第30章 完
三度目だった。
古い携帯を、座卓に立てかけた。内カメラは、暗いと何も映さない。画面は黒い。表示は、ゼロ。
「はい、こんばんは。清掃の、鳴海です」
言い直さなかった。最初から、そう言った。
「今日も、北の外れの、入口から二十メートルの話をします」
◇◇◇
毎晩、同じ話をしている。
五歩目で一段。十歩目で一段。十五歩目で半拍遅れる。継ぎ目が四つ。作った人がいると、わかる。
同じ話を、違う長さでしている。
昨日は、一時間四十分だった。一昨日は、一時間十分で一度置いて、また起こした。今日は、どのくらいになるのか、始める前にはわからない。終わらせる言葉を持っていて、出さない。出さないので、長さは、口が決める。
「十五歩目なんですけど」
俺は、その話をした。
半拍遅れる返りは、南の三本目の、水が増える前の晩の返りと同じ鈍り方で、違うのは、北の十五歩目は毎日そうで、南の三本目は三日に一度だったことで、毎日そうだということは、継ぎ目の奥に水が常にあるということで、常にあるということは、季節で匂いが変わらないということで――
ゼロのままだった。
一時間を過ぎた。
◇◇◇
俺は、話を止めた。
止めたのではない。息が、切れた。
「……まだ、いますか」
返事は、来なかった。
来る場所がない。コメントの欄は、ない。数字は、ゼロ。一で止まる場所が、もう、どこにもない。
三十秒、待った。
壁を叩いて、返りを待つ長さの、何倍か、待った。
◇◇◇
「……ありがとうございました。観ていて――」
言った。
言った直後、自分で驚いた。三度目だった。背中に言ったとき。喉に手を当てたまま言ったとき。同じだった。言うつもりは、なかった。なかったものが、また出た。
十一人には、言ったことがある。五年、ありがとうございました、と。専属が決まった日の昼に言って、それきり、数字の前では言わなかった。数字が動く場所では、礼も釣り餌になる。
数字は、もう動かない。ゼロは、動かない。動かないから、出た。
出た途端に、知った。
数字が動かない場所でも、礼は要求になる。誰もいないところへ言う礼は、祈りと同じ形をしている。祈りは、要求である。
観ていて、の先を、俺は言わなかった。
言わないで、黒い画面を見ていた。
◇◇◇
部屋の匂いがした。
人が長い時間いる部屋の匂いだ。紅茶と、畳と、彼女の髪。鴨居の手袋から落ちる水の、湿った匂い。
俺は、自分の袖の匂いを嗅いだ。
洗剤の匂いがあった。モップの水の匂いがあった。その下に、いつもあったはずのものが、なかった。
四畳半には、あった。鴨居の手袋に、俺の匂いがあった。川の手前の三階にも、あった。この家に来た頃にも、あった。いつからないのかは、わからない。なくなったことに、今、気づいた。
最初になくなるのは、そこだった。
俺は袖を下ろして、座卓の上の携帯の角度を直した。
◇◇◇
「寝ましょうよ」
俺は言った。
「明日、平日ですよ」
今日は、土曜日だった。
明日は、日曜日だ。清掃は、休みだ。
言い直さなかった。
四年、毎晩言った言葉だった。一で止まった画面に向かって、四年、言った。曜日を間違えても、出た。出たものを、俺は、直さなかった。
◇◇◇
携帯は、座卓に立てかけたままだった。
電源を、落とさなかった。
画面は黒い。表示はゼロ。内カメラが、暗い部屋を、何も映さないまま、送っている。
隣で、彼女が寝ている。曲がる指が、布団の端を掴んでいる形のまま、掴めていない。息が深い。
俺は、座卓の前に座り直した。
「……あ。あと、北の外れの、入口から二十メートルのところなんですけど」
幕間⑦ あなたは、書く
あなたは、読み終えない。
画面の中の人が、まだ喋っている。二十メートルの話だ。
あなたは画面を伏せる。喋っているまま、伏せる。
部屋が暗くなる。
あなたは起き上がる。電気は点けない。
ノートは、いつもの場所にある。手で探して、引き寄せる。横に消しゴムがある。触らない。
ペンのキャップを外す。右手の人差し指の側面に、ペンが当たる。毎日、同じところに当たる。
あなたは、書く。
二十メートルの話を、書く。聞いていた。半分、聞いていた。半分のほうを、書く。
五歩目で一段。十歩目で一段。十五歩目で、半拍。
うまく言えない。うまく言えないまま、書く。
読み返さない。
消さない。
送らない。送る場所は、ある。あっても、送らない。
だから、誰も直しに来ない。
あなたは横になる。枕の位置が悪い。一度起き上がって、直す。毎晩、直す。
明日は、平日だ。
あなたは、まだ寝ない。
画面の中で、あの人が、まだ喋っている。
あなたは、もう一度、画面を起こす。
次は、いつ。
誰も見ていない。




