海では、二人とも新人
翌朝、俺は甲板で怒られた。
「そこに置くな」
上から影が落ちてくる。俺より頭一つ高い大男で、腕は丸太、腰には縄の束を三つ下げている。
「ボルツだ。甲板長。そこは綱が走る。帆を回したら、お前の荷物ごと海に持っていかれる」
マストの根元の凹みに置いた俺のリュックを、ボルツさんは片手でつまみ上げた。
「荷物は低く。縛る。通る場所に置かない」
舷側の金具に三秒で括りつけられたその結び目を、俺がほどこうとしたら、たぶん三分かかる。
後ろで、ユイが肩を震わせている。
「笑うなよ」
「笑ってない。世界一位が荷物の置き方で怒られてるの、新鮮で」
ユイのリュックは、最初から正しい位置に縛ってあった。朝一番に、ボルツさんに置き場所を聞いていたらしい。
「搬入の初日は、まず現場の人に置き場を聞くの。常識」
渡り鳥号の乗組員は、ダリオを入れて十三人いた。全員が何かを運ぶか、結ぶか、測るかしていて、何もしていないのは俺とユイだけだ。ゲームでは、誰が帆を張っているのかなんて考えたこともなかった。
今日の仕事は、船底の掃除だった。潮が引く時刻に合わせて船を岸壁の浅い所へ寄せ、傾けた船体の下へ、水夫たちがへらと桶を持って入っていく。
「外縁の海は、つくもんが多い。重い船は遅い。遅い船は、食われる」
岸壁の上から、ダリオが言った。何に、とは聞かなかった。
へらを持ったピコが、俺の横に来る。
「剣士さん、剣で貝、取れないんですか」
「取れるけど、船も切れる」
「切れちゃうんですか」
「切れちゃう」
ピコがちょっとがっかりした顔をした時、船底のほうで誰かが短く叫んだ。水夫の一人が尻もちをついて後ずさり、へらが船体の下に転がっている。
船底の板に貼りついていた殻が、一つ、動いていた。盾くらいの大きさの、灰色の波打つ形の殻だ。端から剥がれて、先が鉤になった細い脚を十本くらい出す。同じような殻があと三つ、船底のあちこちで動き始めた。
「船喰い殻だ! 剥がす時に暴れる! 板ごと持っていかれるぞ!」
ボルツさんが怒鳴った。
鉤は板の継ぎ目に食い込んでいる。無理に剥がせば板が割れるし、剣を振れば、殻の向こうの板まで斬る。
――普通に斬れば、な。
岸壁から跳んで、傾いた船体の下、殻の正面に着地する。殻が鉤の脚を一本持ち上げて、こっちを向いた。
万象解析を開くと、殻の内側に魔力の流れが一筋見えた。脚の付け根から、殻の真ん中の少し下へ集まっている。刃の長さは、殻の厚みぶんだけでいい。
天断を、短止で放つ。刃先から指二本ぶん。
光は殻の中心を抜けて、板に届く手前で消えた。鉤が継ぎ目から外れて、殻がずるりと砂の上に落ちる。船底の板には、傷一つない。
残りは三つ。一つは船首の近く、一つは竜骨の真下、最後の一つは少し大きい。順番に回って、三つとも同じ長さで止めた。竜骨の真下のやつだけは角度が悪かったので、殻の縁を左手で押し上げてから刺した。
四つの殻が砂の上に並ぶと、船底は静かになった。
「……今の、板、切れてねえのか」
竜骨の下に潜り込んだボルツさんが、手のひらで板をなぞる。
「切れてないです。斬るのを、途中で止めたので」
ボルツさんは俺の顔を見て、板をもう一度なぞって、立ち上がった。
「――いい腕だ」
岸壁から降りてきたミナさんが、落ちた殻の一つを拾い、俺が刺した穴の深さを指の節で測って、帳面に短く書いた。絵だった。殻と穴の横に、指が二本描いてある。
「……二本指ぶん、ってことですか」
頷かれた。
殻の中身は焼くとうまいらしく、夕方に甲板で焼いたら、本当にうまかった。食べている最中に、ボルツさんが俺の横に来た。
「剣士。さっきの、明日の海でも頼む」
「はい」
*
出港の朝、ユイが岸壁の端に立った。
「試したいことが三つあるって言ったでしょ。今から全部やる」
