第11章 切り抜き
三日後、交差点の壁面に、俺がいた。
信号が赤だった。傘の群れが全部そっちを向いていて、俺は傘の下で、自分を見た。
題は『鳴海、終わる』。数字は千二百万。長さは、二分十秒。
外れの突き当たり。崩れた石。床に置いた小さいライト。壁に背中を預けて眠っている銀色。その手前で、方眼のノートに鉛筆を動かしている男。
俺は、角度を見た。
画面は、崩れた石の上から撮っていた。俺の右斜め上、石と天井の隙間。あの日、あそこには誰もいなかった。叩いてある。一時間かけて、石の山を下から順に叩いた。返りは全部、石の返りだった。
球は、浮かべていなかった。事務所の球は、部屋に置いてきた。床に置いたのはライトだけの小さいやつで、あれにレンズはない。
画面の中の俺が、ライトに手を伸ばした。
暗くなった。
白い字が出た。
「二人きり、だね」
そこで二分十秒が終わって、最初に戻って、また崩れた石の上からの角度になった。
雨だった。画面の光が濡れた路面に落ちて、傘の群れの足元にも、銀色が寝ていた。上と下で、同じ角度で、同じ場所で、眠っていた。
信号が青になった。傘が動いた。俺は動かなかった。後ろから来た人が俺を避けて、避けるときに俺の顔を見なかった。画面の中の俺を見ていた。
誰が撮ったのかは、どこにも書いていなかった。
◇◇◇
事務所が借りた部屋は、川の手前の三階にある。
天井に、埋め込みの明かりが六つ。消すスイッチは玄関の横にあって、探さなくても、ある。紐はない。
彼女は、ソファの背に腕を掛けて、携帯で二分十秒を見ていた。音は出していなかった。
「俺たち、終わったことになってます」
「そうなの」
「二分十秒で」
「ふうん」
終わらせるほうだった。
彼女は携帯を伏せて、自分の左手を見た。薬指だけが、他の指より、まっすぐだった。
「わたし、寝てたね」
「はい」
「寝顔、映ってた」
「はい」
「あそこ、誰も来なかったよね」
「来ませんでした」
彼女は、それ以上訊かなかった。
伏せた携帯の縁から、光が漏れていた。二分十秒ぶんの間隔で、暗くなって、明るくなった。最初に戻るたびに、ソファの布の上で、細い線が一本、ついたり消えたりした。
◇◇◇
事務所の人が来たのは、その日の夕方だった。
新しい球を持ってきた人だ。名刺を両手で出した人で、俺の目を見て話す。玄関で靴を揃えて、ソファには座らなかった。
「数字、見ました?」
「千二百万です」
「いえ、お二人の」
その人は、携帯の画面をこちらに向けた。俺の名前のついたページと、彼女の名前のついたページ。どちらも、上を向いていた。
「上がってます。昨日から、両方」
「……終わったのに、ですか」
「終わった、は、伸びるんです」
その人は、一度息を吸ってから、正確に言った。
「終わりの切り抜きは、最初に戻る回数が多いので」
俺は、その言い方を受け取った。最初に戻るたびに、数字が跳ねる。崩落の二十秒と、同じだった。トオルさんは、最初に戻るたびに、また見ていた。
「あの、テロップのことですけど」
俺は言った。
「二人きり、じゃないです」
「はい」
「二人で独り、です。彼女が、そう言いました」
その人は、俺の顔を見た。それから、彼女のほうを見た。彼女はソファの背に腕を掛けたまま、窓の外を見ていた。
「……そうですか」
その人は、手帳を出して、書いた。書いたものを、一度、読み上げた。
「『二人で独り』、ですね」
「はい」
「切り抜きの側に、訂正を申し入れます」
◇◇◇
返事は、三日後に来た。
事務所の会議室で、その人は、手帳を開いたまま言った。
「本人の主観、という扱いになります」
「言ったのは彼女です」
「はい。それは伝えました」
「なら」
「切り抜きのほうが、見られているので」
その人は、言いにくそうだった。言いにくそうな顔で、正確に言った。
「見られた数が多いほうが、正本になります。千二百万と、二人なので」
「二人」
「お二人の記憶です。二と、千二百万で」
俺は、何も言えなかった。
訂正は、切り抜きの説明欄の、いちばん下に入った。画面を一番下まで送ると、灰色の小さい字が一行ある。
「※出演者本人は『二人で独り』と発言したと申し立てています」
脚注だった。
◇◇◇
彼女が、立ち食いの店に行きたいと言った。
「ボタン、見たい」
「ボタン」
「たまごの。新しくなったって言ってたでしょ」
言った憶えはなかった。言ったのかもしれなかった。
車を断って、フードを二つかぶって、夕方の商店街を歩いた。店という店の中で配信が流れていて、今日はどれも違う声だった。俺たちの声は、どこにもなかった。三日で、次の声が来る。
店は、列がなかった。
カウンターの隅に二人で立って、いちばん安いのを二つ頼んだ。汁は薄くて、胃の底に温度だけが残る。彼女は、それを一口飲んで、「薄い」と言った。
