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肯定  作者: 九条 九重


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2/3

俗欲

半袖の少年はとある坂を上り、他人の家の塀を超えた先で町を見下ろしていた、その傍らにはスケッチブックが置き捨ててある。少年は呆然としており、生まれ育ったこの町も何だか感傷的に映り、道に沿って立つ電柱を数えて地平線の方をみるといつもより夕陽は輝いて見える。そして沈んでゆく夕陽に染まる田舎町の空に向かって煙を吐いて広がっていく。煙は空を低くして、宵の風が吹いてくる。来年には高校生になる少年にはまだタバコは早かった様であり、むせた咳をしてタバコを半分程残したまま火を消し、吸殻を空き缶に入れスケッチブックを抱えて塀を越えた。


初めてタバコというものを吸ってみたがあまり良い物ではないと考えながら帰ろうとすると、馴染みのある男の怒鳴り声が聞こえてきた。


「新太!」


声はこの家の主である爺さんだ、新太と言っているのはこの少年が諏訪新太(すわ あらた)と言う名前であるからして、名指しで怒っているのである。新太の方はその爺さんを名前すら知らないので、ばれると面倒な爺さんだという、それくらいの認識でいる。そしてばれてしまったので通常ここは一目散に逃げる所だが、危機感を覚えながらも悠々と歩いていた。すると勿論のこと爺さんに捕まり、爺さんは何かを怒鳴りだした。だが少年の方はまだ頭が回らないので、要領を得ない雑音が脳に響いただけだった。そして最後には平手打ちをして爺さんは帰って行った。脳が揺れて余計に頭が回らない、それどころか気持ち悪くなって吐き気を催してきた。何とか吐くまいとしながら手から離れた缶とスケッチブックを手繰り寄せ、それらを握り締めると立ち上がってよろよろと坂を降り始めた。


坂を降り切った頃には平然に戻っており、頬の痛みだけが残っている。薄暗い蝉の声が透る町から宵の空を見上げ、近くのごみ捨て場に缶をいれるとそのまま帰路に就いた。ここから駅までは十五分と掛からない。先程の平手打ちに何も言わずに帰るのは、何も新太が悪い事をして罪悪感があるからというだけでは無い、慣れているからといった方が正しい。彩り豊かなシミの付いた服に隠れているが、新太の体には幾つかの痣がある。いじめられて出来たとか、よく怪我をする様な落ち着きの無い子供であるとかではない。まず新太にはいじめを受けるほど他人と縁もないうえ、自分を落ち着きのある消極的な性格と見ている。幾つもの痣が都合よく服に隠れる様な怪我はしない。原因は新太の親父にある、いわゆる家庭内暴力というやつであり、それに対しても新太は何も言わない。ただ早く自立したいというのが心の内にある。こうなると母親はどうなっているのかと思うかもしれないが、母親の顔すら新太は知らない、昔に聞いた親父の話では突然帰って来なくなった、それだけでありそれ以上は何も聞かない、ただ共感するばかりである。何故ここまで新太は何も言わず受け入れて過ごしているのかは、それは親父が頭の病気だと踏んでの事だ。ある程度の精神的な自立をした健常の者ならそれはすぐにわかるのではないだろうか、それが家族であり今まで被害を受けてきたんだから尚更の事だ。何を言っても聞く耳を持たない、機嫌が悪くなるとすぐに暴力に訴える。何に対しても自己中心的で周りに疎い親父であるが、ただ一つ過剰に敏感な所がある、それが欲というものだ。親父の事を少し思い返して服の上から痣を見て、そして過去をなだめようとした時ハッとして一瞬にして血の気が引いていった。そこには新しい小さなシミが出来ていて、他と違い深淵の様に黒いシミを恐る恐る覗いて確認し、触ってみるとやはりただのシミではない、生地が黒く溶解している。タバコの火の粉にやられたのだろう、あのタバコは親父から盗んできた物で、バレたらただでは済まないはず。何しろあの親父だ、なにが起きてもおかしくない、この服はもう処分するのが得策だろうと苦悩していると、いつの間にか駅は目と鼻の先であった。急ぎスケッチブックで深淵を塞ぎ、シミを白く塗りつぶすと今度は染み付いた臭いがより鋭敏に鼻を突く。このまま電車に乗っては誰かにバレてしまう、そんな不安で足を竦ませていると、気付けば走り去る電車をただ目で追っていた。


結局は歩いて帰る事にし、新太が古く黒ずんだコンクリートブロックが四段積まれて、その上に黒い柵を立てた敷居に囲まれた新太の家に着くと辺りは暗く、三日月の下で街灯に虫が集っていた。玄関を開けると、丁度親父が出掛ける支度を済まして靴を履くところであった。出掛ける支度が出来ているといっても無精ひげに先程起きたのだろう事が想像に難くない髪型である。それにもかかわらず、着ているものが如何にも羽振りの良いものばかりなのでより滑稽に見える、他の者からどう見られようとも気にならないのだろう。新太は親父の靴を履き終わるのをじっとして待っている。例の深淵は腹の前で抱えたスケッチブックに隠し平然としているが、その抱えたスケッチブックには段々とシワが広がっていく。親父は靴を履き終わると、普段通りに玄関を出る様に、さり気なくその大人の体を新太の肩にぶつけて、


