第16章 石けん
三階の常夜灯の下に、彼女が座る。
毎晩、座る。全部話した夜の、次の夜から、毎晩だ。月に二日ではない。
「消して」
「消えました」
「ちゃんと消えた」
「はい」
百五十七。
暗くなった。把握が、膝の角度と、薬指の十一度と、右手の輪郭を返してきた。六分で、息が深くなった。
数は、毎晩一つ増える。数える夜が、毎晩になった。数えていないものは、この部屋にない。
朝、玄関で、彼女は左手を出さない。
自分で叩く。薬指を、右手の人差し指の背で、二回。一段。揃ってる、と、自分に言う。俺は、それを見ている。見て、何も言わない。俺の右手は、ポケットの中で、盤の上のいちばんよく使うやつの軸の太さに、開いている。
◇◇◇
朝、ギルドへ行った。第十層の届に、本人の判がいる。
ギルドの床に、モップの跡がある。
その日、跡が乱れていた。
入口から窓口まで、濡れたものを引いた線。線は一本に見える。近くで見ると、一往復ごとに、重なりがある。いつもは、重なりの幅が揃っている。
揃っていなかった。
掲示板の下の角のところだけ、三回、引き直してあった。同じ角を、三回。一回目の跡の上に二回目が乗って、その上に三回目が乗っていた。三回とも、同じ向きだった。
直らないものを、直した跡だった。
俺は、そこに立っていた。
掲示板の右下の角は、めくれたままだった。
◇◇◇
柱の陰に、人がいた。
モップを持っていた。灰色の作業着で、フードはかぶっていない。髪を後ろでまとめていた。
俺のほうを見なかった。
モップの柄を、右手で持って、左手で、自分の襟を直した。直っている襟を、直した。直ってから、もう一回直した。
四年、見ていた手だった。
「ユキさん」
「……うん」
彼女は、モップの柄から手を離さなかった。
「失効したって」
「した」
「管制にいたの、ユキさんですよね」
「うん」
「撤退は認められません、って」
「言った」
「判断を出したのは、わたしです、って」
「言った」
彼女は、俺を見た。見て、目をそらさなかった。四年間、そらさなかった目だった。
「三か月だけだった。失効から名前が消えるまでの三か月は、映らない仕事だけ回されるの。管制は、映らない」
「はい」
「映らないあいだは、数えない。減るのも数字だから、止まってた」
「……止まる」
「三か月、止まって、それから消えた」
「名前が」
「うん」
彼女は、モップの柄を握り直した。
「今は、これ」
モップを、少しだけ持ち上げた。柄の、手の当たるところだけ、木の色が明るかった。握った形に、減っていた。
「名前がないと、これしか回ってこないの。知らなかったでしょ」
「はい」
「誰も言わないから」
◇◇◇
「四年、観てたんだよ」
彼女が言った。
「毎晩」
俺は、待った。
「……四年じゃない。もっとだ。数えてない」
言い直した。直っている襟を直すときの手つきで、自分の言った数を直した。直したあとの数は、言わなかった。
「石けん」
「……石けんさん」
「うん」
「わかんない、って打ってた人」
「わかんなかったから」
「最初からいた」
「最初からいた」
彼女は、そこで笑わなかった。笑う顔をしなかった。襟を、もう一回直した。
「壁の裏、わかるんだ、って打ったの、わたし」
「はい」
「六十円の話まだ引っ張るな、も」
「はい」
「両方やろうとするから両方だめなんだよ、は、みかん箱さんが先に打った。わたしは、あとで真似した」
「……はい」
「あなた、文脈がない、って思ったでしょ」
「思いました」
「あったよ」
彼女は、それだけ言った。何の文脈かは、言わなかった。
◇◇◇
彼女は、俺の襟に手を伸ばした。
折れていない襟を、折れていたみたいに直した。直ってから、もう一回直した。二年前と、同じ手だった。手は、名前を持っていなかった。
