第14章 施術所
四畳半には、もう行けなくなった。
大家さんが階段を上がってきて、今度は家賃の話ではなかった。建物を壊す、という話だった。古いので、と大家さんは言った。それ以上の理由は言わなかった。言わなくても、壁を叩けばわかる。あの建物は、どこを叩いても返りが違った。
座卓を運んだ。鴨居の下の湯呑を運んだ。座卓の脚の横の封筒の山を、十二通、順番を崩さないように運んだ。三階の台所の隅に、同じ形に積んだ。
紐は、持っていけなかった。天井のものだ。
最後の日に、俺は四畳半の真ん中に立って、壁を叩いた。二回。返りが、まだ違った。それを聞いてから、鍵を大家さんに渡した。
三十四で、止まっていた。
◇◇◇
三階には、紐がない。
六つの明かりは、玄関の横のスイッチで消える。消える、と言えば消える。ちゃんと消えた、と、彼女は言わなかった。消えたことが、見ればわかる明かりだった。
彼女は、明かりをつけたまま寝た。
明るいところで寝ていた人の、寝方だった。四畳半でも外れでも、六分で深くなった息が、三階では十五分かかった。十五分かかって、浅いままだった。朝、起きるときに、指を折った。親指から。数は、合っていなかった。前より、合っていなかった。
疲れた顔は、しなかった。疲れない身体になっている。
誰も観てない場所が月に二日、という話を、彼女はもうしなかった。外れには人が来る。四畳半はない。
◇◇◇
朝、玄関で、彼女は左手を出す。
指が四本、こちらを向いている。親指は折ってある。
俺は、薬指を二回叩く。
一段。縁も、中心も、同じ音。
「揃ってる?」
「揃ってます」
「よし」
それから、出る。
いつからこうなったのかは、憶えていない。三階に来てから、毎朝だ。四畳半で叩いたときは、岩より怖かった。毎朝叩くと、怖さは薄くなる。薄くなった怖さは、なくなったのではなくて、薄くなった。
◇◇◇
瑠璃の回廊は、閉鎖された。
外れの先が、また白くなった。公式地図の、三十七本の突き当たりから先。一度は青く塗られたところが、事故のあとで線を抜かれて、白に戻った。誰も見ない。見ないので、描き直されない。
献花台は、一週間でなくなった。東口の脇に、長机のあった跡だけが、床の色の違いで残っていた。それも、ひと月で同じ色になった。
『颯太、死ぬ』は、七千万で止まった。止まって、次の切り抜きが上に来た。
第十層が、作られた。三日で作られて、俺たちは九分で抜けた。壁は、一歩ごとに叩いた。五歩ごとではなく、一歩ごとに。全部、違う音で返った。違うことを、確かめてから、次の一歩を出した。九分が、九分だった。
季節が、一つ変わった。
◇◇◇
ギルドの地下に、施術所がある。
場所は知っていた。六年通って、前を通ったことはなかった。通らない廊下にある。階段を二十二段降りて、受付とは反対に折れて、突き当たりまで行くと、白い扉がある。
その日、俺は、そこを通った。
理由はなかった。変更届を出して、判を押して、階段を降りるつもりで、反対に折れた。足が、そっちに行った。
扉は、少し開いていた。
内側に、当番表が貼ってあった。
名前の欄が三つある。三つとも、赤い線が引いてあった。まっすぐ、一度も途切れずに。
赤い線の下に、新しい紙はなかった。
二つ目の名前を、俺は見た。
鳴海。
俺の字だった。急いだときの、海の字が、右に傾く。傾いていた。
◇◇◇
部屋は、白かった。
床も壁も天井も、継ぎ目のない樹脂で覆われている。窓はない。空調の音が一定で鳴っている。
俺は癖で、壁を指の背で二回叩いた。
返りは、一段だった。五歩ぶん歩いて、もう一度叩いた。同じ一段だった。
継ぎ目が、どこにもなかった。
一段しか返らないものは、岩と同じに聞こえる。それは、知っている。四畳半で、叩いた。毎朝、玄関で、叩いている。
扉の内側に、当番表が貼ってあった。
名前の欄が三つある。上の一つに、赤い線が引いてあった。まっすぐ、一度も途切れずに。
二つ目が、俺だった。三つ目は、空いていた。
当番表の下に、封筒が一通、留めてあった。機械が刷ったやつだ。宛名の欄には、登録番号だけが入っていた。封は切ってある。中の紙が、半分引き出されたままだった。
失効、と刷ってあった。その下に、三か月、の字があった。
この仕事にどうやって来たのかは、思い出せなかった。部屋のどこにも、名前は書いていなかった。履歴の要らない仕事だった。
中央に椅子が一脚。背もたれが倒れるやつだ。歯医者のに似ているが、腕を置く台が長い。
右手の側に、可動式の盤があった。上に、器具が並んでいた。
俺は、それを見ていない。
見ていないのに、盤に何がいくつ載っているか知っていた。左から三番目が、いちばんよく使うやつだ。