「あの絵は今日中に終わらせろ」


語気を強めて言った。新太も目を合わせず頷くと、それを気味悪そうに一瞥して夜に消えていった。


新太は玄関に入り戸を閉めるとそのまま立ち尽くした。


親父の行先なんて大方予想がついている。不浄なる月の宮、年中無休の勃然たる慟哭をわざとらしく愛想に隠す、獣のそれより振るっている。なんだかんだと親父を貶す、頭の中では新太の方が大分上等であり饒舌になる。そうして一通り親父を言い負かすと家に上がった。リビングに入り電気を付けると机の横に一枚のカードが落ちている。今夜は高い酒をありがとう、また来てくださいね、そう女の文字で書かれている。拾い上げるとクシャクシャにしてゴミ箱に入れた、他には惣菜や冷凍食品のゴミが入れてある。そしてキッチンに立った、流しには酒の空き缶が投げ入れてある。それも一応は分別しゴミ箱にそのまま入れて、コップ一杯の水道水を持って二階に上がった。二階に上がると一本の長い廊下があり最奥がトイレ、その他に左手にだけ扉が二つ、どちらも新太が使っている。手前の扉に入るとそこはアトリエの様になっており、半袖同様に様々な色のシミが壁を彩り、あの夕陽に照らされた田舎町が立て掛けて置いてある。その町の前にある薄いパーカーを掛けた椅子を後ろにどかし、前に立って凝視すると、そばにあった水彩の絵の具を溶いて多少の明かりを加え、他にも細かな修正も加えた。この絵は好きになれないが、向き合う時間は平穏で他を忘れさせた。


描き終えた頃、時計を見て時間を取り戻すと明日になっていた、窓の外はまだ暗いが月は沈んでいるようだった。薄いパーカーを羽織り、空のコップを手に取ると軽い足取りで下の階へ降りて行った。リビングに入ると机の上に置きっぱなしになった酒の缶が嫌に目についた。深夜の興も覚めないままの新太は絵を完成させた達成感もあり興奮気味であった、そのため好奇心のままに缶を手にしてしまった。少し揺らしてみると底には多少の酒が残っている、まずは鼻に近づけて匂いを探った。あまり良いものではない、その時タバコと比べてどうかと思い返して夕刻の失敗をありありと思い出した。それから缶に口を付けないように喉の奥に注ごうとしたが例の深淵が頭をよぎり、すんでのところで躊躇した挙句パーカーの下にある深淵に目をやり玄関先での屈辱までもが怒りとなって再燃した。親父が下等であるとまた断定すると、自分の持っていた好奇心までもが下等な気がして缶を机に戻し、結局キッチンで一杯の水道水だけ飲んでコップを流しに置いた。それから冷蔵庫の中から総菜のパンを一つ出して、封を捨て中身だけ持って玄関に向かいながら一口頬張り、器用に手を煩わせず靴を履き終えると戸を開け、また玄関先で一口食べて散歩に出かけた。夜は明けつつある、歩いていると足元で虫か何かが夜露の中に飛び込んで行った。何処へ行くともなく歩いていると自然に公園の方へと足が向いていた。着いた頃にはパンは跡形もなく、手はポケットにしまわれている。昔に遊んでいた遊具に思いを巡らせながら大きく欠伸して、帰ったら早く寝る事を決意しつつも公園の自販機の方に行きコーヒーを買った。買ってしまった後になって眠る気があるのか無いのか自分でもよくわからなくなり、パンを食べて口が乾燥しているので取りあえずは一口だけとまた決意した。公園の奥に進んで行くと広い池があり、外周の道を葉をつけた桜が囲っている。外周にあるベンチに腰掛け、池を挟んで登り始めた朝日が絵になるかどうか思案して眺めていた。


絵のことを考えているとつい熱中してしまい、取りあえず簡単な構図でも描いてみようとなり、ポケットに入れていたメモ帳を取り出して描こうとしたが肝心のペンを持っていなかったのでベンチの下を覗いた。するといい具合の枝を見つけて手に取り、辺りに人がいない事を確認すると足元の土に描き始めた。画用紙の四角を描き、外周とそれを囲う桜の木、池を挟んで反射する朝日。描き始めてみてやはり良いものだと思っていると、どさりと横に座る者が急に現れ、しまった、そう反射的に思って横を覗いた。見ると泥酔した若い女であった、化粧が濃い様に思えたが、胸元の開けた派手な着こなしの服ですぐに新太に目を背けさせたので今は小汚い白のスニーカーであることだけが判然としている。新太はあの服から夜職の者だろうと断定した。スニーカーの横に自分の描いた絵が今一度見え、それがなんだか凄く滑稽に見え、すぐに足で消そうとしたが女は「ちょっと待って」と酔った舌で新太を止めた。


「絵を描いているの?」


女は新太の膝の近くに顔をもってきて絵を見ながら、見たままだろうという事を聞いてきたので「そうです」と押され気味に答えた。それから女は「絵を描く人は変わった人が多い」というような事を語り出し、新太はまたそうですね、はあと言った様な何も考えていない様な返事を居心地の悪そうに繰り返した。新太はやはり酒など飲まなくて正解だったと勝手に納得していた。


「今度、結婚するんだよね」


突然に絵師の話から結婚の話に切り替わったのには驚いたが、新太の返事は変わりなく平坦なものであったが、女の方をまた違う心持ちで覗いていた。新太の母は新太を出産後すぐに消えたと親父から聞かされた、親父は母を語るたびに母への愚痴を付け加えて、「結婚などするものではない」や「お前には絵の才能があって良かった」などと言う。終いには決まり文句として「お前には期待している」と耳当たりの良い事を言うが、腹の底に鉛の球が落とされる様な気持がする。こんな親父では見放されるのは妥当であると新太は思っている、それ故に親父の愚痴は荒唐無稽なものと聞いていたが最近は違っている。母は子供をこさえてやっと将来について目を向け逃れる機会を得たのだろうが、その機会を与えた子供を置いて逃げるくらいなのだから、親父の愚痴もそう外れたものではないのかもしれない。ただそれでも母への期待はずっとあるから厄介なものだ、他人の母親を見ては自分の母であったらどうだろうかと思い、自分の理想と比べて審査でもする様に見てしまう。新太がいま女を覗くのはその審査の為である。


