第15章 知っていた
四日、手が動かなかった。
わざとではない。
一日目の朝、玄関で、彼女が左手を出した。指が四本、こちらを向いている。親指は折ってある。俺はそれを見て、自分の右手を見た。右手は、上着のポケットの中にあった。出なかった。俺は、台所に戻って、鍵を探した。鍵は、ポケットの中にあった。
彼女は、何も言わなかった。手を下ろして、先に出た。
二日目の朝も、彼女は手を出した。俺は、靴紐を結び直した。結んであった靴紐を、解いて、結んだ。
彼女が出たあと、俺は三階に残った。残って、壁を叩いた。玄関から、台所、洗面所、寝室。五歩ごとに、二回。三階の壁は、どこを叩いても一段で返った。薄い壁だ。北側だけが、半拍遅れた。川の手前なので、湿りが上がってくる。配管が、たぶん、そこにある。方眼のノートを開いて、三十七本目の次のページに、鉛筆を置いた。置いただけで、書かなかった。地図にする場所ではなかった。
台所の隅に、封筒の山があった。十二通。上の一通に、鴨居の手袋から落ちる水が、届いていなかった。湯呑が、その下にあった。四畳半から運んできた水が、指一本ぶん、そのまま入っていた。
三日目に、彼女は手を出さなくなった。
かわりに、自分で叩いた。玄関の壁に背中を預けて、左手の薬指を、右手の人差し指の背で、二回。叩いてから、首を傾げた。一回目で自分の手の音が出る。二回目は、その上に乗る。外れで、三十分かけて教えた。
彼女は、自分の音を聞いていた。聞いて、どちらの、ふうん、も言わないで、出た。
三日目の夜、彼女は六つの明かりをつけたまま横になった。十五分で、息が浅いまま止まった。止まったまま、朝まで浅かった。把握は、明かりがあっても、なくても、同じ精度で返す。俺は、台所の椅子で、それを返していた。数えなかった。数える夜ではなかった。
四日目の夜、彼女は玄関の横のスイッチを押して、六つの明かりを落とした。
常夜灯だけが、隅で光っていた。豆粒くらいの、橙色だった。
彼女は、俺の正面に座った。
「話して」
「……はい」
「四日待った」
俺は頷いた。
「もう待たない」
◇◇◇
俺は、全部話した。
二十二歳の、ない一年のこと。白い部屋のこと。当番表の、赤い線のこと。盤の、左から三番目のこと。指と、指と、右手と、背中のこと。
目のこと。六時間のこと。
最後まで話すのに、一時間かかった。途中で四回、言葉が出なくなった。四回とも、壁の話をしたくなった。この部屋の北側の壁が、半拍遅いこと。四回とも、しなかった。
彼女は、一度も遮らなかった。
話し終わって、俺は自分の膝を見ていた。
「シキ」
「はい」
「知ってた」
◇◇◇
俺は、顔を上げた。
彼女は、まっすぐ俺を見ていた。目は、乾いていた。
「……いつからですか」
「途中から」
彼女は、膝の上で手を組んだ。左の薬指だけが、他の指より、まっすぐだった。
「顔は、憶えてないって言ったでしょ」
「はい」
「あれ、嘘じゃない。顔は、ほんとに憶えてない。ずっと天井見てたから」
「はい」
「手は、憶えてる」
彼女は、自分の右手を、横に出してみせた。
見ないで出した。何もないところで、指が閉じた。
「その人、盤のほうに手を伸ばすの。見ないで伸ばす。いつも同じ高さで、同じところ。迷わないの。ぜんぜん迷わない」
俺は、自分の右手を見た。膝の上で、指が半分閉じていた。
「六年前、眠れなくて、配信を漁ってたの。同時接続が一桁とか二桁のところを、上から順に開いてた」
俺の呼吸が、そこで一回止まった。
「壁を削ってる人がいた」
彼女は言った。
「ナイフを持ち替えるとき、袋のほうに手を伸ばすの。見ないで伸ばす。そこに袋があって、迷わない」
