港へ行こう
『船?』
課長からの返信は、それだけだった。
会社は当面、在宅と特別休暇の組み合わせになっている。顧客の半分も同じ状態で、導入サポートの電話はほとんど鳴らない。だから俺は今朝、正直に送った。しばらく横浜にいます。たぶん船に乗ります。連絡はつきます。
『船です』
『気をつけて。あと勤怠は特別休暇で入れておいて』
この人のこういうところが、俺は結構好きだ。
八日目の朝の電車は、半分くらい混んでいる。止まっていた路線のうち二本が、昨日から動いている。窓の外の街は、壊れた所と何もなかった所が、駅一つずつで入れ替わっていく。隣のユイは、登山用みたいなリュックを膝に抱えている。
「何が入ってんの、それ」
「酔い止め。日焼け止め。替えの靴下。おにぎり四つ」
「四つ」
「船の上で何が出るか分かんないでしょ」
「海の上で食料の心配する結界術師、初めて見た」
「海の上で食料の心配しない剣士は、だいたい二日目に後悔する」
返す言葉がなかった。
リーベルと公園の担当は、昨日のうちに渡してある。見張りは宮坂さんの隊、門の内側はグラハム団長の騎士団。俺が抜けても回るようにユイが表を作ってくれて、俺はその端に自分の携帯の番号を書いただけだ。
座席で、もう一つの用事を片づける。出かける前に、イヴを呼んでいた。
「同期の時の実行記録。保存しろって言ったやつ、どうなってる」
『通信記録は保存しています。実行記録は、提示できる範囲を整理しています』
「いつまでに」
『期日はお約束できません』
前は「準備がない」で、今度は「約束できない」。言い方を変えて、同じ場所に立っている。その会話を、そのままトーマに送った。
『これ、イヴ発言ログに足しといて。期日を約束しないってとこまで。俺が海にいる間、続きを頼む。週に一回、同じことを聞いてくれ』
【TOMA:任された】
【TOMA:同じ質問を、同じ文面で送る。返事の言い回しが変わったら、そこが当たり】
『お前、そういうの本当に好きだな』
【TOMA:大好き。あとレイくん、船の動画撮れたら送って。三脚使って】
『船の上に三脚立てるやつはいない』
【TOMA:いてほしい……】
忘れたわけじゃない。初日に何があったのか、俺は今でも知りたい。ただ、イヴの口を開かせるのは、俺よりトーマのほうがうまい。俺は海を測り、あいつはイヴを測る。そういう分担だ。
港の外れに、古い桟橋があった。港湾局が貸したらしい岸壁の端に、帆船が一隻、舫ってある。
動画で見たより、大きかった。コンテナ船と並ぶと小さいのに、真下からマストの先を見上げると、首が痛くなる。木の舷側には波の跡が何本も白く残っていて、船首では翼を広げた鳥の像が、海のほうを向いている。
「本物だ」
「本物だね」
俺たちが同時に言ったところで、上から声が降ってきた。
「あーっ! 王門の剣士!」
舷側の手すりから、子どもが身を乗り出している。十二歳くらいで、日に焼けた頬に塩が白く乾いている。
「ピコ、落ちるぞ」
腹に響く声がして、甲板の奥から男が一人、手すりまで歩いてくる。四十代。黒いひげに、日焼けで革みたいな色になった肌。肩幅は、ドアより広そうだった。
「ダリオだ。この船の船長をやってる。そっちが剣士の兄ちゃんと、壁の姉ちゃんか」
「壁」
ユイが小さく繰り返す。
「レイです。こっちはユイ。結界術師です」
「けっかい。壁だろ」
「……壁です」
ユイが折れる。こういう相手には先に折れたほうが話が早いと、知っている顔だった。
ピコは、俺と星喰いを交互に見ている。
「港の人の板で見ました。光の線で、こう、鎧がばーって」
「ばーってなった」
「すげえ……」
船長室は思ったより狭く、机の上に色の褪せた海図が広げてある。ダリオは椅子を引かず、机に両手をついた。
「先に言っとく。俺は商売人だ」
「はい」
「この港へは、来たくて来たわけじゃねえ。外縁の航路を通ってたら潮が変わって、気づいたら、あの鉄の塔の並ぶ港にいた」
鉄の塔。クレーンのことだ。
「帰り道を測りたい。それと、この港に通う道として使えるかどうか。使えるなら、ここは化け物みたいにでかい市場だ」
「俺は、ノクスの外縁を見たい」
ダリオの眉が、片方だけ上がる。
「見たい?」
「見たいです。地図で、ずっと真っ黒だった場所なので」
「頼まれたわけでもなく」
「頼まれたわけでもなく」
ダリオはしばらく俺を眺めてから、腹の底で笑った。
「いいな。理由が金でも義理でもねえやつは、乗せると面白い」
条件は早かった。俺とユイは船の護衛をして、代わりに乗せてもらう。拾った物は船と俺たちで取り分を決めて、それは一回の航行ごとに、その都度話す。ダリオが「護衛に金は払わねえぞ」と念を押し、俺が「乗船賃も払いませんよ」と返して、それで握手になった。
「じゃあ、今日のうちに外縁まで」
「出ねえよ」
即答だった。
「今日は水と荷を積む。明日は船底を見る。海に出るのは、その次だ」
「……明後日」
「明後日」
窓の外を見ると、海はすぐそこにある。手を伸ばせば届きそうなのに。
「レイ。顔」
「してない」
「新ボスを、お預けされた時の顔」
「そんな種類まであるのかよ」
ダリオが鼻を鳴らした。
「船は逃げねえよ、兄ちゃん。逃げるのは、慌てて出た船の積み荷だ」
扉が開いて、女の人が入ってきた。三十代で、髪を後ろで一つに縛っている。手には、ガラス瓶に木の羽根を付けたような物を持っている。彼女は俺たちに小さく頭を下げると、何も言わずに海図の端へその瓶を置いた。重しの代わりらしい。
「ミナ。航海士だ。しゃべらねえが、測るのは誰より早い」
ミナさんは、もう一度だけ頭を下げた。
彼女が押さえた海図の端を、俺は覗き込んだ。アルディアの沿岸の線と、いくつかの港の名前。形はゲームの海図とほぼ同じで、その線が、ある所で終わっている。印刷された線はそこで途切れて、その先はゲームの地図と同じく、何も描かれていない。
ただ一本だけ。
途切れた線の先に、細いインクの線が、手で描き足されていた。




