第3部:初出勤
昨夜の契約から、わずか六時間。
ヴァルプスは、悪魔特有の「戦闘準備」を終えた状態で指定の座標へと降り立った。
主は言った。「守る覚悟がある」と。それは悪魔の論理で言えば、敵対勢力の根絶、あるいは血塗られた隠密行を意味する。
影を刃に変え、いつでも首を刎ねる準備はできていた。
だというのに。
「……おはよう。時間ぴったりだね。
リソースの管理が行き届いているようで安心したよ」
レオンは、昨日と変わらぬ完璧な仕立てのコートを纏い、あろうことかこの暗闇の中で銀の温度計を確認していた。
「……主さま。
一応確認しますが、今日の『戦場』はどこですか?
既に索敵範囲には三十近い生命反応を捉えていますが、どれから優先的に排除すべきか、順位を」
「排除? いや、必要ないよ。
彼らはただの宿泊客だ」
レオンは事も無げに言い放ち、古びた宿の一室の扉を、音もなく――それこそ物理法則を無視したような静謐さで――押し開いた。
「今日の現場はここだ。
私の管理下にある、最も脆弱で、最も尊い重要資産――『宝石姫』の安眠維持だよ」
ヴァルプスの思考回路が、三秒ほど完全に停止した。
視界の端で、戦闘用に展開していた魔力の出力グラフが、目標を見失って空虚に揺れている。
「レオン……いえ、主さま」
「うん」
「確認ですが、掃討すべき軍勢は?
破壊すべき結界は?」
レオンは、羽毛が落ちるような静かさで、少女が眠る寝台の傍らに膝をついた。
「ここが、私の戦場だ」
冗談ではない。その青い瞳は、昨日契約書を睨んでいた時よりも、さらに深く、鋭い「実戦」の光を宿している。
「ここが、私が最も神経を使う防衛拠点だ。
一秒の演算ミス(油断)で、彼女の精神安定は崩壊する」
レオンは迷いのない手つきで、ヴァルプスを指し示した。
「廊下に広帯域の影を張ってほしい。不確定要素の接近を、三秒前に検知しろ。
……彼女の睡眠導入は極めてデリケートなプロセスだ。中断は許されない」
レオンが懐から取り出したのは、銀色に光る精密な調整器具だった。
かつて死線を潜り抜けた手が、今は一ミリ単位で月光の入射角度を測り、遮光カーテンの隙間を埋めている。
「……これ、昨日言っていた『管理』の範疇ですか?」
「当然だよ」
即答。一分の隙もない。
「彼女は希少な個体だ。適切な環境維持を怠れば、その価値は損なわれる。
私はそのリスクを最小化するために、君という高帯域の監視装置(悪魔)を雇ったんだ」
その声は、春の微風のように穏やかで、しかし語られている内容は、対象を「完全に管理下に置く」という静かな独裁そのものだった。
「……昨日言っていた、『守る覚悟』というのは」
「本気だよ。疑う余地があるかな?」
レオンは少女の髪を一筋、あたかも国宝のひび割れを修復するかのような慎重さで整え、言葉を継いだ。
「彼女の領域を侵すノイズは、全て排除する。
浮遊する塵、不快な周波数、無遠慮な視線――そして、私以外の人間が彼女の運命に干渉する可能性すらもね」
そこに、悪意は欠片もなかった。
純粋なまでの「善意」と、底なしの「責任感」。
だからこそ、ヴァルプスは生まれて初めて、背骨の芯が凍りつくような感覚を覚えた。
(この人……『善意』だけで、悪魔でも躊躇うような独占領域を構築してる……)
一ミリの狂いもない環境構築を終えると、レオンは憑き物が落ちたような顔で立ち上がった。
「一旦、休憩にしよう」
懐から取り出されたのは、銀紙で丁寧にパッキングされた焼き菓子。
封を切った瞬間に広がるのは、上質なバターの香りと、暴力的なまでの糖分の誘惑だ。
「……主さま。一応確認しますが、これを常備しているのは?」
「高負荷なマルチタスクには、即効性の高いエネルギー源が必要だ。
君のパフォーマンス維持にも役立つだろう」
レオンは少しだけ視線を泳がせ、照れたように僅かに微笑んだ。
「……福利厚生、というやつだね。適正な労働環境には必要なコストだ」
ヴァルプスは無言でそれを受け取った。否定はできない。渡された菓子の質は、悪魔を黙らせるほどに「誠実」だった。
レオンは眠る少女を起こさぬよう、声を限界まで潜めて告げる。
「彼女はね。私が、ただ隣にいるだけの無害な人間だと信じているんだ」
「……でしょうね。まさか隣にいる男が、背後で悪魔を『時計の針』代わりに使って環境制御を行っているなんて、夢にも思わないでしょう」
「うん。だから、その定義を壊さない」
その「壊さない」という言葉の裏にある執着の深度が、常人のそれと決定的に乖離している。彼は彼女の「日常」を維持するために、その外側を「非日常の暴力と管理」で塗り潰しているのだ。
「……主さま、一つだけ確認していいですか」
ヴァルプスは、自身の指先に残る甘い脂分を見つめながら、慎重に言葉を選んだ。
「この業務内容、契約書には一行も記載がなかったように思いますが?」
「特記事項として記載するまでもない、標準的な付帯業務だからね。
……質問もなかった」
レオンは悪びれず、静謐な微笑みを湛えている。
「……途中解約、あるいは試用期間での退職は?」
「できない」
即答だった。コンマ一秒の迷いもない。
「契約は永続、かつ排他的なものだ。
……だが安心してほしい。君という資産を粗末に扱うつもりはないよ。リソースは適切に配分する。
どうしても、というときは契約の再更新を検討しよう」
そう言って、レオンは再び銀の器具を手に取った。
「では、業務に戻ろう。次は月光の入射角の微調整だ。影をさらに三パーセントほど透過させてくれ」
ヴァルプスは、静かに窓の外の月を見上げた。
この主は、嘘をついていない。報酬は確実に出るし、菓子は極上だ。何より、その「守る」という言葉に一点の曇りもない。
ただ、致命的に「愛の仕様」が人間と噛み合っていないだけだ。
悪魔の長い歴史の中でも、これほど「善意によって退路を断たれた職場」は珍しい。
(……初出勤でこれか。
せめて業務日報でもつけていないと、ボクの精神が摩耗しそうだ)
窓の外、無機質な月だけが、契約の始まりを冷ややかに見下ろしていた。