「薄いです」
「いいね」
どこがいいのか、訊かなかった。
隣に、男の人が立っていた。携帯を片手に、丼を片手に、画面を見ながら食べていた。画面の中で、崩れた石の上からの角度が、最初に戻った。
男の人は、独り言を言った。
「二人きりっていいよな」
彼女は、箸を止めた。
それから、小さい声で言った。フードの中からで、俺にだけ届く声だった。
「わたし、そう言ったっけ」
「……はい」
「そっか」
彼女は、また食べはじめた。
そっか、のあとに、何もなかった。言い直さなかった。訊き返さなかった。俺の「はい」を、そのまま受け取って、汁を飲んだ。
三日前、俺は聞いた。彼女の口から、二人で独り、と出るのを聞いた。彼女は言い直さなかった。俺も言い直さなかった。
いま、彼女は、そう言ったっけ、と言った。
彼女の記憶のほうが、先に負けた。
俺だけが、二人で独り、を持っている。持っているものは、誰にも言えない。言えば、主観になる。灰色の一行になって、いちばん下に回る。
俺は、たまごを追加しなかった。
彼女が、券売機の前に立った。
「六十円、出しなよ」
「……はい」
彼女が押した。
白いボタンが、へこんで、戻った。
「戻るんだ」
「戻りました」
彼女は、もう一回押した。戻った。それを見て、笑わなかった。たまごが二つ出てきて、彼女は一つを俺の丼に落とした。
◇◇◇
外れに、人が来るようになった。
公式地図に三十七本が載ってから、毎週増えた。苔を削る人。写真を撮る人。写真を撮るだけの人。
一本目の入口で、男の人が壁を叩いていた。
爪だった。人差し指の爪で、一回。叩いてから、耳を寄せて、首を傾げて、連れの人に何か言って、笑った。連れの人も一回、叩いた。爪だった。
二人とも、自分の手の音を聞いていた。
俺は、その後ろを通った。フードをかぶっていたので、二人は俺を見なかった。通り過ぎたあとの三歩を、俺は数えた。癖だ。三歩目で、二人はもう次の通路に入っていた。
苔が、減っていた。一本目の壁の、手の届く高さだけ、灰色が出ていた。削った人の腕の長さのぶんだけ、削ってあった。腕より上は、そのままだった。
突き当たりに、板が立っていた。
木の板で、杭を打って、白いペンキで字が書いてある。
「英雄の休息地」
誰が立てたのかは、わからなかった。窓口の人に訊いた。ギルドではないと言った。事務所の人に訊いた。事務所ではないと言った。
俺は、板の裏を指の背で二回叩いた。
一段だった。板の返りだった。誰かの骨の音は、混ざらなかった。
崩れた石は、そのままだった。石の上の、天井との隙間も、そのままだった。俺はそこを、もう一度叩いた。一時間かかった。
誰も、いなかった。
◇◇◇
夜の配信は、四十一人のままだった。
三階の、ソファの前の床に座って、球を天井に浮かべた。彼女は、ソファの上にいた。携帯を持っていた。画面は、こちらから見えなかった。
「はい、こんばんは」
〈切り抜き見た〉
〈終わったの?〉
〈二人きりだって〉
〈泣いた〉
「終わってないです」
〈じゃあなんで終わるって〉
〈切り抜きがそう言ってる〉
「……切り抜きが、そう言ってます」
言ってから、二人で独り、と言わなかったことに気づいた。言えば、主観になる。四十一人の前で、灰色の一行になる。
〈二人きりって言ったんでしょ、美波〉
俺は、答えなかった。答えないでいるあいだに、次の行が来て、その行は、下から押し上げられて、消えた。
一覧を開いた。四十一の名前が並んでいる。みかん箱さんがいて、石けんさんが四千一人ぶんいて、深夜二時さんがいた。深夜二時さんは、打っていなかった。名前だけが、あった。
ソファの上で、彼女が携帯の画面を、親指で一回、送った。
音は、出していなかった。
「今日はここまでです。おつかれさまでした」
四十一、二十、八、三。
一。
一で、止まった。
◇◇◇
郵便受けに、封筒が一通あった。
機械が刷ったやつだ。宛名は登録番号。裏に糊の線が一本。俺は封の縁に親指をかけて、かけたまま、座卓の脚の横の山に置いた。
十二通になった。
四畳半は、そのままだった。家賃三万二千円は、払ってある。鴨居の下の湯呑も、ある。
月に二日のうちの、一日だった。
彼女は、紐の下に座った。
「消して」
俺は、紐を引いた。
「消えました」
「ちゃんと消えた」
「はい」
二十六。
暗くなった。紐が揺れて、狭くなって、止まった。彼女の膝の角度。左が、指一本ぶん高い。
六分で、息が深くなった。
壁の向こうで、隣の部屋のテレビがついた。音は小さい。配信だ。誰のかはわからない。二分十秒ぶんの間隔で、同じ音が、最初に戻っていた。
俺たちの終わりは、二分十秒だった。