俺は白衣を着ていた。
袖が短い。二十二歳の俺の腕は、今より細かった。
◇◇◇
扉が開いた。
「失礼します」
入ってきたのは、美波だった。
髪が短かった。今より十センチくらい短い。装備ではなく、事務所の支給品らしいジャージを着ていた。顔がまだ丸い。
彼女は俺を見て、頭を下げた。
「鳴海さん、おはようございます」
「おはようございます。座ってください」
俺の口が、そう言った。
言い慣れた言い方だった。
◇◇◇
彼女は椅子に座って、右腕を台に載せた。
俺は盤から左から三番目を取った。見ないで取った。高さも距離も、間違えなかった。
「あ、今日は、左のほうです。すみません、こないだ右やったので」
彼女がそう言って、腕を入れ替えた。
「憶えてます」
「いえ」
俺は彼女の左手を取った。
薬指。第二関節から先。
俺は、そこに触れた。
冷たかった。まだ、彼女の指だった。
◇◇◇
施術は、二十分で終わった。
痛みはない。麻酔も要らない。器具を当てて、待って、外す。それだけだ。血は出ない。音もほとんどしない。空調のほうが大きい。
やっているあいだ、彼女は喋っていた。よく喋る子だった。
「先週、四層で三時間かかっちゃって。最後のほう、握力がなくなって。あの、握力って、じわじわ落ちるんじゃないんですよ。ある瞬間に、ぱっと落ちるんです。あ、いま落ちた、ってわかるんです。それまでは普通なのに。だから、握れてるうちがいちばん怖いんです。いつ落ちるか、自分でもわかんないから」
「そうですか」
「落としたんです、剣。中継に乗っちゃって」
「痛かったですか」
「痛くはないです。恥ずかしくて。拾いに行くまでの三歩が、いちばん長かったです。三歩なんですけど」
「そうですか」
俺は器具を外した。
「終わりました」
「もうですか」
彼女は左手を持ち上げて、指を曲げた。
「あ、動く」
「動きます」
「痛くないんですね」
「痛くありません」
彼女は薬指の腹を、親指でこすった。
「便利ですね、これ」
「そうですか」
俺は、その言葉を聞いた。
二十二歳の俺は、何も思わなかった。
◇◇◇
二回目は、三週間後だった。
左手の、中指と人差し指。
「四時間、握れました」
彼女は嬉しそうだった。
「切り抜き、伸びたんですよ。剣を握ってるところだけで、二百万回」
俺は器具を当てて、待って、外した。
◇◇◇
三回目は、二か月後だった。
右手。
「両方やると、揃うので」
彼女はそう言った。
「揃うと、映りがいいんです。左右で色が違うと、指摘が来るので」
「そうですか」
「鳴海さん、いつも同じ反応ですね」
彼女は笑った。
「怒ってます?」
「怒ってません」
「よかった」
◇◇◇
四回目は、三か月後だった。
その日、彼女は椅子に座ってから、しばらく黙っていた。
「あの」
「はい」
「疲れなくなるのって、ありますか」
俺は、盤のほうを見た。
「あります」
「どこですか」
「腕の付け根から、背中にかけてです。十二時間、同じ力が出ます」
「痛くないですか」
「痛くありません」
彼女は「じゃあ、お願いします」と言った。
俺は、それをやった。
三時間かかった。彼女は途中で寝た。起きたときに「あ、寝てました」と言って、恥ずかしそうにした。
◇◇◇
五回目は、その二週間後だった。
一回目からその日までを、俺は数えた。
六か月と一週間だった。
彼女は椅子に座って、天井を見上げた。
この部屋の天井には、照明が六つ、埋め込んである。
「目って、できますか」
俺は手を止めた。
止めたのは、そのときが最初だった。
「目、といいますと」
「照明が強いと、水が出るんです」
彼女は自分の目尻を、指でなぞった。
「涙じゃないんですよ。ただ、光が強いと出る。生理現象です。でも、映ると、泣いてることになるんです」
「はい」
「先月、四層のところで出て。切り抜きに『美波、泣く』ってタイトルがついて、千二百万回いきました」
「はい」
「あれ、泣いてないんです」
彼女は、天井の照明を見たままだった。
「泣いてないのに、みんな、泣いてることにする。そのほうがいいから。それはわかるんです。わかるんですけど、あの日、わたし、ほんとに嬉しかったんですよ。四層抜けて。それを、泣いたことにされて」
彼女は俺のほうを見た。
「水が出なければ、いいと思って」
俺は、盤を見た。
左から三番目ではなかった。もっと右の、めったに使わないところにあるやつだった。
俺は、それを取った。
見ないで取った。高さも距離も、間違えなかった。
「――時間がかかります」
「どのくらいですか」
「六時間です」
「じゃあ、お願いします」
◇◇◇