「子供は欲しいよね」


女がそう言うと、新太の目はしっかりと女の横顔を捉えた。そして新太が何も言わないうちに話を続けた。


「君ももし赤ちゃんが生まれたら嬉しいでしょう?」


新太はその言葉の返答に詰まった。自分に弟か妹でも生まれたらどうだろうか、最初は悪くないと思ったが、やはりあの親父だからどうだろうかと架空の事であるが真剣に考え始めた。女の方は早く返答が欲しいようで、また「嬉しいでしょう」と繰り返してきた。仕方がないのでまた「そうですね」と今度は目を見て答え、また架空の兄弟について、そしてこの女の子供について考えだした。すると突然に女が俯いて「気持ちが悪い」とか言い出した。随分と勝手な人だと思い、こんなにも酔っぱらって絡んでくる女は自分の理想には到底及ばないと結論付けた。新太はこの公園に自販機がある事を思い出し、


「水でも飲みますか?」


新太はもう自分が買いに行くつもりで聞いてみた。すると、


「くれるの?」


女がおもむろに手を出してきたのでつい反射的に自分の持っていたコーヒーを渡した。渡してまたしまったと思った。女は平然と貰ったコーヒーの蓋を開ける、何も言えずにその手付きから目を離せずにいた。その時に気付いたが女の爪は長く鋭い、そして可愛らしい模様が入っている、よくそんな器用にペットボトルの蓋を回せるものだと思いながら、爪どうしが当たってはカチカチと鳴らしながら蓋を開け終えた。いよいよ飲む為に口元に近付けていく、それが何だかゆっくりと感じて新太は一層見入ってしまい、赤い唇に飲み口が付いて酔った女が無遠慮に口へと注ぎ、喉元が脈動する様に新太の心音も大きく響く、かえってその様子があまり記憶に残らないほどであった。女は気が済むまで飲むと蓋をまたカチカチと締め。


「ありがとうね」


とご丁寧に新太に返し、受け取るとおぼつかない足取りで立ち上がって新太の頭に手を置いた。優しく包み込まれるような感じがしてなだめられた。


「君は優しい子だね」


そう言い終えると手をどけた。とっても惜しい気がしてもどかしく、絵の事なんてすっかり忘れて女の後ろ姿を見送った。少しして立ち上がると家の方へ歩き出した、コーヒーを見ると顔が赤くなる、そして「君は優しい子だね」という言葉を思い出してこのコーヒーをどうする事も出来ず、公園のゴミ箱で手放す事にした。またその時に惜しい気がしたのを止められないのが醜く思いながら公園を後にした。


公園を出てからも女の事を考えていた。きっと良い母親になるだろうと思いながら歩いていると曲がり角から犬が顔を出した、後に続いてリードを持った近所の爺さんが前に出てきた。爺さんは平べったい顔に皺を重ね、禿げた頭にライトを巻き付けている、まだ暗いうちから歩き回っていたのだろう。爺さんは気づかず過ぎようとしていたが犬の方が新太に気付いてこちらを向いた、それに導かれる様に爺さんもこちらを向く。新太を見ると顔を和ませて「おはようございます。」と声を掛けてきた。どうやら途中まで一緒に歩く事に決めたらしく、勝手に新太も犬に導かれることになった。爺さんはあの山まで行ってきたんだと指をさす、大体二、三キロは離れた山だ、今時こんな朝早くからじゃあ体力のあり余った中坊でもなかなかに珍しいだろう。尤も家で絵ばかり描いている新太には理解しがたい。その後は朝に運動する事の大切さを元気に語っている、一層溝を感じながら適当に話を合わせて過ごしていると、話題は新太の親父の事に移っていった。


「先生はお元気ですか、近々また絵を出すそうですね。それに初冬には賞に出ると言うのだからさすがだね。先生ならまた良い結果を残すでしょう。この町の誇りですよ。」


この爺さんの言葉に対しては胸の内で大いに反論した、だが実際には「そうですね」と他人事のような返事をした。この先生とか町の誇りと呼ばれているのが親父である、無論あの親父が絵を描く訳がない。前に新太の描いた物を勝手に自分の物として世に出したのだ、それを隠していたが今ではそんな事も辞めて堂々と指図する。気付けば親父の名はブランドと化していた。新太が親父の言う通りに絵を描くのは真実を明るみに出してもその後の生活に窮するだろうと考えている為である。実際、細かいお金の事などは全く考えの及ばないので親父に任せるほかないだろう。だがそれだと親父は自分の立場が下の様に思い、どうせ邪魔立てして来るに違いない。それに生活には親父の存在を除いて何も困る事は無くなった、それどころか親父も最近では気持ちに余裕があるのか、それとも新太の価値を認めたのか、前よりは当たりも幾分ましになった。新太にこの生活を壊す勇気もない。故に大人になったら自立してやるとは思いながら、絵を描いてはそれをおとなしく親父に譲っている。爺さんはそれからも先生の事を話し、事あるごとに新太にもその先生を見習うべきだと言っている。


