第10話「今日を少し、いい日に」
七月。
図書委員の仕事を終えた放課後。
返却された最後の一冊を棚へ戻すと、司書の先生が笑った。
「今日も助かったわ。」
「ありがとうございました。」
湊は軽く頭を下げる。
先生が職員室へ戻ると、図書室は急に静かになった。
窓から夕日が差し込み、本棚をオレンジ色に染めている。
陽菜は本を並べながら、ふと思ったことを口にする。
「朝比奈くん。」
「ん?」
「一つ聞いてもいい?」
「いいよ。」
少しだけ間が空く。
「どうして、そんなに人に優しくできるの?」
湊は少し困ったように笑った。
「優しい、かな。」
「うん。」
「みんなそう言うけど。」
湊は本棚にもたれながら考える。
「別に、すごいことをしてるつもりはないんだ。」
「じゃあ、どうして?」
少しだけ沈黙。
窓の外では、運動部の掛け声が聞こえている。
やがて湊は静かに話し始めた。
「小学生の頃ね。」
「転んで泣いてた時があったんだ。」
「その時、知らないおじいさんが声を掛けてくれて。」
『痛かったな。でも、ちゃんと立てたな。えらい。』
「それだけ言って行っちゃったんだ。」
陽菜は静かに聞いている。
「傷は痛かったけど。」
「なんか、その日はずっと嬉しかった。」
「今でも覚えてる。」
少し笑う。
「だからかな。」
「一日って、大きなことで変わるんじゃなくて。」
「ほんの少し嬉しいことがあるだけで。」
「今日は悪くなかったなって思える。」
陽菜はその言葉を反芻する。
湊は照れくさそうに頭をかく。
「だから。」
「もし誰かの今日が少しだけ良くなるなら。」
「その方がお互い気分がいいじゃん。」
「……それだけ。」
大げさな理由はない。
世界を変えたいわけでもない。
誰かに褒められたいわけでもない。
本当に、それだけだった。
帰り道。
校門を出る。
夕焼けの空を見上げながら歩く。
「朝比奈くん。」
「ん?」
「ありがとう。」
「今日は何もしてないよ?」
「ううん。」
陽菜は笑う。
「今日だけじゃなくて。」
「今までの話。」
湊は少し照れくさそうに笑った。
「どういたしまして。」
別れ道。
「じゃあ、また明日。」
「また明日。」
陽菜は家へ向かって歩き出す。
数歩進んだところで振り返る。
湊はもう前を向いて歩いていた。
その背中を見ながら、小さくつぶやく。
「……もっと知りたいな。」
その夜。
机に向かい、日記帳を開く。
今日の日付を書く。
少し考えてから、一行だけ書いた。
『今日も、少しいい日だった。』
そして、その横に小さく笑顔のマークを描く。
ページを閉じる。
窓の外では、夏の風がカーテンを揺らしていた。