◇◇◇
「……深夜二時さん、ですか」
「うん」
「四年」
「四年」
「十二人のうちの、一人」
「うん」
彼女は、携帯を出した。画面を、こちらに向けた。
夜の枠の一覧だった。四十一の名前が並んでいる。いちばん下のほうに、深夜二時、の四文字があった。その横が、明るかった。今、入っている印だ。
俺は今夜、配信をしていない。入っている人は、いないはずだった。
「消し忘れ」
彼女は、そう言って、画面を伏せた。
俺は、両手で顔を覆った。
覆った手の内側で、四年ぶんの文字が並び替わっていった。〈出せ〉。〈聞いた上で言ってる〉。〈出せ〉。〈外れの地図、明日やる?〉。〈じゃあいい〉。〈終わらないなら言うな〉。〈じゃあ、行ってこい〉。
画面の上でしか知らなかった短い文字に、いま、順番に声がついていく。ついていく声は、全部、正面に座っている人のだった。
〈じゃあ、行ってこい〉。専属が決まった日のあれは、この人が、自分のところへ俺を送り出した言葉だった。
「……出せ、って言いましたよね」
「言った」
「たまごの」
「出したじゃん、あなた」
「出しました」
「六十円で、あんなに悩まないでよ」
「……あれ、二年前です」
「え」
「切られる、前の日でした」
彼女は、そこで止まった。
「……そっか」
「はい」
「四年ぶん、ぜんぶ同じ日みたいに憶えてる。順番が、ないんだよ」
「立ち食いの店で、出しなよって」
「言った」
「……あれ」
「我慢できなかった」
彼女は、そこで少しだけ笑った。
「三文字か四文字、って決めてたの。理由は書かない。書くと、長くなって、わたしになるから」
「……たまごのときは」
「我慢できなかった」
二回目だった。同じことを、同じ速さで、二回言った。
◇◇◇
「深夜二時って」
「観てた時間」
彼女は言った。
「ほかに、思いつかなかったの」
◇◇◇
「なんで、観てたんですか」
俺は、そう訊いた。
彼女は、少し黙った。髪をまとめて、また下ろした。
「降ろしたかったの」
「降ろす」
「あなたを、配信から」
彼女は、そこで一度、息を吸った。
「あの手つきの人が、配信の中にいた。十二人に向かって、壁の裏が空です、って言ってた。誰も聞いてないのに、三十分喋ってた」
「はい」
「最初は、誰だかわからなかった。手だけ、知ってた。どこで見た手か、思い出せなかった」
「はい」
「思い出してから、降ろそうと思った」
彼女は、それだけ言った。その先を、言わなかった。
◇◇◇
「外れで会ったとき、十一人です、って言いましたよね」
俺は言った。
「あなたは、黙ってた」
「あそこで言ったら、十一人じゃなくなる」
彼女は言った。
「あなたが十一人を消したの、わたし、見てたから」
一拍、あいた。
「あの中にわたしが入ってるって言ったら、あなた、わたしのために消したことになる。そうじゃないでしょ」
「……そうです」
「だから、言わなかった」
「外れで会った週から、打たなくなりましたよね」
「目の前にいる人に、打てないよ」
◇◇◇
「切られた日の夜」
俺は言った。
「外れの地図、明日やる、って」
「訊いた」
「あれは」
「怖かったの」
彼女は、膝の上の手を見た。
「ああいう夜に、人は配信をやめるから。明日って言わせておけば、明日はいるでしょ」
「〈じゃあいい〉」
「うん」
「じゃあいい、じゃ、なかったんですね」
「ぜんぜん、じゃあよくなかった」
◇◇◇
「なんで、上げたんですか」
俺は訊いた。
「降ろしたかったなら、なんで、専属だなんて」
「間違えたの」
彼女は、あっさり言った。
「上に行けば、降りられると思ってた」
「言えましたか」