「それじゃあまたね、先生によろしくね。」


終いにはそう言って別れて行く。それからすぐに家に着いた。瞼は重く、頭痛がする。玄関を開けると親父の靴が脱ぎ捨てられていた。新太の体には緊張感が走り、瞼は釣り上げられ、重苦しく痛みのあった頭は平常よりも早く動き出した。静かに家に上がり、リビングに恐る恐る入ってみると親父の姿は見当たらなかった。そのまま一階を見回したがやはりその姿は無い、恐らくは自室で眠ってしまったのだろう。静かにキッチンから水を持って二階へ上がり、今度は一つ奥の扉を開け勉強机とベッドの置かれた新太の部屋に入ると、すぐにベッドに横になった。頼れる者のいないこの家に寂しさを感じながらまたあの女の言葉を思い出し、すぐに眠ってしまった。


昼頃に目を覚ますと水を飲み干してカーテンを開け、レース越しに陽光を部屋に入れると机の前に腰かけた。机の上にはワークが置かれ、横の床には夏休みの課題が積まれている。全くやる気も無い様子でただ前に座っているとそのままにして立ち上がり、空のコップを持って下の階に降り、冷蔵庫の中を覗いた。生憎だが何も入っていない、次に炊飯器を開けると茶碗一杯にも満たない程の米が固くなりつつある。新太はため息をつきながら残った米を茶碗に移すとラップを掛けて冷蔵庫にしまった。それから炊飯器の内釜をタオルを持って外すと流しに入れて釜を水でいっぱいにした。スポンジを取るとついでにコップも一緒に洗い、コップは干して釜だけタオルで水をふき取ると米を入れて研ぎ、早炊きを選択して洗面所の方へ行った。軽く顔を流すとまた部屋に戻りすぐに着替えて、それから買い物に向かった。


新太が家に帰ると十四時近く、リビングには親父が座ってテレビを見ながら煙草をふかしていた。新太は一瞬固まって、すぐにいつも通りに動き出した。買ってきた物を冷蔵庫に入れているとリビングから「絵はもう描き終えたか?」と親父がテレビを見たまま話しかけてくる。新太は簡単に「終わったよ」と冷蔵庫を強めに閉めながら答える。すると素直に「そうか」と言う親父に、足早に新太は二階へ上がり、絵を持って親父の前に持って行った。この絵をこうして見せるのは二回目になる、一回目は光の具合がどうとか初心者でもないのに色々と言われたので仕方なく描き直した。これ以上の事は御免なので機嫌の悪くならないうちに、早くに親父の前に出した。


「いいんじゃないか」


親父はその絵を手に取るなり感想を一言述べた。それ以上の事は何も言わない、新太にとってはまたとない朗報である。どうせ何か愚痴でも言って受け取るか、また描き直させるつもりかと疑っていたが全くそんな様子はない。不吉な予感がする、そんなに機嫌の良いようにも見受けられないのだ。霧がかかった様に見える、次にどんな突拍子の無い事を言いだすのか、それとも何も考えなどなく新太の思い違いなのだろうか。親父は「腹が減ったから何か出してくれ」そう言うと絵を持って一度自室に帰って行った。先程買って来たお惣菜はそのままに、炊き上がった米を茶碗に二杯移して机に置いた。新太が席に着いてすぐに親父は戻って来て、元の場所に座った。新太の右手側の奥の席で親父は黙々と食べ始め、いただきますと言って新太も食べ始めた。それ以降は何か話すことも無く、テレビの音が静寂を妨げているがどうという事もない。新太の方が先に食事を終えて流しで茶碗を洗うとすると親父も来て茶碗を入れた。平常ならそのまま何とも言わず立ち去るが、今日に限ってはやはりいつもとは違うようで、流しで新太が茶碗を洗うのを近くで見ていた。気持がそわそわして落ち着けずにいると「家事をやるのは大変だろう」と親父にしては突飛な事を言い出した。少し動揺してまあ、と取り留めの無い返事をすると次は「結婚する事になったから」と言い出して新太は呆気に取られて何も言えなくなった。それから今度その女の人が来るから家を綺麗にしておけというような事を勝手に言って自室に帰って行った。親父の背が見えなくなるまで静寂を感じた、それから平常通りに皿洗いを続ける、地に足のつかぬ心持ちであった。親父が結婚するなどとろくな事になりはしないだろう、もしかすると親父の様な者がただ一人増えるだけかもしれない。皿洗いを終え、二階の新太の部屋に着くまで、まだ結婚を悪い方へばかり考えていた。机の前に座り込み課題を進めようとするも殆ど集中なんて出来なかった。あの朝早くに絡んできた女の事が頭に浮かんで、母親が出来る事が少し嬉しくも感じられたからだ。そんな淡い期待など無意味な事は分かっている、こういう物は事前に潰しておかなければ親父との生活などやっていけない。そう考えると結婚相手は不遇でならない、自分の母親が顔も知らない様に、その女もすぐに逃げて行くかもしれない。こうして鬱々と考えて時間が過ぎてゆく、これではいつになっても課題も進まない。苦悩の末に会ってみない限りはどうしようもないと割り切って隣の部屋へ移動し、絵の下書きを始めた。二時間程経って新太は部屋に戻ってきた。現実逃避の効能は偉大なようで、課題にもゆっくりと手を付けだした。親父が玄関を開け、また出掛けて行く音が下の階から微かに聞こえた。


