを」


俺は、そう切り出した。


「指」

「左手の薬指です。第二関節から先が。縁も中心も、同じ音で返ります」

「ああ」


彼は画面のほうを向いて、何かを二回クリックした。


「あれね。手の描写が多いって言われてさ」

「言われた」

「感想。手のことばっかり書いてるって。爪が割れてるとか、皮が厚いとか。三回くらい続けて書いたら、しつこいって」


彼はマウスから手を離した。


「だから、手のことを書かなくて済むようにした。作り物にしとけば、いちいち状態を書かなくていいだろ。楽になる」

「……それだけですか」

「それだけ、っていうか」


彼は、困った顔をした。


「悪気はないんだよ。ほんとに。一行、直しただけなんだ」


◇◇◇


「二人で独り、は」


俺は言った。


「ああ」

「二人きり、に直りました。切り抜きで」


彼は、首の後ろを掻いた。


「あれは俺が書いたんじゃない。君のほうで出た。打ってたら、出た。出たのをそのまま置いた。で、直したら、二人きりになった」

「直した」

「直したつもりもないんだよ。あれは、切り抜きのほうが先に読まれて、そっちが正しくなった。こっちは、あとから合わせただけで」

「直したのは、誰ですか」


彼は、すぐには答えなかった。


「……誰でもないんだよ、こういうのは」


俺は、その答えを受け取った。誰でもない、という名前の人が、直した。


◇◇◇


「ソウマくんの名前は」

「誰」

「瑠璃の回廊で死んだ、十七歳の子です」

「ああ、あの子か」


彼は画面を見た。指がキーの上を滑って、何かを検索した。


「相馬って苗字を出したときにさ、読みが紛らわしいって指摘があって。ソウマって名前とソウマって苗字が近いのはややこしいって。まあ、そうだよなと思って」

「直したんですか」

「直した。前に戻って、全部置換した」


置換。


「彼の名前は、ソウマです」

「うん、まあ、最初はそうだった」

「今も、そうです」


彼は俺の顔を見た。


「……そう言われると、そうなんだけどさ」


彼は言葉を探して、見つからなくて、諦めた。


「一文字なんだよ、こっちは」


◇◇◇


画面の縁に、付箋が貼ってあった。


五枚。


一枚は、「歯医者 21日 10:30」。


残りの四枚は、こうだった。


 シキ=数える/叩く/はい

 ユキ=角を押さえる

 美波=消して、ちゃんと消えた

 トオル=携帯


俺は、それを二回読んだ。


「ああ、それな」


彼が気づいて、言った。


「癖を決めとくんだよ。決めとくと迷わない。喋らせるのが、楽になる」


俺は、何も言わなかった。


「返事は『はい』でいいだろ。君、そういう人だし」


俺は口を開けた。


言えなかった。


言えば、そのとおりになる。


閉じた。閉じた口の中に、はい、があった。出さなかった。出さなかったことが、付箋に書いてある通りだった。数えていた。口を開けて、閉じるまでを、数えていた。


彼は、それを見ていた。


「そうなるよな」


彼は笑った。


「みんな、一回はそうなる」


◇◇◇


俺は、壁の紙を見た。


真ん中で跳ねて、右で下がる線。


「あれは、何ですか」

「数字」

「何の」

「読んでる人の数」


彼は椅子を回して、その紙を一緒に見た。


「あそこで跳ねたんだ」


彼はグラフの頂点を、指の腹で一度撫でた。


「青いとこ。あのときは、こっちも興奮した。書いてて手が震えた」


青いところ。担架が九つ。二つには布。十四時二十一分。


「あの晩は、久しぶりに、よく眠れたんだよなあ」


彼は、そう言った。


そのあとに、何も足さなかった。悪かったとも、あれは違ったとも、言わなかった。頂点を撫でた指を、線に沿って右へ下ろして、何もない空白のところまでなぞって、止めた。


「たのしいんだ、これ」


彼は、そう言った。


「書くの。たのしいんだよ。君が壁を叩くところとか。たのしいんだ」


俺は、その言葉を聞いた。


聞いて、壁を叩かなかった。叩きたかった。叩けば、付箋の通りになる。叩かないでいることも、たぶん、どこかに書いてある。


◇◇◇


「俺が思ってることは」


俺は訊いた。


「どこかに出るんですか」


彼は、口を開けた。


それから、机の右上のほうを、一瞬だけ見た。何もないところだった。壁があるだけだった。


彼は、声を落とした。


「そういう仕組み」


俺も、そこを見た。壁だった。


「あれは、何ですか」

「……読んでる人たち」


それ以上は、言わなかった。


俺は、その壁を把握した。


返らなかった。


一段も、返らなかった。壁は返す。水は返す。人は、吸う。あそこは、吸わなかった。吸うものも、返すものも、なかった。


◇◇◇


机の上に、鋏があった。


紙の束を開けるときに使うやつだ。刃が短くて、持ち手が黒い。


俺は、それを見た。


それから、見なかった。


見ないで、右手を出した。


高さも、距離も、間違えなかった。いつも、そこに盤がある。左から三番目が、いちばんよく使うやつだ。指が、盤の上の、いちばんよく使うやつの軸の太さに、開いた。


手が、止まった。


鋏の、手前だった。指の先から鋏まで、指一本ぶんあった。一本ぶん、足りなかった。足りなかったのではない。止まった。


◇◇◇


携帯が、床で震えた。


机の上ではなく、床の、コンビニ袋の脇に転がっていた。


彼は見た。見て、動かなかった。


震えが止まった。三秒あいて、また震えはじめた。


「編集さん」


彼が言った。


「悪い人じゃないんだよ。ほんとに」


震えは、止まらなかった。三秒あいて、また震えた。また止まって、また震えた。


彼は、椅子から手をついて立った。立つのに、二度、手をついた。腰を押さえて、屈んで、拾った。


「……はい」


彼は、俺に背中を向けた。


「……はい。……はい」


俺の手は、鋏の手前で止まっていた。


「……そうですか」


彼は、携帯を耳から離した。離して、しばらく見ていた。画面は、もう光っていなかった。


「打ち切りだって」


彼は、こちらを向かずに言った。


「……」

「まあ、そうだよな」


彼は、携帯を机に置いた。鋏の隣だった。俺の手の、すぐ先だった。


「君を書くと、いつもこうなる」


俺の手は、まだそこにあった。鋏の手前で、開いたままだった。


電話の震えが、止まった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。