未実装の海から
その夜、トーマから一本の動画が届いた。
【TOMA:レイくん、これ見て。横浜】
動画の中は、夜の港だ。大きな埠頭とコンテナのクレーンがあって、その向こうの海に――帆船が一隻、浮かんでいる。木造の、三本マストの船だ。帆は畳まれていて、船首には翼を広げた鳥の像、舷側にはランプの灯りが並んでいる。周りのコンテナ船と比べると小さいが、明らかに、この世界の船じゃない。
【TOMA:昨日の夕方、横浜の沖に急に現れたらしい。港湾局が警戒してたけど、今朝、船長が小舟で上陸してきて、話をしたって】
【TOMA:言葉は、翻訳支援で通じた。船の名前は《渡り鳥号》。交易船。船長の名前はダリオ】
渡り鳥号。ゲームの中で、聞いたことがない名前だ。
【TOMA:で、ここからが問題】
【TOMA:船長が言うには、「ノクスの外縁の航路を通ってきた」って】
ノクス。
その名前に、俺は画面を握り直した。
ノクスは、ゲームの中で一般プレイヤーが入れなかった領域で、地図の端に名前だけが書かれ、そこから先は真っ黒だった。未実装区域。いつか実装されると言われ続けて、六年間、誰も入ったことがなかった。
その外縁を、通ってきた船がある。
【TOMA:船長も、ノクスの全部を知ってるわけじゃないみたい。外縁の、決まった航路を通っただけで。でも、帰り道を測りたいって言ってるらしい。商売の航路として使えるかどうか】
【TOMA:レイくん、これ、どう思う?】
――どう思う、って。
俺は画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
行ける。
その事実だけで、心臓がうるさくなる。
「レイ?」
ユイが横から画面を覗き込み、それから俺の顔を見る。
「あ、またその顔。新ボス見つけた時の顔。口が半開き」
閉じた。
「……イヴ」
俺は、通信を開いた。
『はい、レイ様』
「聞きたいことがある。はぐらかすなよ」
『どうぞ』
「エターナル・レルムは、何をもとに作られた」
一拍。いつもより、少し長い間だった。
『エターナル・レルムは、実在する異世界の観測情報をもとに構築されました』
はっきりと、言った。ユイが息をのむ。
「実在する。リーベルも、王門も、ノクスも」
『はい。ゲーム内の地形、建造物、生物、住民の多くは、その世界の観測に基づいています』
「全部じゃないのか」
『観測できなかった部分は、推定で補完しました。ノクスは、観測がほとんどできなかった領域です。そのため、ゲーム内では未実装としていました』
未実装、の理由。観測できなかったから。作れなかったから。
「じゃあ、ゲームで何百回も消えたリーベルは」
『防衛戦の結末は、観測に基づく予測でした』
「予測」
『実際に、リーベルが消えたことはありません』
エルナが言っていた通りだった。
――じゃあ、エルナが覚えていた桶の話は。ハンナが三浦さんに渡したパンは。
あれは、予測じゃない。
「エルナは、俺と話したことを覚えてた。ゲームの中で話したことを。あれは何だ」
『その区分を正確にお答えするには、記録の照合が必要です。現時点では、私の側だけで断定できる状態にありません』
「お前の側だけで、ってことは、照合する相手がいるのか」
『はい。現地の記録です』
今度は、ちゃんと答えの形をしている。全部じゃない。でも、どこを調べれば分かるのかは、言った。俺はそれを覚えておく。トーマのログにも、残っているはずだ。
「最後に一つ。ノクスの外縁の航路。あの船が通ってきたやつ。お前は、知ってるか」
『観測の記録は、断片的です。航路として成立しているかどうかは、私には判断できません』
「なら、測ってくる」
『……レイ様が、ですか』
「俺が。行きたいから」
通信を閉じると、ユイが隣で俺を見ている。
「行くんだ」
「行く」
「誰かに頼まれた?」
「頼まれてない」
それが、一番大事なところだった。
この五日間、俺はずっと、目の前の誰かのために動いていた。竜を倒して、犬を倒して、門の番人を止めて、将を倒して、核を止めて。全部、やりたくてやった。でも、全部、やらなきゃいけないことでもあった。
今度は、誰も頼んでいない。未実装の海の、地図の真っ黒な部分を、見に行きたい。それだけだ。
「ユイは」
聞く前に、ユイが言った。
「行く」
「……早いな」
「ノクスの外縁でしょ。結界がどう効くか、試したいことが三つある。海の上で張る足場の結界と、潮で動く結界と、それから――」
「待て、全部言うな。行ってから聞く」
「えー」
ユイは不満そうに口を尖らせてから、ふっと真顔になる。
「レイ。土曜日の約束、覚えてる?」
「覚えてる。帰ってきたらやるって言った」
「横浜から帰ってきたら、最初の土曜日」
「……ああ。最初の土曜日」
「海の上で『もう一往復だけ』とか言い出したら、結界で閉じ込めるからね。騎兵みたいに」
「怖いこと言うなよ」
ユイが笑った。それから二人で、トーマの動画をもう一度見る。夜の港に浮かぶ木造の帆船と、船首の、翼を広げた鳥の像。
渡り鳥号。
あの船の向こうに、まだ誰も見たことのない海がある。
【レベル:1004】
さっき、イヴとの通信を閉じた時に、表示が一つ変わっていた。なんで上がったのか、分からない。たぶん、核を止めた分の、遅れてきた経験値だ。
――いや。
分からないなら、分からないでいい。
分からない場所へ、これから行くんだから。
第一部「東京・王門」、これにて完結です。次回から第二部「未実装の海」が始まります。
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