それから二日が経った、その日はリビングから大きな物音が家に響いていた。突き飛ばされて倒れる新太の手には絵の下書きがあった。折れて皺だらけの紙を伸ばすことも無く、そのまま丸めて立ち竦んだ。その間にも親父はくどくど愚痴を漏らしている。新太が丸めた下書きはあの朝早くに公園の先で見た池を挟んで登り始めた朝日であった、次に描く予定の物を見せろと突然に言うので仕方なしにこの前課題の前に描いた物を持って行った。そしたらば親父曰く「そんなものを今更描いて何になる?」とのことだ。何になるものなにも、自分が描きたいと思ったものを描いてなにがいけないのか、親父は客の事をそんなにも気にしているのだろうか。今更と言うが今時は何を描いても今更だろう。そうして二十分もしていれば親父の言いたい事は大体終えたらしいと見える。すると「これはお前の為だ」とか「お前には才能がある」などいつも通りの口上を述べる。愚痴に至ってはいつも感服させられる程に多種多様なのに対し、代わり映えしないのは然程重要とも思ってないに違いない。それなのに毎回言ってくるのは何か親父にとっては意味のある事に思っているのだろう。正直言って辞めて貰いたいものだ、今更偽善者にも成れないのにそんな事を言われても気持ち悪い。新太はいつも通りの口上を聞き終えて、すぐに二階へ上がりアトリエで絵を広げた。何がそんなに悪かったのか、そう考えていると自分でも無意味に思えるのだが、あの朝早く会った女の事を思い出し、母親なら何と言ってくれるだろうかという考えが浮かんだ。そんな事に期待を見出した途端、胸を突き刺される様に辛くなり考えてはいけない事のように感じた。絵を裏返して部屋を移動し、課題の前に座り込んで呆けたまま時間は過ぎていった。


それからまた数日経った。丁度「結婚する」と聞いてから一週間である。朝早くに「掃除しておけと言っただろ」と蹴り飛ばされた新太は朝から掃除に励んだ。昼頃になって一段落した、特に一階の物置になっていた部屋を片付けろと言うのには苦労した。それから洗面所で服をまくって新しい痣を確認しているとインターホンが鳴り、親父が珍しく部屋から出て来てわざわざ対応に行った。朝の事から察するに結婚すると言っていた女であろう。服を戻して痣を隠した、これは朝早くに親父が「こういう事はやめにするから、ちゃんと言う事を聞け」との事からだ。人を蹴り飛ばしておいてよく言えたものだ、結婚相手の為ならそこまで出来るのかという事にも多少引っかかる、だがそれでなくなるなら是非もない。玄関先からの声に耳が澄まされていく、早くにその結婚相手を見に行きたい自分とそれを止める自分との間でどうする事も出来ず、結局リビングで緊張しながらも平然のようにしてその時を待つ。そのうち親父がずかずかと入ってきて、女が大変謙遜した様子で後に続いて来た。あの日に会った女の姿がそこにあった、あの時とは違い服装も化粧も質素なものであるがそれがより綺麗な人だと思わせた、だが鋭利な爪は健在であり少々不釣り合いな気がする。新太は女を見るなりまた期待が生まれた、今度は安心出来る期待であった。それから親父が家を案内し、最後に新太が紹介された。女は膝立ちになり新太よりも目線を下げて。


「新太君、優香って言います。これからお母さんとしてよろしくね」


と笑って見せた。あの日の事は覚えていない様に思われた、あれだけ泥酔していては無理もなかろう。新太は緊張で動揺の滲んだ声で。


「優香さん、こちらこそよろしくお願いいたします。」


と目線を逸らしながら答えた。頬と耳の先に熱を感じる、自分でも感じるのだから傍から見たら赤くなっていたに違いない。それをまた恥ずかしく思っていると。


「新太君が絵を描いているんでしょう。」


優香の言葉に何かが壊れかける思いがしていると。


「こいつはまだ子供だからな」


と親父が言う。葛藤があったのは確かであったが


「そうなんです」


と親父を肯定するように言った。新太が絵を描いていると知っているなら優香という者も相当に変わり者だがそれをあまり問題にはしなかった。親父の事もあって新太の認識が麻痺しているというのもある、だがそれ以上に優香にはこの家にとどまって欲しいと思ったからだ。


それからはリビングで雑談が始まり場うての様に親父と優香の話を聞いていると、偶に優香は何が好きなのかや普段何をして過ごしているのかを新太に聞くが、簡単に答えるだけで間が持たないのでまた親父と話を始めてその会話を静かに聞いているばかりである。するとまたインターホンが鳴り、今度は親父が出る様子もなく、優香は何が来たのだろうと首を回して見つめるばかり。新太がいつも通りに出て玄関に向かう。出てみると出前をとっていたらしく、桶を受け取り料金を支払わなければならないと考えていると、親父が後ろにいて財布から金を出した。どうせ来るならば自分で受け取ればいいと思いながら見ていると、新太から桶を取って自分でリビングに運んで行った。呆然としていると優香から呼ぶ声がしてリビングに行くと、桶を開け寿司が並んでいる。


「良かったね。新太君お寿司は好き?」


と優香から聞いてくるので、はいとだけ答えた。


寿司を食いながらも優香は話を止めなかった。こうも沈黙の続かない食事はこの家では珍しい、そして話しかけてくれるのだが自分の事をどう思うかや母親にして欲しい事はあるかなど、これには狼狽して答えに窮した。食い終わると新太が桶を玄関に運ぼうとするのを半ば強引に優香が引き取り「どこに置くの?」と聞くのでもぞもぞと「玄関に」とだけ言った。優香が玄関へ向かうとその後を親父が追う。どうやら今日はこれで帰るようで、優香は靴を履き終わると腰をかがめて。


