第17章 書き手
外れの先は、白かった。
公式地図の、三十七本の突き当たりから先。一度は青く塗られたところが、事故のあとで線を抜かれて、白に戻った。戻ってから、一年が過ぎた。誰も見ない。見ないので、描き直されない。
俺は、そこへ行った。
朝、玄関で、彼女は自分の薬指を叩いた。一段。
「外れ?」
「先です」
「白いとこ」
「はい」
「……紐、ないよ、そこ」
「はい」
彼女は、それ以上訊かなかった。
◇◇◇
突き当たりの板は、まだ立っていた。英雄の休息地。ペンキの字が、端から薄くなっていた。英、の字の右側が、もうなかった。人は、来なくなっていた。事故のあとは、誰も来ない。休息地の先で九人が運ばれたからだ。
崩れた石を越えた。
その先は、白かった。
壁が白いのではない。壁が、ない。叩いた。
紙の返りだった。
厚みがない。水もない。岩でもない。指の背を二回当てると、一回目の自分の骨の音だけが残って、二回目が、乗る場所を持たなかった。
公式地図で白くなった場所は、現地でも白い。誰も見ないので記述が更新されない端は、紙の端と同じだった。
俺は、そこを指で押した。
破れた。
◇◇◇
六畳くらいだった。
最初に、匂いが来た。人が長い時間いる部屋の匂いだ。閉め切った空気と、冷めたコーヒーと、洗っていない毛布。
床はフローリングだった。木目が印刷されているのがわかる。同じ木目が、九十センチごとに、最初に戻っていた。
机が一つ。椅子が一つ。画面が二枚。
窓には、遮光カーテンが引いてあった。隙間から、外が明るいのがわかった。昼だった。
机の脇に、麦茶の二リットルが立っていた。あと三センチだけ残っている。底に、カーテンの隙間の光が溜まっていた。
壁に、紙が貼ってあった。方眼に線を引いた表で、縦軸に数字、横軸に日付。線は、真ん中あたりで高く跳ねて、右のほうで下を向いていた。
カレンダーがあった。十九日に、赤いペンで丸が二重に描いてあった。
机の前に、人が座っていた。
◇◇◇
背中を向けていた。
こちらを見なかった。俺が床を踏んだ音は、たしかにした。
その人は画面を見て、右手でキーを打っていた。三行打って、消した。二行打って、消した。頭を掻いた。
灰色のスウェットで、袖の口がほつれていた。腰にコルセットを巻いていた。机の隅に、薬の箱が三つ積んであった。
その人が、椅子ごと半分こちらを向いた。
三十代の半ばくらいの男の人だった。無精髭が伸びていて、目の下が黒かった。
驚かなかった。
「ああ」
その人は、そう言った。
「また来たのか」
◇◇◇
俺は、何も言えなかった。
その人は椅子を回して、正面から俺を見た。背筋を伸ばして、また丸めた。
「悪いけど、いま忙しいんだ」
「……あなたは」
「そう。まあ、そういうことになる」
彼は自分の後頭部を掻いた。
「書いてる。君のを」
宅配便の人が「はい、荷物です」と言うのと、同じ量の言い方だった。
「座る?」
椅子は一つしかなかった。彼はそれに気づいて、「ああ、ないな」と言った。
「腰が悪くなってさ、いいのを買ったんだ。十万した。十万の椅子だよ。それ買った月に、打ち切られたんだけど」
彼は肘掛けを指で叩いた。二回。指の腹だった。
「これは、まだ使えるからな」
俺は、立ったままでいた。
◇◇◇
「彼女の指のことを」
俺は、そう切り出した。
「指」
「左手の薬指です。第二関節から先が。縁も中心も、同じ音で返ります」
「ああ」
彼は画面のほうを向いて、何かを二回クリックした。
「あれね。手の描写が多いって言われてさ」
「言われた」
「感想。手のことばっかり書いてるって。爪が割れてるとか、皮が厚いとか。三回くらい続けて書いたら、しつこいって」
彼はマウスから手を離した。
「だから、手のことを書かなくて済むようにした。作り物にしとけば、いちいち状態を書かなくていいだろ。楽になる」
「……それだけですか」
「それだけ、っていうか」
彼は、困った顔をした。
「悪気はないんだよ。ほんとに。一行、直しただけなんだ」
◇◇◇
「二人で独り、は」
俺は言った。
「ああ」
「二人きり、に直りました。切り抜きで」
彼は、首の後ろを掻いた。
「あれは俺が書いたんじゃない。君のほうで出た。打ってたら、出た。出たのをそのまま置いた。で、直したら、二人きりになった」
「直した」
「直したつもりもないんだよ。あれは、切り抜きのほうが先に読まれて、そっちが正しくなった。こっちは、あとから合わせただけで」
「直したのは、誰ですか」
彼は、すぐには答えなかった。
「……誰でもないんだよ、こういうのは」
俺は、その答えを受け取った。誰でもない、という名前の人が、直した。
◇◇◇
「ソウマくんの名前は」
