第12章 瑠璃の回廊
外れの先に、迷宮ができた。
三十七本の地図が公式になって、外れが外れでなくなって、その先が、誰かの目に入った。崩れた石の向こうに通路があるという報告が上がって、三日後に、新規の特級として公開された。
第一層から瑠璃色だという映像が出て、その日のうちに、世界中の画面がその色になった。
合同踏破だった。うちが先頭で、後ろに六つの隊がつく。中継は七つの視点を切り替えながら流される。
二隊目は、ソウマくんの隊だった。三隊目は、レイジさんの隊だった。
入口に七つの隊が並んだ。胸当てに、会社の名前が入っていた。六つ。三隊目の装備には、なかった。名前の入っていた跡があった。縫い目が、そこだけ新しかった。
後ろの枠は、前の枠より、危ない。崩れるとき、崩れるのは後ろからだ。誰がそう決めたのかは知らない。決まっているだけだ。
◇◇◇
入口の前で、ソウマくんが走ってきた。
背が伸びていた。去年より、俺の目の高さに近かった。
「鳴海さん!」
「おはようございます」
「あの、これ」
彼は肩の鞄から、それを出した。
コピーを綴じ直したやつだ。角が丸くなっていて、背にテープが貼ってある。一年ぶん使った紙の厚みがあった。
表紙に、油性ペンで二行。
鳴海シキ
ソウマ
俺の名前が上で、彼の名前が下だった。字が、少し右上がりだった。
「上に書いたほうがいいと思って」
「……なんでですか」
「元の人なので」
俺は、その表紙を三秒くらい見ていた。
彼は、俺の肩の上を見た。事務所の球だ。レンズが動いて、音がしなかった。
「鳴海さんの球、軋まなくなりましたね」
「新しいので」
「……ちょっと、さみしいです」
彼は、そう言って笑った。笑ってから、笑うのをやめた。
「地図、切り抜いたの、僕です」
彼は、そう言った。言ってから、俺の顔を見た。
「知ってます」
「怒ってますか」
「……怒ってません」
「よかった」
彼は頭を下げて、走って戻っていった。途中で一度振り返って、手を上げた。
俺は、上げ返すのが遅れた。
上げたときには、彼はもう前を向いていた。俺の手は、誰にも見られずに、上がって、下りた。
◇◇◇
中は、本当に瑠璃色だった。
壁が青い。天井も青い。照明球の光を吸って、深いところで一度濁ってから返してくる。歩くと、自分の影が青の中に沈む。
俺は指の背で壁を二回叩いて、返りがいつもより遅れて戻ってくるのを聞いて、遅れているのに濁っていないから石ではなく硝子に近いものが層になって重なっているのだとわかって、その層と層のあいだに水があって、水の量が上から下へ少しずつ増えていて、増えているぶんだけ青が深くなっていて、この通路の色は塗られたものではなくて厚みそのものが見えているのだと理解して、理解した瞬間に、俺は五年間ずっと壁の向こう側ばかり測ってきて壁そのものを一度も見たことがなかったことに気づいて、気づいたら喉のところが妙に熱くなって、この熱さには名前がついているのだろうかと思って、たぶんついていて、俺がそれを知らないだけなのだと思った。
――そこまでが、二秒だった。
二秒で全部わかって、それを人に渡す言葉が、俺には一つもなかった。
「……はい」
出たのは、それだった。誰にも訊かれていないのに、はい、と言った。
視界の右下の数字が、一億三千万を超えた。
美波が、前を歩きながら振り返った。
「うん」
彼女は笑った。中継用の笑い方じゃなかった。俺は、それを一億三千万のうち俺だけが見分けられるんだと思った。
その日、俺はこの仕事が好きだった。
◇◇◇
コメントは、見ない。数字だけ見る。
合同中継だったから、視界の隅に他隊の画面が小さく出ていた。七つ。切り替わるたびに、同じ青が、別の高さから見えた。
二隊目の画面に、俺の背中があった。
ソウマくんの球の角度だった。少し上から、少し後ろから。俺の球が俺を撮る角度と、同じだった。俺の背中が、壁に手を当てて、止まって、また歩いた。一年ぶん見た背中を、彼はその角度から見ていた。
文字が流れていた。読む気はなかった。三本だけ、勝手に入ってきた。
〈青、飲みたい色してる〉
〈二隊目、もっと映して〉
〈この通路、さっきも通らなかった?〉
三本目を、俺は流した。
◇◇◇
二十六歩目で、俺は足を止めた。
