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ゆっくりと進む馬車がラテーレ村を出て少し経った頃。
ルティウスは思い切って、御者台で手綱を握り続けるジェロアへと問い掛ける。
「ね、ジェロアおじさん!」
「⋯ウッ!⋯⋯⋯うん、もういいよ⋯⋯おじさんで⋯」
ついに慣れてきたのか、おじさん呼びのダメージを心に受けながら、ジェロアは少しだけ顔を振り向かせて、ルティウスの言葉が続くのを待った。
「えっと、あの宿のおばさん、さ⋯⋯」
「うん⋯?」
頭の中で整理し、感じたままをルティウスは尋ねる。
「何だか、すごく不安そうにしてるような気がしたんだけど⋯」
その一言を機に、ジェロアはニヤつきがちだった目を僅かに細めた。
「あ~⋯うん。やっぱりサリアさんの子だなぁ。鋭いよねぇ⋯」
そう語る声はいつもと変わらない。だからこそ、続く一言はルティウスへと重くのし掛かる。
「アーダさんには、息子さんがいてね。甥っ子君と近い年頃の子なんだけど⋯⋯五年前、騎士になると言って、グラディオス帝国へ向かったんだ」
「帝国⋯に?」
和やかだった馬車の空気はその瞬間、張り詰めたものへと変わった。
「最初の頃は、よく手紙も来ていたし、帰省してきた事もあったよ。だけど、もう⋯──」
「黙れ」
その先を紡ごうとした声は、唐突にレヴィによって遮られた。
表情を変えず、だがレヴィは金の瞳を僅かに細めて、手綱を握るジェロアの背中へ視線を向けている。
「⋯レヴィ?」
すぐ隣で、ぴたりと身体を触れ合わせているからこそ、ルティウスは勘付いた。
何かを隠している、と。
「⋯⋯どうしたんだよレヴィ、何でそんなに⋯苦しそうなんだ?」
向かい合う位置に座り、レヴィの顔を見ているフィデスとゼフィラも、僅かな機微には気付かない。
御者台に座り、声だけを聞いているジェロアとリーベルも、その変化を感じ取ってはいない。
ルティウスだけが、敏感にレヴィの感情を拾い上げていた。
「⋯⋯⋯ルティ」
直後、レヴィはルティウスの身体を片腕で抱き寄せ、胸元へと凭れさせる。
「聞きたくなければ、すぐに遮っていい⋯」
頭上から降り注ぐ声からは、迷いさえも感じられた。何か良くない報せが語られるのだと、優しく頭を撫でる手の感触がルティウスへと伝えてくる。
こくりと無言のまま頷き、レヴィの言葉を待った。
「⋯⋯⋯お前の故郷は、既に国として機能していない」
慎重に選び抜いて発した一言は、ルティウスの心へと深く突き刺さる。
賑やかだったはずのフィデスとゼフィラも、二日酔いで苦しんでいたはずのジェロアとリーベルも、しんと静まり返る。聞こえてくるのは軽快な蹄の音と、進み続ける馬車のガタガタと揺れる物音だけ。
「⋯⋯内乱の後、圧政と粛清が続き、皇都の民は⋯⋯ほとんどが死んだそうだ」
レヴィの胸元へ凭れ掛かったまま、ルティウスは微動だにしない。静かに俯き、小さな手に触れた白いローブの端を、きつく握り締めていた。
「⋯⋯第二皇子の暴虐によって、国政を担う貴族も大半が消され、事実上⋯⋯帝国は滅んだと言って差し支えない、と」
出会った時から守ると決めた少年は、故郷の奪還を目的の一つとしていた。ルティウスを想うが故に、知り得た帝国の現状を報せるべきかと、レヴィは悩んだ。
抱き寄せたまま触れている細い肩は、ほんの少し撥ねただけで、震える事すらなかった。
「それが……さっき、ウェンティ義姉様と話してた事?」
ゆっくりと吐き出された問い。その声はレヴィが目を見開くほど、落ち着いたものだった。
「…………そうだ」
答えながら、そっとルティウスの頭を抱き寄せる。
もっと取り乱すかと思っていた。泣き喚き、再び心を壊してもおかしくないとすら考え、伝える事を躊躇った。
だがルティウスは気丈にも笑みを浮かべ、レヴィを見上げる。
「ごめんな。レヴィにも、みんなにも…気を、遣わせてたんだよね?」
蒼い瞳を何度か瞬かせて、ぐるりと視線を巡らせる。フィデスとゼフィラも沈痛な面持ちで俯き、口を噤んでいた。あの賑やかな叔父とジェロアさえも沈黙し、自分以外の全員が残酷な真実を知った上で、あえて伏せられていたのだと悟る。
「無理をするな、ルティ」
皇子として生まれ、甘える事も、頼り方も知らなかった少年の精神的な脆さを、レヴィは嫌というほど熟知している。真剣な目で見つめても、しかしルティウスの表情は困ったように微笑んだまま。
そしてレヴィはまだ、ウェンティから聞かされた情報の、最後の一つを伝えていない。ルティウスが悲しむと分かるからこそ、躊躇し続けている。
だが、ルティウスは既に気付いていた。
あまりにも残酷な、現実を。
「…帝国がそんな状態なら、さ………父様も、もう…――」
それは家族を愛するルティウスにとって、最悪の結末。救いたいと願っても、二度と会う事すら叶わない。
「ははっ…もう少し、父様とも……話して、おけば……良かったな…」
明るく話す声は、酷く震えていた。
蒼い瞳はレヴィを見上げて、穏やかに細められている。けれどその眼差しが揺らいでいる事を、レヴィは決して見逃さない。
「強がるな、ルティ」
直後、レヴィは少しだけ強引にルティウスの頭を抱き寄せ、その表情を隠すように両腕で包み込んだ。
「…我慢するな。ここには、今のお前を揶揄ったり、笑うような奴はいない」
優しい声で囁かれ、ルティウスは瞳から大粒を雫を零し始めた。
大きなレヴィの身体にしがみつき、白いローブを強く握り締めて、何度も肩を震わせる。
それでも必死に声を殺し、悲しみを受け止める少年の姿は、この場に集う全員の心を痛めさせていた。
八歳という幼さで、母親の惨殺という悲劇に見舞われた一人の皇子。
僅か十年という歳月を経て、彼は帰るべき故郷と、父親さえも失った。
悲嘆に震える小さな身体と、堪えるような小さな泣き声は、全員が抱く共通の、ひとつの強い想いへと帰結していく。
第二皇子ラディクスを、許してはならない…と。