「明日また来るから」


と言い、親父にも何か一言いって帰った。玄関が閉まると、


「明日は引っ越し業者が来るから」


と言い、それから新太に物置になっていた部屋を何もない状態にしておくように言って冷蔵庫から何か出して食い始めた。いつもなら何もしないのかと憎悪を向けるところだが、今や優香の為に何かしてやりたいという思いが強く、新太は一層掃除に励んだ。箪笥に置き去りにされていたもう着ない洋服、押入れの埃にまみれながら引っ張り出した敷布団等々、使わない物や壊れて置きっぱなしになっていた物を部屋の外まで運び出して袋に詰めた。このゴミをどうしたものかと考えていると、親父からは「ごみ捨て場に置いて来い」との事、明日は燃えないゴミの日だから困っているのだが、親父にゴミの分別なんて意識は無い、何でもごみはごみ捨て場に置いて置けばいつか回収されるものとでも思っているのだろう。明日捨てられる物は玄関に置き、捨てられない物は手間だが新太の部屋まで運んでいくしかない、その辺にでも置いておくとまた掃除をしていないと言われかねない。捨てられそうな曜日にでも持って行く事にした。ゴミを新太の部屋まで運び終えると窓の外は月夜である。ぐったりしてベッドに寝ころんだ、すると力や疲れなどといったものが染み出してベッドに沈み込む様な感じがした。この時間に親父がまだ家に残っているとは、優香という者は偉大であるなどと変わった事を考えた。それから優香がこの家に来てどのような生活になるだろうかと考えると活力が涌いてくるようであり、頬に微かな熱を感じた。立ち上がると一階の風呂場に行った。その夜は風呂を上がって夜食を済ませると、課題を進めて眠りについた。


次の日の昼頃に外からの大きな車の音がして、心待ちにしていたように早々と玄関を開けると引っ越しの業者がトラックから出て荷台を開けていた。優香はトラックの後ろから顔を出し、新太を見ると親父を呼ぶように言った。仕方がないので親父を呼ぶと、荷物を見て顔を引きつらせていた。それでも業者に部屋を案内して、優香は何を何処へ置くのかゆっくりとあそこが良いかこっちが良いかと、誰とも言わず独り言でも無い事を言いながら決めていく。気づくと親父は玄関の方で腰を据えて優香が決めるのを待っており、優香には業者が恐縮の気味でアドバイスを送っている。こんなにも時間をかけるものでもなかろう、親父の機嫌も悪くなるといけない、新太は自分が行って決めてやろうと思って部屋の入口に立った。ベッドは左の隅に置くのが良かろうと言うと、優香はラックが置けないと言う、ならば右端はどうかと言うと今度は窓と重なるのが不便だと言う。何処を言ってもこんな調子で決まらない、じれったいのが耐え難く家具の場所などいつでも変えてやると考えなしに言ってしまった。それを聞くと優香の口元が微笑んだ、実際、机やラックなど新太でも動かせる物の方がほとんどではあった。それから新太の言う通りに置く事にしたらしく、適当な話を始めて後の事を新太に任せている。家具を運び終えると次に段ボール箱が幾つか運ばれて。


「私の住んでたアパート取り壊しになるんだ。だから急にこの家に引越す事になって、迷惑でしょう」


と、適当な話の流れからそんな事を言ってきた。元居た場所を失い、こんな家に来ることになるとは不憫でならん。


「そんな事はない」


「ほんとに?」


優香が聞き返す、言ってみて恥ずかしく思ったが後にも引けないのでそうですと答えた。微かに微笑む声が聞こえたが、その方を見られなかったので実際どうかはわからない。それから二人の間は静かになり、最後の段ボールを部屋に運び終えた業者が挨拶をして部屋を出ていく、玄関では親父にも挨拶をして玄関を閉めて行った。じきにトラックのエンジン音がして徐々に聞こえなくなる。親父はリビングに座り込み、優香は部屋で荷解きを始めた。新太は手持ち無沙汰の気味で二階に戻ろうとすると優香の部屋から「ハサミを貸してもらえないか」と声がした。一番近くにいる親父が動いたが、どうやら見つからないようであった。親父は片付けというものを知らない、使った物はそのまま置きっぱなしにしている、仕方がないのでいつも新太が片付ける、親父に見つからないのは当然である。早々に諦めた親父に呼ばれたので新太が取って持って行った。これからも入用の物があれば言ってくれと言うと、優香は愛想よく礼を言う。そのうちに使う物を取りに出るだけでなく、一緒に荷解きをするようになった。段ボールを開けていくと布の入った物があり、取り出してみると洋服であった。洋服のほうは自分で片付けると優香が言うが、取った服を置くのに少し躊躇しているとあの時の胸元を開いた服に見えた。他の段ボールを出され、そっちを片付けるように言われた。服の方は優香が自分の元に手繰り寄せ、先程の行動が恥ずかしいものであったと思い少々顔を赤くすると優香の口元に笑みが浮かんでいる。それを見てなおのこと恥ずかしく思いながら手早く片付けを進めた。片付けを終える頃には二人は懇意になっていた。一段落して夕飯の話になり、普段は惣菜ばかりであると話すと、優香から今日は自分が振舞うと言い出した。作らせるのも悪いと思ったが存外に芯が強い、どうやら決めた事は譲らない質のようだ。それならそれで良い、作ってくれると言うのは嬉しい事だ。嬉しい事は嬉しいが肝心の材料がないだろう、惣菜ばかり食べていたのだから仕方がない。後で買い物に出掛けると、優香もついてきてスーパーへの道を教えながら二人で歩いた。帰ってくると丁度夕飯時であった。夕飯を作り始めてからも新太は優香の傍におり、入用の物があれば場所を教え、手伝いをした。夕飯が出来るまでの間に親父が自室に戻って行くのを見た、さぞかし面白くなかろうと思われる背中を見送った。出来上がった時、優香が親父を呼びに行った、存外早くにまたリビングに腰かけた。出された料理は当然ながらごく普通のものだ、だがこんなにも美味しく思うのは不思議である。三人で囲んで飯を食べる、親父がいつも通りの無口になっていたが特段の疑問とは思わなかった。優香と話しながら食べる飯が美味く、あまり気にせずにいた。親父は一足早く飯を済ませて風呂に入った。その後に優香が入ることになり、新太が二階の部屋で課題を進めていた。それからどのくらい経ったか、隣の部屋が開く音がした。親父が絵の事でも言いに来たのかとも思ったが、そこで親父の面白くなさそうな背を思い出して怖くなった。それでも行かない事には状況は悪くなる一方だ。意を決し部屋を出ると隣の部屋のドアが開けっ放しになっている、覗いてみると優香があの皺だらけの下書きの絵を見ている。あの朝日を描いた絵をまじまじと見つめているところに話しかけると驚いた様な素振りをし、可笑しくて少し笑うが優香の方は真面目な顔をした。


