第2部:契約
第2部:契約
椅子にちょこんと腰掛けた少年の、細い足首が空中で揺れる。その肌は不自然なほど滑らかで、血の通わない陶器のようだ。赤い目には興味と警戒が入り混じる。
「初対面の相手に対して、随分と横柄なクライアントだね。
普通はもう少し、畏怖の念を込めてボクを称えるものだけど?」
少年は細い指先で外套の襟を弄びながら、鈴の鳴るような声で笑った。だが、その声の底には、交渉相手を品定めする冷徹な響きがある。
「私は信仰心ではなく、対価を支払うためにあなたを呼んだ。
だから、礼拝ではなく交渉の席を用意した。
私の名はレオン・ド・ラ・ノワール。まずはあなたの名を」
レオンは視線を上げ、少年の深紅の瞳とまっすぐ視線を合わせた。
相手がどれほど上位の存在であろうと、契約の席においては対等のプレイヤーだ。ここで気圧されれば、魂はおろか、ビジネスの主導権まで奪われる。
「いいね、そのビジネスライクな態度。
ボクの名前は……そうだね。ボクはヴァルプス」
ほんの少しの逡巡のあと、壁にかかる狐の毛皮を見て、少年は答えた。
「まずはその短期契約用の識別子で呼ぶといい」
少年――ヴァルプスは、不敵な笑みを浮かべた。
「それで? 君は何を依頼したいのかな?」
レオンは懐から、一通の羊皮紙を取り出した。インクではなく魔力で印字されたそれは、現代的な契約書のフォーマットそのものだ。
「内容はこうだ。私の収集品の管理、必要があれば収集補助も頼む」
レオンが差し出した羊皮紙を、ヴァルプスは宙に浮かせたまま受け取った。
細い人差し指で羊皮紙を軽く叩くと、魔力で印字された文字が青く発光し、悪魔の赤い瞳にその内容が高速で投影されていく。
一字一句、契約の裏に隠された意図を読み解く、冷徹な査定の視線だ。
「……なるほどね。管理と収集補助。
言葉は綺麗だけど、要するにボクに『倉庫番』と『回収屋』をやれってことだ」
ヴァルプスは契約書から視線を外し、唇の端を吊り上げてレオンを試すように見つめた。
「悪くない事業プランだ。君の集める『品物』が、相応の価値を持つものであるならね。
だけどレオン、ビジネスには対価が必要だ。
ボクの時間を拘束し、ボクの技術を投資させる。
君はボクに、どんなリソースを支払ってくれるのかな?」
レオンは流麗な所作で、銀のトレイからボーンチャイナのカップを差し出した。
立ち昇るのは、ベルガモットの香りに微かな魔力触媒を混ぜた特製の紅茶。そして、バターと砂糖を極限まで煮詰めた、暴力的なまでに甘い香りを放つ焼き菓子だ。
「……甘いものを出すのは、交渉を有利に進めるため強要かな。
それとも、単なる君の嗜好?」
ヴァルプスは細い指先でカップの縁を弾いた。硬質な音が、地下室の静寂に波紋を作る。
少年の姿をした悪魔が、甘い声で本性を覗かせる。
悪魔が求めるのはいつだって、人間の限界値を超えた何かだ。
「どちらでもいい。ただ、脳に糖分が回っている方が、複雑な契約条項を理解する助けになるだろう」
レオンは自身の分には一切手をつけず、ただ静かにヴァルプスを見据えた。
「条件の核を話そう。
あなたの『時間』を、私が買い取る。
単位は分、あるいは時間。あなたは私の提示したスケジュールに従い、リソースを私の管理業務に割り当てる。
……いわば、『時給制』の専属契約だ」
ヴァルプスは一瞬、きょとんとした表情を浮かべた後、地下室の空気を震わせるようにして喉を鳴らした。
「はは、はははは! 面白い。ボクという災厄を、君は『時間』で縛るつもりかい?
