第26話「今日、何かいいことあった?」
朝から、少しだけついていなかった。
一時間目。
小テストで見直した答えを、最後の最後で書き直した。
結果は間違い。
休み時間。
消しゴムを落として拾おうとしたら、机に頭をぶつけた。
昼休み。
楽しみにしていたメロンパンは売り切れ。
「今日はついてないな。」
思わず苦笑する。
大きな失敗じゃない。
でも、小さな「残念」が重なる日だった。
放課後。
図書室。
返却された本を棚へ戻していると、一冊を落としてしまう。
「あ。」
慌てて拾おうとした瞬間。
もう一つの手が、本をそっと持ち上げた。
「はい。」
陽菜だった。
「ありがとう。」
「今日はよく物を落とすね。」
「そうなんだ。」
湊は照れ笑いを浮かべる。
「なんか今日は、ちょっとだけ調子が悪い。」
作業が終わるころには、外は夕焼けに染まっていた。
二人はいつもの道を歩く。
でも今日は、会話が少ない。
陽菜は横顔をちらりと見る。
いつもより少しだけ元気がない。
駅へ向かう途中、小さな公園の前を通る。
ベンチでは、小さな女の子が泣いていた。
風船が木の枝に引っかかってしまったらしい。
母親が困った顔をしている。
湊は立ち止まる。
近くにいた背の高い高校生に声をかける。
「すみません。」
「あの風船、取れそうですか?」
高校生は笑って頷く。
「いいよ。」
枝を少し揺らすと、風船はふわりと落ちてきた。
「やった!」
女の子は満面の笑顔になる。
「ありがとう!」
高校生にも、湊にも、何度も頭を下げる。
「よかったね。」
湊も笑う。
二人はそのまま歩き出した。
しばらく沈黙が続く。
そして陽菜が、小さく口を開く。
「朝比奈くん。」
「ん?」
「今日、何かいいことあった?」
その言葉に、湊は足を止めた。
一瞬だけ驚いた顔をする。
それから、公園を振り返る。
さっきの女の子は、風船を大事そうに抱えて笑っていた。
湊もつられて笑う。
「……あった。」
「うん。」
「風船、取れてよかった。」
陽菜も笑う。
「うん。」
「私もそう思う。」
少し歩いてから、陽菜が続ける。
「朝比奈くんってさ。」
「自分のいいことは、後回しなんだね。」
「え?」
「今日の一番最初に思い浮かんだの、自分のことじゃなかった。」
「女の子が笑ったことだった。」
湊は少し考える。
「そうかも。」
「でも。」
「その方が、なんか嬉しい。」
照れたように笑う。
駅が見えてきた。
陽菜は小さく息を吸う。
「私ね。」
「朝比奈くんから、その質問を何回もしてもらったでしょ?」
「うん。」
「だから最近は。」
「嫌なことがあっても、一日に一つくらいは『いいこと』を探すようになったの。」
湊は静かに聞いている。
「そうすると、不思議と。」
「今日は悪い日だったな、じゃ終わらなくなる。」
「……ありがとう。」
その「ありがとう」は、今までとは少し違っていた。
別れ際。
「じゃあ、また明日。」
「うん。」
「また明日。」
陽菜は改札へ向かう。
振り返ると、湊がまだホームの方を見ていた。
その表情は、朝よりずっと柔らかかった。
帰り道。
湊は一人で歩く。
(今日、何かいいことあった?)
心の中で、もう一度つぶやく。
朝はついていなかった。
メロンパンも買えなかった。
小テストも失敗した。
でも。
風船を受け取った女の子の笑顔。
陽菜の言葉。
「ありがとう。」
思い返すと、自然と笑みがこぼれた。
(今日は。)
(ちゃんと、いい日だったな。)
夕焼けの空は、いつもより少しだけ優しく見えた。




