0172
「⋯では、私も一つ。これもサルース君から聞いたんですけどね⋯⋯」
予想を裏切るように、口を開いたのはウェンティ。そしてまたもや情報源が兄であると知り、一体どれほど周囲に話し回っていたのかという疑念と、敬愛しているはずの長兄に対する怒りさえも込み上げていた。
「幼い頃のルティウス君は、それはもう寒がりな子だったようでして、冬になると毎夜のようにサルース君のベッドに潜り込んでいたそうです。確か、七つ頃まで続いた⋯と言っていたような?」
「うわぁーっ!」
ウェンティの話を遮るように、唐突に叫び声を上げるルティウス。突然の大声に誰もが驚く中、レヴィだけは冷静に、それまでよりも強い力でルティウスを抱きしめて低く呟いた。
「⋯⋯夜な夜な潜り込んだ、だと?」
語られた話をどこか歪曲させて受け止めるレヴィの機嫌が悪くなっている事は、腕の力から明らかだった。
じわりと感じる痛みも気になってしまうが、しかしルティウスにとってはそれどころではない。
あの兄ならば、その先まで嬉々として語っていてもおかしくない⋯。当時の事をはっきりと覚えているからこそ、幼少期最大の失態を暴露されかねない現状に怯え、表情に焦りを浮かべていた。
「⋯⋯そして朝になると、サルース君の隣には⋯度々大きな地図が描かれていたそうです」
続けて語られた、ルティウスの過去。
ぼかして告げられても、その意味を誰もが理解してしまう。
いっそ気絶させてくれ⋯そんな思いを抱いてしまうほどの絶望と羞恥によって、ルティウスは悲鳴を上げることも出来ず凍りついたように固まっていた。
「⋯ルティ君⋯ッくくくく⋯⋯そんな事も、あったんだねぇ⋯あっはははは!」
酒に酔っているせいか普段よりも笑い上戸になっているフィデスの爆笑する声が響き渡るも、ルティウスは半ば魂を飛ばしているかのように反応が無い。
放心状態な少年の耳には、フィデスだけではなく、リーベルやジェロア、姉妹達の笑い声もどこか遠く聞こえている。
小さな身体を背後からきつく抱きしめていた腕の力も僅かに緩まり、再び小刻みな揺れが伝わってくる。
「⋯⋯ルティ、一度縮んでみろ。中々に面白そうだ」
人の常識など通じるはずもない竜神は背後から、唐突に出来るはずもない事を要求してくる。その声はどこか震えており、笑いを堪えながら言っているのだとすぐに察した。
「縮めないよ!あんたと違うんだから!」
腕の力が緩んだ隙を逃さず、ルティウスは渾身の力で拘束を振り解きレヴィの膝の上から脱出する。そして暴露した張本人であるゼフィラとウェンティの姉妹へと向き直った。
「⋯な、なんて事をバラしてくれてんだよ、二人とも!」
羞恥から顔を赤くしたまま、今にも泣きそうな表情で訴えてみるものの、既に酒が回っている姉妹は動じる事無くどこか楽しげに語った。
「全てはサルース殿下が申された事を、セレーナ姉様から聞いただけでございます」
「そうね。サルース君、あんなに頭が良いのに、ルティウス君の事を話し始めると止まらないものね」
そうして露見されるのは、ルティウスの黒歴史だけではなく兄の弟バカっぷり。和やかに話す姉妹とは打って変わって、兄の残念な一面すらも公にされ複雑な弟心を抱く。ルティウスはその場に崩れ落ちそうになり、テーブルへ手を着き深く項垂れていた。
「⋯⋯兄様、なんて事をっ⋯!」
底なしの絶望と悲愴、そして羞恥に苛まれるルティウスは、やがて自暴自棄になっていく。
手をついたテーブルのすぐ先、項垂れたルティウスの視界には、一体どんな酒が注がれているのかも分からない複数のグラスが映り込む。その中でも目に留まったのは、まるでレヴィの瞳を思わせる透き通った黄金色の液体で満たされたグラス。
酒など、ベラニスで叔父に飲まされた時が初めてであり、現状では最後の経験。けれど心の中に浮かんだある一つの思いは、揺らぐ事なくルティウスを突き動かしていた。