美波も止まった。後ろの六隊も止まった。
「どうしたの」
「今、ここに来るまで、二十六歩でした」
「うん」
「さっきの分岐からも、二十六歩でした」
「同じ長さの通路が二本あるってこと?」
「いえ」
俺は壁に手を当てた。
「音の返りが、同じです」
「同じって」
「似てるんじゃなくて、同じです。ずれが一つもない」
材質を揃えた通路でも、水の量と壁の欠けで、返りは必ず少しずつ違う。同じ通路を二度歩いても、同じにはならない。外れの三十七本は、全部材質が同じで、全部返りが違った。五年、それを書いてきた。
同じになるのは、同じものを二つ置いたときだけだ。
継ぎ目の上で、返りが二重になった。
いつもの二重ではなかった。継ぎ目の手前の壁と、継ぎ目の向こうの壁が、同じ音で返った。作った人がいる、とわかる音ではなかった。作ったものを、もう一回貼った音だった。
俺より先に、気づいた人がいる。名前も知らない誰かが、画面の向こうで、先に。
「戻りましょう」
俺は言った。
後ろの隊の誰かが笑った。悪意のある笑い方ではなかった。緊張していただけだと思う。
五隊目の隊長が、通信で言った。
『鳴海さん、俺も気になってました。壁の厚みが、さっきと同じに見える』
◇◇◇
通信に、別の声が入った。
『管制です。撤退は認められません』
俺は球のマイクの位置を確かめた。今の会話は、全部乗っている。
「解析からの判断です。構造に――」
『視聴者数、一億三千四百万。現在も上昇中』
『三十分後に各局の枠が切り替わります。それまでに第三階層まで到達してください』
『管制、五隊です。うちも同意見で――』
『五隊、了解しました。検討します』
検討します、のあとに、息を吸う音が乗った。半秒。
吸ったまま、声が続いた。
『撤退は認められません。判断を出したのは、わたしです』
言い訳を先に潰す言い方だった。
俺は、その言い方を四年聞いていた。三層の入口で、ギルドの旗の下で、言い出したの、わたし、と言った声だ。
管制は、映らない。管制の人の顔は、どの切り抜きにも出ない。映らない仕事が、あの人に回った。
俺は、その通信に何も返さなかった。
返さないまま、美波が通信を切った。手袋の指で、自分の耳のあたりを二回叩いた。
「行こう」
「美波さん」
「切っても、聞こえてるから」
彼女はそう言って、青い通路の奥へ歩き出した。
俺はついていった。ついていくしかなかった。ついていきたかった、が正しい。
◇◇◇
第二階層で、それが出た。
六本脚で、背中が割れていて、割れ目から灰色の毛が出ている。第七層で同じものを一度殺している。
左の第三脚の付け根に、傷があった。斜めに、深く、途中で止まっている。
一年前に、俺が「二時、いま」と言って、美波が入れた傷だった。あのとき、刃は途中で骨に当たって止まった。俺が刻みを一つ早く出したせいだ。
同じ傷が、同じ角度で、同じところで止まっていた。
「美波さん」
「見えてる」
「あれ、殺しました」
「うん」
「同じ個体です」
彼女は目を閉じた。
俺は口を開いた。
「右、五十度――」
◇◇◇
半歩、ずれた。
二重になった返りが、二つの場所を返してきた。俺はそのうちの一つを言った。彼女の刃は、俺が言った場所を正確に通った。そこに、それはいなかった。
前脚が、彼女の左の脇腹に入った。
音が、遠くで聞こえた。自分の悲鳴だった。
美波は倒れなかった。体をひねって、抜けた。抜けてから、左手が脇腹に行った。行ったまま、戻らなかった。
「もう一回」
「美波さん」
「もう一回、言って」
「無理です、この通路は――」
「言って」
俺は言った。
「左、七十度、いま」
当たった。
次はずれた。
その次は当たった。
半分だ。この通路では、俺の言葉は半分しか当たらない。二つ返ってくるうちの、片方しか本物がない。どちらが本物かは、叩いてもわからない。同じ音だからだ。
彼女は、それでも一度も確かめなかった。
◇◇◇
後ろから、通信が入りはじめた。
最初は、いい報告だった。
『二隊、解析です』
ソウマくんの声だった。息が上がっていたが、明るかった。
『左の壁、裏が空です。天井まで抜けてます。底が湿ってるので、羽虫だと思います』
『――二隊、了解』
『鳴海さん、聞こえてますか。合ってますか』