「この絵には何だか見覚えがある」


と言う。ことさらに可笑しくなる。そうしていると何故こうも皺だらけなのか聞いてくる。親父曰く「そんなものを今更描いて何になる?」と言われた時の事を話した。すると優香はそんな事は無い、上手な絵だと褒めて頭に手を置いた。じんわりと温かな心持ちになり、その後風呂に浸かった。風呂から出るとリビングには誰もいない、優香の部屋の前を通ったら扉が少し開いたままになっていたので声をかけたが、部屋にも誰もいないようだった。新太は扉を閉め、そのまま二階に上がって行った。


次の日も優香が晩飯を作り、三人で囲って食べた。親父はまた早くに食べ終えて行ってしまった。その次の日もそうであった。特別な事もないが新太は優香が来てから穏やかな心持ちであった。それから二週間としない頃、その日は親父が夕飯の席にいなかった、理由は想像に難くない。その事にはあえて触れずにいた、優香の方も分かっている様で落ち込んでいるのを隠しているのが分かった。結局のところ親父の事は放っておいて二人で夕食を楽しんだ。こんな日がもっとあれば良いのにと思った。次の日には親父と昼頃に話した、あの朝日の絵を描いて良いとの事だ。だが今更よいと言われても困る、もうダメなものと思って他の場所を検討している。そう親父に伝えた。


「折角の優香と見た風景を描かなくて良いのか」


思わぬ返事だった、優香はもう覚えていないだろうと思っていたし、それを親父に言うとは、描かざるを得ないと悟った。その夜も親父は夕食の席におらず、新太は優香には優香が来る以前のようになるであろう事を話した。どう受け止めたのか定かではない、ただ久しぶりに静かな食事であった。その夜は風呂から上がると、仕方がないのでまた朝日の絵を下書きから描き直していた。日付が変わりそうな時間になると扉をノックする音がし、開けると優香が立っており夜食を持って来たと言う。部屋に入れると描きかけた絵を見て「新太君は頑張って偉いね」と言い手を差し出してくる、頭に添えられるものと思って半歩寄る、すると首元を抜けて背に手を回されて抱き寄せられた。赤面する新太がその手から抜けようとするのを背をさすってなだめている。そのうち諦めて待っていると静かに離れ、「程々にしなよ」と言って扉を閉めていった。夜食はなぜか味がしなかった。胃に入れるだけで満たされる心持ちがして、本当に母親の温かみを感じたようで嬉しく思った。その後はすぐに眠りにつこうとしたが、親父の言葉が浮かんできて、寝る前にもう少しだけ描く事にした。


それから一週間程経ち、その日は昼頃に起きて一階に降りると優香が昼食の準備をしており、親父はリビングに座って待っている。洗面所に向かっていると途中で優香に止められて。


「昨夜も描いていたの、偉いね」


と抱き寄せられる。新太ももう離れようとはしない、だが変わらず顔を赤くしている。それが済むと洗面台で顔を洗う。リビングでは優香が昼食を机に並べている。親父が早々に食べ終えて自室に戻ると二人の雑談が始まり、和やかな食事をする。それが済むと優香は買い物に出掛けて行った。新太はテレビを眺めながら茫然と絵に戻らなくてはと思っていた。正直に言って絵の進みは良好とは言い難い。親父の言葉が尾を引いて色々と考えてしまう。すると親父が出て来て絵の進捗を聞いてきた。噓は有効ではない、部屋に入られたらすぐにばれる。新太は正直に答えた。すると親父に怒鳴られた。当然のことだが久々に受けると凄い迫力がある、また感情的過ぎて要領を得ない。簡単に説明するなら、次の作品は賞に出すものらしく期限があるから急げとのことだ。流して聞いているとそうはいかないような事をまた突然に言う。