「言えなかった」
彼女は天井を見上げた。六つの明かりは、消えていた。
それから、何も言わなかった。膝の上で、指を折った。親指から。小指まで折って、開いた。また親指に戻った。数は、合っていなかった。
俺は、訊かなかった。
◇◇◇
「うまいからです、って言ったの、憶えてる」
彼女が言った。
「……はい」
「あのときは、何とも思わなかった。そうですか、って言って、帰った」
「はい」
「四年観て、思い出して、意味がわかった」
俺は、訊かなかった。どういう意味か、訊かなかった。
彼女も、言わなかった。
◇◇◇
「怒ってます?」
俺は、そう訊いた。
四年、画面の向こうから、〈出せ〉と打っていた人に。降ろそうとして、上げた人に。俺の手を、思い出した人に。
「怒ってない」
彼女は言った。
「……」
「怒ってよ」
彼女が言った。
恥ずかしがらなかった。まっすぐ言った。ギルドの旗の下で、襟を直した手が、同じことを言った。同じ形で、同じ速さで。
怒ってよ。
俺は、口を開けた。
「それより」
俺は、そう言った。
「この部屋の壁、薄いです。一段で返ります。川の手前なので、湿りが上がってきてる。北側の壁だけ、半拍遅いです。たぶん、配管が」
「シキ」
「はい」
「ずるいね」
「はい」
彼女は、ふうん、と言わなかった。どちらの、ふうん、も言わなかった。
◇◇◇
「便利にしたまま、置いてったんだ、あなた」
彼女は言った。
「八年前。指と、目と。便利にして、便利ですね、って言わせて、そうですか、って言って。それで、いなくなった。当番表から」
「はい」
「壊してくれればよかったのに」
「……」
「壊すところまで、やってくれればよかったのに。途中で、便利にしたまま、置いてった」
彼女は泣かなかった。
目が、そうできている。
俺が、そうした。
彼女は乾いた目で俺を見て、それから、自分の左手の薬指を、右手の親指でこすった。施術のあとに、二十二歳の俺の前でやったのと、同じ動きだった。
◇◇◇
「わたしね」
少ししてから、彼女が言った。
「あなたの隣でしか、寝れないの」
「はい」
「憎いのに」
彼女は、それを一回だけ言った。言い直さなかった。念も押さなかった。天気の話をするときの言い方だった。
俺は、何も言わなかった。
怒り方を探さなかった。探しても返らないことを、もう知っていた。
◇◇◇
彼女は布団の上に座って、常夜灯を見た。
豆粒の光が、隅にあった。三階に来てから、毎晩ついていた。消したことが、なかった。
「消して」
俺は立ち上がって、隅の常夜灯のスイッチを押した。
「消えました」
「ちゃんと消えた」
「はい」
三十五。
暗くなった。把握が、彼女の膝の角度と、左手の薬指の十一度と、右手の、見ないで横に出せる手の輪郭を、返してきた。
六分で、息が深くなった。
三階で、六分だった。はじめてだった。
全部話した夜も、この嘘だけは言った。
怒ってよ、と言われて、俺は壁の話をした。
幕間④ あなたは、星を押す
あなたは感想を読んでいた。
読むだけのつもりだった。
いちばん上に、あなたが思っていたのと同じことが書いてあった。
〈罰して〉
三文字だった。あなたは、それを二回読んだ。自分の言葉だと思った。自分の言葉が、先に、誰かの手で置いてあった。
あなたは指を伸ばした。
星は、押すと色が変わる。数が一つ増える。増えた数は、上へ動く。
それだけだ。
あなたは、それを要求だと思っていない。
書いてもいない。打ってもいない。押しただけだ。押したのは、自分の言葉ではなく、誰かの言葉だ。
押した星は、あなたの指の下から、もうどこにも見えない。
――それから、俺は壁を叩いた。