「誰」
「瑠璃の回廊で死んだ、十七歳の子です」
「ああ、あの子か」
彼は画面を見た。指がキーの上を滑って、何かを検索した。
「相馬って苗字を出したときにさ、読みが紛らわしいって指摘があって。ソウマって名前とソウマって苗字が近いのはややこしいって。まあ、そうだよなと思って」
「直したんですか」
「直した。前に戻って、全部置換した」
置換。
「彼の名前は、ソウマです」
「うん、まあ、最初はそうだった」
「今も、そうです」
彼は俺の顔を見た。
「……そう言われると、そうなんだけどさ」
彼は言葉を探して、見つからなくて、諦めた。
「一文字なんだよ、こっちは」
◇◇◇
画面の縁に、付箋が貼ってあった。
五枚。
一枚は、「歯医者 21日 10:30」。
残りの四枚は、こうだった。
シキ=数える/叩く/はい
ユキ=角を押さえる
美波=消して、ちゃんと消えた
トオル=携帯
俺は、それを二回読んだ。
「ああ、それな」
彼が気づいて、言った。
「癖を決めとくんだよ。決めとくと迷わない。喋らせるのが、楽になる」
俺は、何も言わなかった。
「返事は『はい』でいいだろ。君、そういう人だし」
俺は口を開けた。
言えなかった。
言えば、そのとおりになる。
閉じた。閉じた口の中に、はい、があった。出さなかった。出さなかったことが、付箋に書いてある通りだった。数えていた。口を開けて、閉じるまでを、数えていた。
彼は、それを見ていた。
「そうなるよな」
彼は笑った。
「みんな、一回はそうなる」
◇◇◇
俺は、壁の紙を見た。
真ん中で跳ねて、右で下がる線。
「あれは、何ですか」
「数字」
「何の」
「読んでる人の数」
彼は椅子を回して、その紙を一緒に見た。
「あそこで跳ねたんだ」
彼はグラフの頂点を、指の腹で一度撫でた。
「青いとこ。あのときは、こっちも興奮した。書いてて手が震えた」
青いところ。担架が九つ。二つには布。十四時二十一分。
「あの晩は、久しぶりに、よく眠れたんだよなあ」
彼は、そう言った。
そのあとに、何も足さなかった。悪かったとも、あれは違ったとも、言わなかった。頂点を撫でた指を、線に沿って右へ下ろして、何もない空白のところまでなぞって、止めた。
「たのしいんだ、これ」
彼は、そう言った。
「書くの。たのしいんだよ。君が壁を叩くところとか。たのしいんだ」
俺は、その言葉を聞いた。
聞いて、壁を叩かなかった。叩きたかった。叩けば、付箋の通りになる。叩かないでいることも、たぶん、どこかに書いてある。
◇◇◇
「俺が思ってることは」
俺は訊いた。
「どこかに出るんですか」
彼は、口を開けた。
それから、机の右上のほうを、一瞬だけ見た。何もないところだった。壁があるだけだった。
彼は、声を落とした。
「そういう仕組み」
俺も、そこを見た。壁だった。
「あれは、何ですか」
「……読んでる人たち」
それ以上は、言わなかった。
俺は、その壁を把握した。
返らなかった。
一段も、返らなかった。壁は返す。水は返す。人は、吸う。あそこは、吸わなかった。吸うものも、返すものも、なかった。
◇◇◇
机の上に、鋏があった。
紙の束を開けるときに使うやつだ。刃が短くて、持ち手が黒い。
俺は、それを見た。
それから、見なかった。
見ないで、右手を出した。
高さも、距離も、間違えなかった。いつも、そこに盤がある。左から三番目が、いちばんよく使うやつだ。指が、盤の上の、いちばんよく使うやつの軸の太さに、開いた。
手が、止まった。
鋏の、手前だった。指の先から鋏まで、指一本ぶんあった。一本ぶん、足りなかった。足りなかったのではない。止まった。
◇◇◇
携帯が、床で震えた。
机の上ではなく、床の、コンビニ袋の脇に転がっていた。
彼は見た。見て、動かなかった。
震えが止まった。三秒あいて、また震えはじめた。
「編集さん」
彼が言った。
「悪い人じゃないんだよ。ほんとに」
震えは、止まらなかった。三秒あいて、また震えた。また止まって、また震えた。
彼は、椅子から手をついて立った。立つのに、二度、手をついた。腰を押さえて、屈んで、拾った。
「……はい」
彼は、俺に背中を向けた。
「……はい。……はい」
俺の手は、鋏の手前で止まっていた。
「……そうですか」
彼は、携帯を耳から離した。離して、しばらく見ていた。画面は、もう光っていなかった。
「打ち切りだって」
彼は、こちらを向かずに言った。
「……」
「まあ、そうだよな」
彼は、携帯を机に置いた。鋏の隣だった。俺の手の、すぐ先だった。
「君を書くと、いつもこうなる」
俺の手は、まだそこにあった。鋏の手前で、開いたままだった。
電話の震えが、止まった。