俺は、指示を出しながら通信に割り込んだ。
「合ってます」
『よかった』
『じゃあ、うち、いったん右に寄ります。通り過ぎたあとの、三歩ですよね』
「正解です」
俺は、そう言った。
言ってから、次の座標を出した。
◇◇◇
六分後だった。
悲鳴が、いくつも同時に上がった。
通路が増えた。壁の裏の空洞が、空洞ではなかった。同じ通路が、継ぎ目の向こうに、もう一本貼ってあった。貼ってあったものが、剥がれた。
六隊が散った。青い通路のあちこちで、同じ六本脚が、同じ傷を持って立ち上がっていた。数はもう数えていない。
通信が全部同時に鳴った。
『三隊、退路が――』
『壁が、通路が増えて』
『どっちだ、どっちに戻ればいい』
俺の中で、何かが広がった。
通路の形が、いっぺんに入ってきた。青い壁の裏の空洞も、天井の梁の位置も、六本脚の重心の傾きも、貼ってある通路と元の通路の境も、後ろの六隊のうち生きている人間の位置も、全部が一度に見えた。
こんなに見えたことは、一度もなかった。
視界の右下を見た。
二億四千万。
増えていた。人が死ぬたびに、増えていた。
第七層で一回で足りたのも、これだ。球が新しいからではない。
わかった上で、俺は口を開いた。
「美波さん、左、三十度、三歩、いま」
当たった。ずれなかった。二つ返ってくるうちの、どちらが本物か、見えた。
「後ろ、真後ろ、半歩、いま」
当たった。
「三隊、階段、左です。右は貼ってあるほうです」
「五隊、壁の裏、入ってください。六畳あります。乾いてます」
「六隊、右に寄って。通り過ぎたあとの三歩、数えて。一、二、三、いま出て」
俺の声が届く範囲が広がっていた。三隊の四人が階段に着いた。五隊の二人が壁の裏に入った。六隊の一人が、俺の声で右に寄って、三歩を数えて、生きた。
俺は、自分でも驚くくらい正確だった。
そして、俺は思った。
もっと観てくれ、と思った。
思ったことを、誰にも言わなかった。
◇◇◇
その中に、聞き分けられる声があった。
『鳴海さん』
ソウマくんだった。
『鳴海さん。どうして、あなただけが、続きを――』
途切れた。
切れたんじゃなかった。彼の側で、音を出すものがなくなった。
俺は、座標を出し続けた。出しながら、通信の、途切れたあとの場所を把握した。壁も、石も、返ってきた。人の返りは、なかった。吸うものが、そこに、もうなかった。
「右、二、四、いま」
七人を、階段まで届かせた。
管制の声は、途中から、なかった。認められません、の先が、来なかった。回線は、開いていた。開いたまま、誰も喋らなかった。
◇◇◇
救援が入るまでに、一時間四十分かかった。
美波は自分で歩いて出た。脇腹を左手で押さえて、右手で剣を持って、俺の前を歩いた。照明球が回り込んで正面を撮ろうとした。彼女はそのたびに顔を伏せた。
地上の光は白かった。青が抜けて、目が痛かった。
事務所の人が走ってきた。目を見て話す人だ。彼女の脇腹を見て、病院、と言った。
「行かない」
「美波さん」
「記録が残る。医務室でいい」
その人は、止まった。止まってから、はい、と言った。言いにくそうな顔で、正確に、はい、と言った。
俺は座り込んで、運ばれていく担架を数えた。
九つ。
そのうち二つは、上から布がかけてあった。
二つ目の担架の脇に、誰もいなかった。
三つ目の担架の脇に、レイジさんが立っていた。俺のほうを見なかった。
地上に出て、レイジさんは空を見なかった。
俺は五秒待った。それから、もう五秒待った。
彼は、担架のほうを向いたままだった。
◇◇◇
トオルさんは、階段の上に立っていた。
携帯を見ていた。
画面に、青があった。さっきまでの崩落が、他所の隊の視点で流れていた。天井が落ちて、画面が青から灰色になって、数字が跳ねて、そこでまた最初に戻る。彼は、最初に戻るたびに、また見ていた。
俺が横を通ったとき、彼は画面から目を離さずに言った。
「……悪いな」
何に対して言ったのかは、わからなかった。
俺は、担架の二つ目のほうを見た。
布の下の形を、把握しなかった。把握しないでいることが、できた。できることを、そのとき知った。
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