地図にないパン屋
二日目の朝、小門をくぐった。
一歩目で、空気の匂いが変わる。排気ガスと湿ったアスファルトの匂いが消えて、薪の煙と、石の冷たさと、焼けた小麦の香りが来る。
足元は石畳で、両側に木と漆喰の家が並んでいる。屋根は赤茶色、窓枠は青。道の奥には、空を突くような灰色の城壁と、巨大な門の影が見える。
王門だ。
ゲームで見た角度と、ほとんど変わらない。違うのは、窓から洗濯物が垂れていること。誰かが水を撒いた跡が石畳に残っていて、猫が一匹、塀の上で俺たちを睨んでいること。
ゲームには、猫はいなかった。
「……レイ」
ユイが、小声で言った。
「すごいね」
「ああ」
それ以上、言葉が出てこない。
エルナが先に立って、門前通りを歩く。すれ違う住民は彼女に頭を下げ、それから後ろの俺たちを――特に俺の腰の剣を、ちらちらと見ていく。
「旅人の方だ」
「旅人の、本物の」
そういう囁きが聞こえてくる。本物の、ってどういう意味だ。聞く前に、エルナが立ち止まった。
「ここです」
三軒目の店で、木の看板に、麦の穂と丸いパンの絵が彫ってある。ゲームで瓦礫の中に落ちていたあの看板が、今はちゃんと店の上に掛かっていて、開いた扉の中から、湯気と小麦の焼ける匂いが流れてくる。
――ああ、これだ。
俺は、この匂いを嗅いだことがなかった。六年間、この店の前を何百回も通ったのに。
「エルナ様!」
店の奥から、恰幅のいい女性が出てきた。粉で白くなった前掛けに、腕まくりした太い腕。
「ハンナ。無事でしたか」
「無事も何も、窯の火を落とすわけにいかないでしょう。……こちらの方々は?」
「旅人の方です。レイ殿と、ユイ殿。昨夜、門の番人を止めてくださいました」
ハンナの目がまん丸になって、それから俺の手を、粉だらけの両手でつかんだ。
「あんたが! あの番人を!」
「あ、はい。ユイとエルナと、三人で」
「まあまあまあ!」
背中をばんばん叩かれた。痛い。Lv1000でも痛いものは痛い。
「上がって! 焼きたて食べてって!」
「いや、俺たち、手伝えることがあれば――」
「手伝い?」
ハンナの顔が急に真剣になって、店の奥を指さした。
煉瓦積みの窯の前で、十五、六歳くらいの少年が、鉄の道具を必死に木箱へ詰めている。長い柄のついたへらに、火かき棒、分厚い鉄板。どれも重そうで、少年は一つ持ち上げるたびに顔を赤くしている。
「エルナ様から、王門が開くかもしれないって聞いてね。窯は持っていけないけど、道具だけでも東区の親戚の家に移そうと思って」
「東区?」
「門から一番遠い区画です」
エルナが答える。
「ですが、東区へ行くには、門前の大通りを横切らなければなりません。今朝から、大通りには魔物がうろついていて」
「なるほど」
俺は窯の前まで歩いて、少年が持ち上げようとしていた鉄板を片手で持った。少年が、ぽかんと口を開ける。
「……え」
「これ、どこに置く?」
「は、箱の、一番下……」
置いた。次の鉄板も、その次も。少年――ハンナの上の息子で、マルクという名前だった――は最初こそ呆然と見ていたが、やがて俺の横で、詰める順番を指示し始める。
「へらは先を上に。曲がるから。火かき棒は布で巻いて。……あ、それは持ってかないです、焦げてるやつだから」
「焦げてる?」
「僕が焦がしたやつ。母さんに捨てろって言われてるけど、捨てられなくて」
焦げたパン用の天板で、真っ黒になっている。
「持ってく?」
「……持ってきます」
俺は焦げた天板も箱に入れた。その間、ユイは店先でハンナと話している。
「大通りを渡らずに東区へ行く道は、ないんですか」
「昔はあったのよ。城壁の内側を回る、古い回廊が」
「回廊?」
「門ができるより前の、大昔の通路。東区から門前通りまで、地面の下を通ってたって。でも、私の祖母の代にはもう閉じてたわ。入口に変な光の壁が張ってあって、誰も入れないの」
光の壁。ユイの目が、すっと細くなった。
「その入口、どこですか」
「教会の裏の、古井戸の横。……でも、本当に誰も入れないのよ?」
「見るだけです」
見るだけ、と言った時のユイの顔は、全然見るだけじゃなかった。
木箱が三つ、いっぱいになった。それを三つまとめて持ち上げると、マルクがまた口を開ける。
「旅人さん、力持ちですね」
「レベル1000だからな」
「せん……?」
「すごく強いってこと」
ユイが、店先から呆れた声を出した。
「レイ、それ子どもに自慢すること?」
「事実を言っただけだろ」
「顔が自慢してる」
結局、木箱は大通りを避けて裏道を三本回り、東区の親戚の家まで運んだ。途中で影狼が二匹出たが、マルクが「わっ」と言う前に終わった。
帰り道、ハンナが持たせてくれた焼きたてのパンは三つあって、どれも丸くて、表面がぱりっとしていて、割ると湯気が立つ。一口かじった。
……うまい。
小麦の味が、ちゃんとする。外は香ばしくて、中はもちもちしていて、ほんのり甘い。
「レイ。泣いてる?」
「泣いてない。湯気が目に入っただけだ」
「パンの湯気って、そんなに目に入る?」
「入る。こいつのは入る」
隣で黙ってパンを食べていたエルナが、ぽつりと言った。
「レイ殿。ハンナの窯は、百二十年前からあの場所にあります」
「……うん」
「ゲーム、というものの中で、この店がどうなったか。昨夜、少しだけユイ殿から聞きました」
俺は、パンを持ったまま立ち止まった。
「全部じゃないよ」
ユイが、すぐに口を挟む。
「看板が落ちてた、ってことだけ」
エルナは、首を横に振った。
「責めているのではありません。……ただ、その看板を、レイ殿はずっと覚えていらしたのですね」
覚えていた。勝利のファンファーレの中で、瓦礫の上に落ちた看板を。
「今度は」
俺は、残りのパンを口に放り込む。
「看板、落とさせない」
エルナは何も言わずに、ただ鎧の胸に手を当てて、小さく頭を下げた。それから三人で、教会の裏へ向かう。古井戸の横の、光の壁を見に。
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