「完成させたら優香とヤラせてやる」


正気を疑うような発言だが何も言えずに固まっていた。しかもどうやら随分と間抜けな顔でもしていたらしい。


「ほらな」


親父は笑った、こんな笑顔は久々に見た。新太の絵が高く売れるようになった時にも、こんな欲に塗れた顔をしていた。それにしてもこんなにスムーズに話が進むものだろうか、今までの苦労が馬鹿馬鹿しく思える。親父の方は機嫌が良さそうだ、言いたい事は一通り言い終えたらしく、今度はテレビを見始めた。新太はまだ間抜けな顔して固まっている。だがいつまでもそうしている訳にもいかない、二階に戻って絵の続きを描き始めた。気付けば夕飯時になっていたようで、優香から扉越しに呼ぶ声がした。すぐにでも出ようと思ったがやはり親父の言葉が気がかりでならない。怒って感情的に変な事言っていただけの可能性が高い、実際にはそんな事にはならないだろう。そう思ってもやはり意識してしまう、今までの想いは母親としてのものではなかったのか、そう問われた時そうだと答えられないだろう。それが親父の前で露呈した事実、自分を醜く思う。


夕食に親父がいないのも当たり前のことになっていた。飯を済ませて風呂に浸かり、今日は話がぎこちなくなっていたと思うのを反省しなければなるまい。風呂を出て着替えを済ませてリビングを通ると優香から「何かあった?」と聞かれたが、疲れているだけだと言って二階へ上がった。絵が進むにつれて自分がどんどんと穢れていくように漠然と感じるようになった。だが期限もある、遅らせる訳にはいかない。


次の日は一階に降りたのが夕飯の呼び出しがあってからだった。昼も呼んだが寝ていたのか?元気がないのかと優香からは聞かれたが、また疲れているだけだと生返事をした。そうして飯だけ済ますとまた絵を描き始めた。


そんな調子で絵を描き進めた、その甲斐あって絵は順調に進んでいく。優香は毎日のように夜食を持って来てくれるようになった。その度に「程々にしなさい」と言って抱き寄せようとするが、最近では断っている。他にも「何かあるならば話して欲しい」とも言われていたが、新太には今の生活を壊しかねないような事を面と向かって話す勇気などなかった。ついには夏休みも明けて学校が始まる、虫は秋の声を伝えている。


会話の機会が減っていく一方で、絵は完成しつつある。終わりが近ずくごとに鬱々としていたが、優香の言動からは親父が言っていたようなことは知らないものと思われる。やはり一時の感情に任せて言った世迷言か、それともただ言い負かす為の方便か。なんにせよだ、これさえ無くなればまた元に戻れるような気がして今では早く終わることの方を願っていた。


ある休日の秋の月夜、ついに絵は完成した。目元には歴然と隈ができている。その目で絵を隅々まで見回して完成を確認する。終えた時、丁度扉がノックされて驚いた拍子に筆が手から滑り落ち、咄嗟に床に着く前に取ると冷たい感触がし、次第に手の中に広がる。どうやら筆先を掴んでしまったようだ、黄色く手が濡れていた。そうこうしているうちに夜食を持ってきた優香が痺れを切らして扉を開けた、そして新太の手を見ると慌てたように持っていた物を机に置き、筆を拭く事に使っていた小汚いタオルを取って新太の手を拭った。拭きながら「大丈夫?」と聞く、ただ筆を落としただけだから大丈夫だと言い、それよりも優香さんの寝間着に付いてしまわないかが心配だと説明しても丁寧に拭いている。それでもやはりシミが残って綺麗にはならない、水で流すしかないかと思い扉から出ようとすると優香に止められた。


「この絵、完成したの?」


まじまじ感心したように見ている。


「やっと完成したよ」


何だか清々しく答えた。優香は真剣な表情で絵をもう一度見回していた。新太は優香をおいて部屋から出ようと優香もついて部屋から出る。それから優香は新太の手を取って新太が呆気に取られているうちに隣の新太の部屋に入った。そのまま抱き寄せられた時、新太は取り返しのつかない事をしてしまったと思った。優香は新太を離すと新太のベッドに行き腰を下ろし、自分の横をさすって暗に隣に座るように誘導する。新太は部屋の真ん中から動かず、戸惑いの影が差している。優香はベッドに寝て寝間着のボタン外していく、そして「大丈夫だから」と言って手を優しく迎え入れるように広げている。声からして優しく受け入れるようであり、優しく迎える手の奥に見える包み込むのを待つ胸元は美しくも毒をもつ。新太には聖母のようにさえ見えた、まるでここが自分の部屋ではないかのようにも思われる。母親に甘える事のなかった人生において、これ程まで自分を受け入れようとしてくれている事が素直に嬉しかった。だがそれに甘えてしまえば母親ではなくなってしまう。何も出来ぬまま、時は刻一刻と自分を置いて過ぎていくように感じる、それでもまだ秒針は一周もしない、千秋の苦悩の真っ只中にあった。


秋の長夜に近所の爺さんは山まで散歩に来ていた、時間はいつも通りなのでもまだ空には月が煌々としている。連れていた犬は山に登りたがっている、いつもなら登らずに着いたらすぐに帰るのだが、今日は奮って月に向けて登り始めた。頂上までは一キロ半、犬に導かれ存外早くに登り切った。朝日は無い、暗い明け方の空に高くに浮く月を見る。そんなに空に居ってはさぞかし苦労するだろう、ともすれば夜の滴りとなるかもしれない。突飛に想像を飛ばして無意味な心配でも考えながら帰路に就くと、存外に杞憂でもなかったらしい。朝日が徐々に昇り始め、漏れ出た光が優しく包む道すがら、ある池の畔でベンチに腰掛け、顔を覆っているシミのある手との隙間から、月が滴るのを見た。

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