それから、作業着の胸のところに、手を入れた。薄い冊子が、半分出た。端が、服の内側の形に丸まっていた。『支える手』。
彼女は、いちばん後ろのページを開いて、俺のほうに向けた。
離脱者。五行ずつ。その月の、二段目。回復札。所属の欄に、元、の一字。
「紙には、あるの」
「はい」
「元、って付いてるけど」
「はい」
彼女は、冊子を胸に戻した。出しきらずに、戻した。二年前、鞄に戻したのと、同じ戻し方だった。
窓口のほうから、声がした。
「清掃の方、そこ、終わったら裏に置いといてください」
画面を見たまま、言った声だった。雨の日に、清掃に回る方もいます、誰が、わたし、見たことないです、と言った人だった。今日も、見なかった。画面から、目を上げなかった。
「はい」
彼女が、答えた。
俺の返事と、同じ音だった。
◇◇◇
「颯太くん、助けられなかった」
彼女が言った。
「……ソウマくんです」
「うん」
彼女は、訂正しなかった。自分の言った名前を、直さなかった。襟は直した。
「管制の席で、二隊目の画面を見てた。あの子が右に寄ったの、見てた」
「はい」
「通り過ぎたあとの三歩、って言ってた。あなたの言い方で」
「はい」
「正解です、って、あなたが言った」
「……はい」
「その六分後に、天井が落ちた。わたしは、その前に二回言ってる。認められません、って。二回とも、わたし」
「はい」
彼女は、モップを床に立てた。柄の先に、両手を置いた。
「切ったあとに、始まるんだよ、こういうの」
「何が」
「……」
彼女は、柄の先の手を組み直した。
「怒らないんだ」
「はい」
「怒ってほしかった。四年。一回も怒んなかった」
俺は、何も言わなかった。
「言い出したの、わたし」
彼女は、もう一回言った。二年前と、同じ言い方だった。言い訳を先に潰す言い方だった。
「あなたが映ると、数字が止まるの。三層の入口で、四十秒で二千人抜けた。全部正しかった。正しかったんだよ」
「知ってます」
「知ってるの」
「毎回、数えてたので」
彼女は、襟を直した。
訂正しなかった。言い出したの、わたし、を、取り消さなかった。
◇◇◇
彼女が、モップを動かしはじめた。
俺の前で、床を拭いた。俺を見ないで、拭いた。
俺は、跡を数えた。
一。二。三。
一往復ごとに、重なりができる。重なりの間隔を、俺は見た。
俺の歩幅と、同じだった。
四。五。六。
俺は、自分の靴の先を、重なりのひとつに合わせた。一歩、歩いた。次の重なりに、合った。もう一歩。合った。
十二。十三。十四。
彼女の顔は、見なかった。見ないで、跡を数えた。数えているあいだ、俺は、彼女の前を歩いていた。地下二層の列の最後尾で、歩数を数えていたときと、同じ速さだった。
二十六。二十七。
三十。三十一。
三十七。
三十八で、彼女が拭くのをやめた。
三十八歩目で、右の壁が黙る。
同じ数だった。
俺は、そこに立っていた。彼女がモップを止めた場所に、俺の靴の先があった。右を見た。壁があった。ギルドの壁だった。叩かなかった。
俺は、彼女を見なかった。跡を数えた。数えているあいだ、俺がどこを歩いているのか、わからなくなった。
◇◇◇
「名前、ないんだよ、もう」
彼女が言った。
「はい」
「呼べないよ、ほんとは」
「はい」
彼女は、モップを持ち直した。柄の先に、両手を置いた。置いた左手が、右手の甲を、一度押さえた。札を貼ったあとの、二回押さえる指の、一回目だった。
二回目は、なかった。
「……それでも観るよ。毎晩」
彼女は、それだけ言って、モップを引きはじめた。入口のほうへ。
俺は、振り返らなかった。
窓口で判を押して、階段を降りた。二十二段。
降りながら、数えなかった。
降りきってから、俺は自分の靴の先を見た。床の、濡れたもの。入口から続いている線が、階段の下まで来ていた。誰が引いたのかは、知っていた。呼ぶ名前は、なかった。
跡は、俺の歩数と同じ間隔だった。