一つ目は、海の上に張る足場の結界だった。ユイが手を下ろすと、岸壁のすぐ外の水面に、畳一枚ぶんくらいの薄い板が張られる。光の縁が、波に合わせてわずかに揺れている。
「水の上に張るの、初めて。ゲームだと、水面には置けなかったから。……波で下から押されてる。陸の上より、ずっと重い」
乗っていいか聞く前に、ボルツさんがもう俺の腰に縄を巻いていた。縄の反対側は、岸壁の係船柱に結ばれている。
「落ちたら引き上げる。海で泳いだことは」
「……小学校の、臨海学校で」
ボルツさんは、何も言わずに結び目をもう一つ増やした。
岸壁から、足場へ跳ぶ。
着いた――と思った瞬間、板がぐにゃりと沈んだ。足首まで海水が来て、今度は板が膝の下で跳ね上がり、体が前へ投げ出された。
落ちた。
塩辛い。腰の縄がぴんと張ってすぐに引き上げられ、俺は岸壁の上で水を吐いた。
「今のは、俺が悪い」
「どっちかというと、私が悪い」
ユイは真剣に笑いをこらえていたが、目は水面の結界から離れていなかった。
「レイが降りたの、波の谷。板は波と一緒に下がるから、そこに体重が乗ると沈みすぎる。山だと押し上げてくるから、膝に来る。……上がり始め。私が合図する。あと、板を少し斜めにする。真上から受けないように」
二回目は、ユイの「今」で跳んだ。
板は沈んだが、さっきほどじゃない。着地の瞬間に膝を抜き、重さを斜めの板の上で前へ流す。
止まれた。足首まで、濡れていない。
ユイが、拳を小さく握る。
そこから先は、乗るたびにユイが板の角度を変え、俺が膝の抜き方を変えた。五回目で、片足で着地して、もう片方で次の板へ跳べた。二枚目の足場までの間隔は、三メートル。
「何枚まで張れる?」
「海の上なら、同時に二枚。三枚目を張ると、一枚目が持たない。……今のところは」
最後の一言だけ、少し悔しそうだった。
二つ目は潮で動く結界で、ユイは手のひらほどの結界を水面に浮かべると、そのまま手を離した。
「潮に乗せたら、どこへ行くか見たいの」
小さな光は岸壁に沿って流れていき、港の出口の手前でくるりと向きを変えて、沖の方へ消えた。いつの間にか岸壁の端にいたミナさんが、その方角をじっと見て、帳面に線を一本引く。それから、ユイに向かって小さく頭を下げた。
三つ目は、船の舷側に張る防波の幕。ユイが自分で試し、自分で首をかしげ、自分で直していく。俺は縄に繋がれたまま、それを見ていた。
楽しそうだった。
「レイの番もあるでしょ。飛ぶやつ」
風で体を押し上げる魔法。ゲームでは移動用の補助で、高く跳んで、少しだけ空中に留まれる。岸壁から跳んで風を足の裏に溜めると、体が浮いた。海の上を、十メートル。二十メートル。
三十メートルで、胸の奥の流れが細くなった。
戻って岸壁に着地した時には、息が上がっていた。流れが元の太さに戻るまで、しばらくかかった。
「長くは無理だな。全力で、この港の端まで。行くだけなら行ける。帰ってこれない」
「片道切符だ」
ダリオが、甲板の上から怒鳴る。
「それで全部飛んで行くなら、船は要らねえな!」
「要ります!」
「よし! なら乗れ! 潮が変わる!」
腰の縄は結局ほどけなくて、ボルツさんがほどいてくれた。一秒だった。
甲板に上がると、ピコが濡れた俺を見上げてくる。
「王門の剣士でも落ちるんだ」
「落ちる。海は初めてなんだよ」
ピコは、なぜか嬉しそうだった。
帆が張られて、渡り鳥号が岸壁を離れる。港湾局の小さな船が並走して、湾の出口あたりで汽笛を一回鳴らし、引き返していった。
湾を出て、一時間。ミナさんが舳先で、船長室で見た瓶に羽根の付いた浮きを海へ投げる。それが波の上でくるりと向きを変えると、ミナさんは前方を指さした。
海の色が、そこで変わっている。灰色がかった青が、ある線を境に深い藍になって、その線は水平線まで続いていた。
その線の向こうだけ、空の色が、少し違った。