六時間かかった。
手は、一度も迷わなかった。器具を当てて、待って、外して、角度を半度だけ変えて、また当てて、待って、外して、そのあいだ俺は彼女の目ではなく目の奥の深さを測っていて、水の湧くところの返りが一段ずつ浅くなっていくのを、南の三本目の水が増える前の晩の半拍鈍る返りを聞き分けるのと同じ耳で聞き分けていて、浅くなるたびに次に当てる場所が先にわかって、わかるたびに手が考えより先に動いて、動くたびに工程は縮んでいって、四時間を過ぎるころには待ち時間の長さまで読めるようになっていて、読めたぶんだけ仕事は正確になって、正確になったことに俺は満足していて、外れの通路を一本書き終えるときと同じ満足のしかたで満足していて、その満足のまま、六時間目の終わりに、最後のひとつを外した。
彼女は寝なかった。ずっと天井を見ていた。
終わったとき、俺は「開けてください」と言った。
彼女は目を開けた。
照明の下で、目尻は乾いていた。
「出ないですね」
「出ません」
「もう出ないんですか」
「出ません」
彼女はまばたきを三回した。
「あ、でも、まばたきはするんだ」
「します」
「よかった」
彼女は椅子から降りて、上着を着た。
それから、扉のところで振り返った。
「鳴海さん」
「はい」
「なんで、この仕事を選んだんですか」
俺は、答えた。
二十二歳の俺は、迷わずに答えた。
「うまいからです」
彼女は「そうですか」と言って、頭を下げて、出ていった。
◇◇◇
その先が、なかった。
俺は、扉が閉まったあとの部屋に立っていた。器具はまだ手にあった。片づけようとして、手を伸ばした。
伸ばした先が、なかった。
白い壁でも、暗闇でもない。何も返ってこない。
俺は、盤のほうを見た。
盤の上に、赤い線が一本、引いてあった。
器具の上を横切って、盤を横切って、床まで続いていた。まっすぐで、途中で一度も途切れていなかった。
俺は、その線を目でたどった。
線は、俺の白衣の上を通っていた。
胸のところから、腹のところまで。
まっすぐ、一本。
◇◇◇
「シキ」
扉を叩く音がした。
白い扉ではなかった。
「シキ、いる? 二時間入ってるよ」
俺は、洗面所の床にいた。
川の手前の三階の、洗面所だった。膝を抱えていた。いつからそうしていたのか、わからなかった。
立とうとして、足が動かなかった。腰から下が、遅れて動いた。
「……います」
「開けて」
俺は、鍵に手をかけた。
かけたまま、動かなかった。
この扉を開けたら、あの人が立っている。
あの人は、二十二歳の俺に、目のことを頼んだ人と同じ顔をしている。
「シキ」
「はい」
「開けなくていいから、返事だけして」
俺は、そこで息を吐いた。
それから鍵を開けた。
◇◇◇
彼女は、廊下に立っていた。
パジャマの上に、俺の上着を羽織っていた。髪が片側だけ跳ねていた。
「顔、ひどい」
「はい」
俺の目から、水が出ていた。
照明が強いわけではなかった。廊下の明かりは、一つだけだった。俺の目は、それでも、出た。出る目だった。誰にも頼んでいないので、誰も、そうしていない。
彼女の目は、乾いていた。
俺は、それを、六時間かけてそうした。
彼女は、俺の顔を見て、それ以上なにも言わなかった。訊かなかった。上着の前を合わせて、廊下に立っていた。
「……壁の裏が」
俺は、そう言いかけた。
彼女は、待った。
俺は、言わなかった。この廊下の壁の裏は、空ではない。言うことが、なかった。
◇◇◇
数えた。
六か月と一週間。五回。指、指、右手、背中、目。
契約書の七枚目の、空いていた一年。潜行ゼロ、申請ゼロ、届出ゼロ。休養、と二文字で埋められた欄。
持っていかれたのは、一年だった。六か月と一週間のぶんだけ、持っていかれたのではなかった。一年まるごと、なかった。
あの部屋は、映らない。映らないので、誰も見ない。誰も見ないものは、残らない。
観られていないものは、残らない。
あの部屋の彼女は、もっと観られたがっていた。切り抜きが伸びたと嬉しそうに言った。左右の色が揃うと映りがいいと言った。
この部屋の彼女は、誰にも観られない部屋を、月に二日、欲しがった。
同じ体だった。同じ声だった。
願いだけが、逆だった。
俺は、座卓の前に座っていた。四畳半ではない。川の手前の三階の、台所の椅子だった。座卓ではなかった。座卓は、台所の隅に、運んできた形のまま、あった。
俺は、右手を横に出した。
見ないで出した。
いつも、そこに盤がある。高さも距離も、間違えなかった。
指が、何もないところで閉じた。
閉じた手を、俺は開かなかった。開かないでいるあいだ、指の腹が、まだ憶えている形を確かめていた。