傲慢だね、君は。永遠を生きるボクたちにとって、時間は最も無価値で、最も贅沢な玩具だというのに」
「無価値だからこそ、私が価値をつける。
あなたの時間を、孤独や退屈に消費させるのは損失だ。その『余白』を私が全て買い取り、私の責任下で運用する。
そしてこの契約が続く限り、私が獲得する魔力リソースの十五パーセントを恒常的に配当しよう」
ヴァルプスの赤い目が、興味深げに細められた。レオンの手が、テーブルの上に置かれた契約書をゆっくりとヴァルプスの方へ押し出す。
「報酬は現世の希少素材、および――あなたの行動の自由。
あなたの感情や気まぐれに、私は一切の干渉をしない。
ただし、その自由によって発生した現世での損害やトラブルは、すべて私が引き受ける。
それが、私の提示する『リスクマネジメント』を兼ねた専属契約だ」
沈黙が地下室を満たす。
ヴァルプスは陶器のような白い指で、暴力的なまでに甘い焼き菓子を摘み、躊躇なく口へ運んだ。
「……ふむ、悪くない。脳の報酬系をバグらせるような味だ。
君たち現世の人間が堕落する理由がよく分かるよ」
ヴァルプスは青く光る契約書を細い指でなぞり、赤い瞳を妖しく輝かせた。
「いいだろう、そのリスクマネジメント、ボクが使い切ってあげる。
ただしレオン。君の活動リソース(魔力)が尽きて支払いが滞った瞬間。
ボクは君の残業代として、その魂を全額一括請求(強制執行)させてもらうよ?」
「――その条件で合意だ」
レオンは静かに言い放つ。その声は穏やかだが、揺るがない意志を宿していた。
「リスクを引き受ける覚悟がなければ、そもそもあなたと交渉の席についていない」
ヴァルプスは軽く肩をすくめ、不敵に唇を歪めた。
「ふうん、面白い。君のその覚悟と、ボクの気まぐれ、どちらが先に破綻するか見ものだね」
「破綻はさせない。あなたがどれほど気まぐれに動こうとも、私はそれを計算の内におさめてみせる」
地下室には香炉の煙と魔力の淡い光、そしてまだ試験段階の緊張感が漂った。
二人の間の「約束」は、言葉と意志の応酬の中で静かに形作られていく。
ヴァルプスは契約書に指先で、まるで狐の爪痕のようなサイン(真名)を刻みつけた。
文字がひときわ強く青い光を放ち、やがて粒子となって二人の胸の奥へと吸い込まれていく。
「……ああ、これが」
ヴァルプスは不敵な笑みを浮かべたまま、細い手を差し出した。レオンはその手をしっかりと握る。その瞬間、淡い光が指先を走り、二人の意志が触れ合う。ヴァルプスの心の一部が、ほんのわずかだがレオンに委ねられる感覚が走った。
「……なるほど。これが契約か。
背筋を這い上がるようなこの不快な連帯感……悪くない。ボクをここまで完璧に『定義』しようとした人間は、君が初めてだよ」
ヴァルプスは感覚を確認するように、軽く笑う。
「だが、これは始まりにすぎない。
ボクはまだ君の手駒になったわけじゃないからね」
「わかっている。だからこそ、お互いの思惑を交わしながら進める」
ヴァルプスは紅茶を片手に、そして焼き菓子を口にしながら、満足げに微笑んだ。
「……まあいい。これで仕方なく契約してあげるよ」
「感謝する」
レオンの声には、相手を管理する覚悟と、時間を共に進める意志が滲んでいた。
「初出勤は?」
「明日だ。朝は早い」
「……ボクの寝床は?」
「……それについても、追って相談しよう。
私の管理下において、最も『安全』な場所を用意してある」
地下室には香炉の煙、焼き菓子の甘い匂い、淡い魔力の光が漂う。
互いを縛り、利用し合うための一歩が静かに刻まれた。
――のちに、この『朝は早い』という言葉が、地獄のスケジュールの幕開けになるとは、この時のヴァルプスは知る由もなかった。