それは、レヴィへの対抗心か、この場を終わらせたいという切実な願いか、あるいは自暴自棄になった結果か。透き通った黄金色の液体が、視界の中で輝いている。
「⋯えっ、ルティ君っ?」
驚くフィデスの声に反応して、全員の視線がルティウスへと集中する。注目を浴びた先に立つルティウスの手には、黄金色の酒が注がれたグラスが握られていた。
「⋯ッ、待てルティ!」
咄嗟に制止しようとするレヴィの手が届くよりも早く、ルティウスは手に持っていたグラスを傾け、一息で酒を流し込んでいた。
「⋯え、甥っ子君⋯⋯マジで?」
絶句するリーベルの横では、たった今飲み干された酒を持参した主であるジェロアが驚愕の表情を浮かべている。
「⋯⋯なぁ、ジェロア⋯ルティウスが今飲んだヤツってよぉ⋯⋯⋯」
恐る恐る尋ねるリーベルの声にゆっくりと頷き、ジェロアはテーブルの上に並んだボトルの一つを持ち上げた。
「これ⋯⋯俺でも、こいつを一気なんて出来ないよ?」
そうした声を聞き届けていたレヴィが、ルティウスの様子を注視する。
誰もが案じる中、しかしルティウスはグラスを割れそうな勢いでテーブルへと置き、傍らに座っているフィデスへと蒼い瞳を向けた。
「⋯フィデスッ!」
「はっ、はいぃ?」
鬼気迫る剣幕で名を呼ばれたフィデスが、声を裏返らせながらも返す。そうして続くのは、思いがけない一言だった。
「⋯俺も飲んだんだから⋯⋯レヴィの恥ずかしい昔話!フィデスなら知ってるんだろ!」
彼らの付き合いが数千という年月に渡る事は既に知っている。ならばと思い至ったのは、レヴィもこの羞恥と絶望の海に沈めてしまえという、少年なりの対抗心だった。
「おいルティ!何を血迷った事を⋯⋯──」
即座にレヴィは阻止するべく動こうとした。けれど背後からレヴィを羽交い締めにし、ニヤニヤと笑みを浮かべるリーベルがレヴィの妨害を封じていた。
「ッ⋯!離せ、リーベル!」
「おっとぉ!ったく、相変わらず馬鹿力だな⋯⋯!可愛い甥っ子があそこまで身体張ってんだ、邪魔はさせねえぜ!」
本気を出せば、リーベルを投げ飛ばす事など造作もない。けれどそうしないのは、この場を荒らしてしまう事を躊躇ったから。そしてリーベルに飲まされた酒が、思っていた以上にレヴィを酔わせ始めていたからだった。
「ンッフ~、なぁるほどね!なぁにがいいかなぁ~?ねっ、レヴィぃ~♪」
「うるさい黙れ!百年は喋るな!」
悪戯好きの本領を覗かせるようにニヤリと笑うフィデスが、リーベルに押さえられているレヴィを見上げてわざとらしく問う。
「私も気になるわね。アール様の同胞たるレヴィさんの過去⋯是非とも、アール様にもお伝えしなければ⋯」
楽しげに果実酒のグラスを傾けるウェンティの声は、レヴィの表情を一変させた。
「アール、だと⋯?奴に伝われば⋯⋯イグニアにも伝わるだろうが!」
カリエス戦ですら見せなかった焦りを滲ませるレヴィが、リーベルの拘束を振り解こうと暴れる。けれどそこにジェロアも加勢した事と、暴れた事でさらに回っていく酒の影響で、レヴィの抵抗は次第に勢いを衰えさせていった。
「⋯たぁしかに~、アールとイグニアは仲良いもんね~!伝わっちゃうね♪」
「⋯黙れ!お前が話さなければ何も起こりはしないっ!」
どうにか阻止しようと言葉でフィデスを諌めるが、しかし緋色の瞳を細める古き友の表情は、愉悦に歪み切っていた。
「得意じゃないお酒をがんばって飲んだルティ君のためにぃ~!ボクがしってるレヴィのとっておき、話しちゃうよぉ~♪」
グラスを掲げて高らかに宣言するフィデスの前で、ルティウスが薄らと笑みを浮かべているのが見えた。ちらりとレヴィへ振り向いて、まるで悪戯が成功した子供のようなしたり顔で笑っていた。
「⋯⋯⋯ルティッ!」
「何がいっかな~?いっぱいあるんだけど、やっぱりアレかなぁ~?」
尚も果実酒を飲み続けるフィデスによってゆったりと語られるのは、今を生きる人間達にとっては神話にも等しい遥か昔の話⋯──。




