復活のない街で、相棒の声を
入口を塞いでいたのは、折れた庇だった。竜の尾が支柱をへし折ったらしく、一階の店から制服姿の店員がこちらへ手を伸ばしている。
「待ってください、今上げます」
星喰いを鞘へ戻し、庇の縁に両手をかけた。
持ち上がる。
鍛えた覚えのない腕に、魔力の熱が回っていく。重さはあるが、それが俺の限界の手前にあるのも分かる。人が通れる高さまで上げると、店員、年配の客、もう一人が順に這い出てきた。
「何か挟むもの、ありますか」
外にいた作業服の男性が黙って頷き、工事区画から角材を抱えて戻ってくる。竜を倒した俺を見る顔じゃない。どこへ支えを噛ませるかだけを見ている。
「もうちょい上。……そこ。そのまま」
言われた高さで止めると、男性が支えを入れて、重さをゆっくり移した。軋みが止まる。
いい仕事だ。俺は持ち上げるしかできないが、この人は止め方を知っている。
店員の袖に血が滲んでいて、近所の診療所から出てきたという女性が、もう彼を座らせて布を当てていた。所持品の一覧を開くと、回復薬が四本ある。ゲームなら、これで傷は塞がる。でも、この身体で他人に飲ませて大丈夫なのか、何も分からない。
瓶を出しかけた手を、止めた。試すなら、まず自分でだ。
「ゲームみたい、ですね」
そう言った角材の男性の声は、ひどく乾いていた。
「俺、やったことないんだけど。さっきから、数字が見える。レベル一って」
「俺にも見えます」
「あんたも一?」
「九百九十九です」
男性は倒れた竜を見て、俺を見て、もう一度竜を見た。
「……上限、ないの?」
「昨日まではそれが上限でした」
「昨日までは」
「今日から、ないらしいです」
男性は何か言いかけて、自分の目の前の文字へ指を伸ばす。
「こういうのってさ。死んでも、戻れるんじゃないの」
俺は機能一覧を開いて、いつもの場所を探した。復帰地点。拠点登録。戦闘不能時の帰還先。
ない。
検索欄に言葉を入れると、短い注意だけが出た。
【復活機能はありません】
もう一度、読む。ゲームでは、倒されるといつも石畳の広場に戻って、起き上がる前から次はどこから攻めるか考えていた。その広場を選ぶ欄が、今はない。
「戻れないそうです。ゲームと同じには、考えないほうがいい」
男性は手を下ろした。俺も一覧を閉じて、さっきの竜の突進を思い出す。半歩ずれていたら。
……ずれなかった。だから、いい。
電話を取り出して父にかけたが、つながらない。母も同じだ。回線が混んでいるのか、それとも。家はここから電車で四十分。ニュースに出ているのはこの辺りだけか。いや、まだニュースすら見ていない。
家族のやり取りの画面へ打つ。
『無事? 俺は大丈夫。連絡ほしい』
送信済みの表示が出てからの十数秒は、竜の突進を待っていた時間より長かった。
『二人とも家にいる。変な文字は出たけど、外は何もない』
母だった。すぐに父も続く。
『そっちは? 駅の方の映像が流れてる』
『少し手伝ってる。けがはない』
頬の傷がちくりとしたが、今はいい。
『気をつけろ。充電は残しておけよ』
いつもの父の言い方で、肩から何かが落ちた。
会社の連絡欄にも、全社員へ安否を返せという通知が来ている。無事です、と返して画面を消し、それから足元に転がっていた夕飯の袋を見た。蓋のずれた容器から、炒飯が半分こぼれている。
「……それは、ちょっと」
店員が気まずそうに言った。
「ですね」
二人とも、それ以上は何も言わなかった。
その時、耳ではなく頭の中で、ぽん、と音が鳴った。ゲームで何万回も聞いた、新着メッセージの音。
【フレンド通信 接続】
【未読メッセージ:1】
送り主の名前を見て、俺は動きを止めた。
【YUI:無事?】
すぐに返信欄を開いたのに、指が少しもたつく。
『無事。そっちは』
【YUI:駅前。結界使える。人が多い】
【YUI:あと黒い犬。大きいの】
ユイ。
四年間、一緒に遊んできた相棒だ。声だけで機嫌も眠気も大体分かるし、結界術師として、俺の背中と足場を作り続けてきた。それなのに、顔は一度も見たことがない。
関西に住んでいた彼女が、二週間前に東京へ転勤してきた。今度の土曜、初めて会って昼飯を食べる約束をしていたのに、土曜より先に竜が来た。
『どこの駅? 何口?』
【YUI:土曜の待ち合わせの、一つ隣】
【YUI:南口の外。赤い看板の本屋。広場側】
分かる。歩いても行ける距離で、今の足ならすぐだ。
『行く。犬は何匹』
【YUI:見えてるのは五】
【YUI:飛びかかってこない。外周を回ってる】
群れで、逃げ道へ先回りする犬。名前は見てから決めるが、心当たりはある。
『人を出せる方向は』
【YUI:西の通り。二匹に見られてて出せない】
俺は走りだした。
仕事用の革靴が、いつもと違う音を立てる。景色は驚くほど速く流れていくが、見えない曲がり角では速度を落とした。今の俺がぶつかったら、人のほうが壊れる。実際、最初の角で自転車を押した女性とぶつかりかけた。
「っと、すみません!」
女性は剣を見て身を引き、それから唇を結んで、本屋の裏へ続く細い道を指さした。
「表は混んでる。行くなら、あっちから」
「助かります」
路地の奥に、木が一本生えている。白い幹がブロック塀を半分突き破るように立っていて、枝先では、夕方なのに青く光る葉が揺れていた。月雫樹だ。ゲームでは、あの葉を百枚単位で集めて調合に使った。
触りたい。めちゃくちゃ触りたい。
【YUI:一匹増えた。六】
……あとでな。
『もう近い。本屋の裏から回る』
【YUI:了解】
【YUI:会う場所、だいぶ変わったね】
こんな時に。口の端が上がる。
『昼飯の店も変える?』
【YUI:そこは変えない】
即答だった。あの店のハンバーグを、彼女は二週間前から楽しみにしていた。
閉じた本屋の裏手から広場を覗くと、ガラスのような壁が横長に立っていた。光の端が折れて建物の角に沿い、その内側に人がいて、外側を黒い獣がうろついている。
犬じゃない。前脚が太すぎるし、肩の高さが俺の腰ほどある。灰猟犬。群れで獲物の逃げる先へ回り込む、中級の魔物だ。数は六。
一匹が結界を爪で叩いて、薄い音が鳴った。奥から、女性の声がする。
「押さないでください。そこの角はまだ閉じてますから」
息が止まった。
耳を覆う機器も、音量の設定もない。四年間ヘッドセット越しに聞いてきた声が、夕方の広場を渡って、直接ここまで届いた。
その声の持ち主は、結界の内側で片手を上げている。暗い茶色の髪が肩のところで跳ねていて、ゲームで見慣れた銀髪とは違う。
でも、壁の置き方は同じだった。左端を少しだけ手前に折って、敵が回り込みたくなる角度を作る。その先に、斬撃を通せる空きがある。ユイが四年間、俺のために空けてきた場所。
俺は剣を抜いて、そこに立った。
「ユイ。左、借りる」
彼女の手が、ぴたりと止まった。




