二人なら、別の道を開ける
光の膜の前で、ユイは五分間、何も言わなかった。
膜に触れない距離で、右から左へ、左から右へ、ゆっくり歩く。時々しゃがんで下の端を見ては、背伸びして上の端を見る。その間、俺は教会の壁にもたれて待っている。
エルナが、小声で聞いてくる。
「レイ殿。ユイ殿は、何を」
「読んでる」
「読む?」
「あの壁の、仕組み」
エルナは、俺の顔を見た。
「レイ殿なら、斬れるのでは」
「斬れる」
即答した。
「たぶん、天断一発で穴は開く。でも、何が起きるか分からない。何百年も切り替わり続けてる結界なんて、ゲームにもなかった。斬った瞬間に、溜まってたものが全部噴き出すかもしれないし、回廊ごと崩れるかもしれない」
「では、迂回を」
「それも考えた」
城壁の外側を回れば、俺一人ならたぶん三十分で東区に着く。魔物が何匹いても関係ない。でも、俺一人が着いても意味がない。運ばなきゃいけないのは、東区へ逃げる人たち――子どもと、老人と、パン屋の窯の道具だ。
「だから、ユイを待ってる」
「……信頼していらっしゃるのですね」
「結界のことは、俺よりあいつの方が百倍分かる」
それは、四年前から知っている。
――四年前。
俺が二十歳で、ユイと初めてパーティを組んだのは、ゲームの中の可変結界の迷宮だった。当時の最難関ダンジョンの一つで、通路を塞ぐ結界が一定時間ごとに形を変える。攻略法は、まだ誰も見つけていなかった。俺は力押しで突破しようとして、六回死んだ。七回目の挑戦の時、野良の募集に、知らない結界術師が一人だけ応募してきて、迷宮の入口で俺にこう言った。
『あの壁、斬らないで。五分ちょうだい』
俺は、三分で飽きた。
『まだ?』
『あと二分』
『長い』
『じゃあ一人で行けば。七回目も死ねば』
腹が立った。でも、待った。
五分後、彼女は壁の切り替わりの周期と、その一瞬だけ開く隙間を全部言い当てて、俺たちは、迷宮を一度も死なずに抜けた。
それが、ユイだった。
それから四年。最初は彼女が壁を読むのに五分かかって、俺はその五分を待つのが苦痛だった。今は、待っている間に、何を読んでいるのか少しだけ分かる。彼女も、たぶん、俺がどこで飽き始めるのか分かっている。
「レイ」
ユイが、振り向いた。
「周期、分かった」
「何秒」
「青が七秒、白が四秒。でも、白の最後の〇・五秒だけ、下の端が少し浮く」
「〇・五秒か」
「狭い。でも、そこに私の壁を差し込めば、浮いたまま止められる。たぶん」
「たぶん」
「レイの『分かんない』よりはマシでしょ」
「マシだな」
ユイが手を上げると、指先に薄い光が集まっていく。
「レイ。私が差し込んだら、あっちの壁が抵抗すると思う。押し返してくる。私が支えられるのは、たぶん十秒」
「十秒あれば、くぐれる」
「レイはね。他の人は?」
「……一人ずつ通したら、何人いける?」
「三人。無理して四人」
「足りないな」
「足りない。だから――」
ユイが、膜の下の端を指さした。
「レイ、あそこ、斬れる?」
「斬るなって言わなかったか」
「全部じゃなくて。私が浮かせた端の、一番下。床から三センチだけ。あっちの壁の、切り替えを動かしてる芯みたいなのが、そこを通ってる」
見た。万象解析を開く。
膜の下の端、床と接するぎりぎりのところに、確かに一本だけ太い流れがある。青と白の切り替えに合わせて、脈打っている。
「その芯を止めたら、切り替えも止まる?」
「止まると思う。止まったら、あとは私が普通の結界として扱える。開けたままにできる」
「昨日の短止で、床から三センチ」
「できる?」
できる。昨夜は一センチまで詰めたから、三センチなら余裕だ。
「できる」
「じゃあ、白になったら行く。三、二――」
ユイの壁が、膜の下に滑り込んだ。膜が軋み、青と白が乱れる。押し返す力が目に見えるほど強くて、ユイの腕が震える。浮いた端の一番下に、芯が見える。
天断。
放って、すぐ、握った。床から三センチ。芯だけを断ち切って、石の床には触れずに消える。
膜の色が、止まった。白のまま、凍りついたように。それからゆっくりと、ユイの壁に押されて、アーチ型の入口の上半分へ持ち上がっていく。下に、人がくぐれる隙間が開く。
「……開いた」
ユイは肩で息をしている。それでも、壁はちゃんと保っている。
「保てる?」
「保てる。もう抵抗してこない。普通の結界になった」
「どのくらい」
「私がいなくても、半日は持つように組み直せる。十五分ちょうだい」
「五分じゃないのか」
「四年前より複雑なの、これ」
俺は、壁から背中を離した。エルナが、呆然と、開いた入口を見ている。
「……祖母の代から、誰も開けられなかった扉が」
「ユイが開けたんだよ。俺は床を三センチ斬っただけ」
「三センチ」
「三センチが一番難しかったけどな」
ユイが、壁を組み直しながら、振り向かずに言った。
「レイ。今の、合図なしで斬ったね」
「合図、いらなかっただろ」
「いらなかった」
彼女の声は、少し笑っている。
「四年前のレイなら、三秒で飽きて、膜ごと全部斬ってたよ」
「四年前の俺は、七回死んでた」
「今のレイは?」
「今の俺は、一回も死んでない」
入口の奥から、冷たい空気が流れてくる。石の階段が地下へ続いていて、壁にぽつぽつと、青白い光が灯っている。何百年も、誰も通らなかった通路に。その奥から、かすかに、何かが動く音がした。
重い足音。一つじゃない。
俺は、星喰いの柄に手を置いた。




