膝の上は、ひとつしかない
猫は、納屋の奥にいた。
右の前足の先から血がにじんで、毛が固まっている。野良の灰猫だった。近づくと、低く唸る。暗がりで光る目が「寄るな」と言っていた。
夜明けまでに傷が熱を持ったら、危ない。急ぐのは契約ではなく、手当てだ。
〈灰猫 未契約〉
〈危険度帯:最下位〉
図鑑が教えるのは種族の情報だけで、この猫がどれだけ弱っているのかは出ない。
(関係ない。まず、手当てだ)
後ずさって、トマ爺を呼びに走った。動物の世話にかけては屋敷一番の腕を持つ老人は、納屋の灯りで猫を一目見て、顔を曇らせた。
「こりゃあ……罠にでもかかりましたかな。暴れますぞ、坊ちゃんは離れて」
布を広げた大人の手がゆっくり近づく。猫が爪を振り回し、トマ爺の袖が裂けた。それでも老人は怯まず、猫を布でくるみ、膏薬を塗って、細い布で巻いていく。巻き終わる頃には、猫はぐったりと力を抜いていた。
「しばらくは動かさんことです。……坊ちゃんは、契約を考えとりますな?」
「ううん」
即答した自分に、レクトも少し驚いた。
「契約できるかどうかは、別。治したかっただけ」
トマ爺は目を丸くして、ふっと優しい顔になった。
「そうですか。ならば、お手伝いしましょう」
翌朝から、リプルが納屋の床をきれいにして、チップは入口で見張りに立った。レクトは水と、細かく割った肉を、猫から少し離れた場所に置いて、膝を抱えて座った。
一日目。猫は肉に口をつけなかった。
二日目。半分だけ食べた。水を替えに近づくと、低く唸った。
三日目。唸らなかった。目だけで、じっと睨んでいた。
四日目。壁にもたれてうたた寝していると、気配がした。薄目を開けると、猫が一歩だけ近づいて、膝を前足でちょん、と突いた。
「……起きてるぞ」
猫は何も答えず、くるりと背を向けて隅へ戻った。耳だけが、ぴくぴくしていた。
五日目。猫が、レクトの足元で丸くなった。何も言わなかった。レクトも、何も言わなかった。
六日目の昼、木陰で弁当を広げていると、灰色の影がするりと近づいて、母手製のサンドイッチを一切れ、さらっていった。
「あ、ちょっと!」
猫は梁の上で悠々と食べ始めた。通りがかりに見上げたトマ爺が、呵々と笑う。
「それだけ食えりゃあ、もう大丈夫ですわ」
*
七日目に、傷はすっかり塞がった。
毛が生えそろってみると、驚くほどきれいな猫だった。少し青みがかった灰色の毛並みに、尻尾の先だけが白い。金色に近い瞳は、光の加減で細く尖って見える。
その朝、猫は納屋の入口に座って、レクトを待っていた。
「おはよう」
にゃあ、と短い返事があった。胸がきゅっと詰まる。
(今なら、できるかもしれない。でも、焦るな)
契約は、選ばせるものだ。
「俺は、お前と契約したい。でも、無理にとは言わない。嫌なら断っていい」
猫はじっとレクトを見つめた。それから、一歩、二歩と近づいて、レクトの膝にそっと前足を乗せた。
「……いいのか」
ごろごろ、と喉が鳴る。指先を、猫の額へ。
「〈テイム〉」
緑の光が灯る。光が一瞬だけ揺らぎ、レクトは息を止めた。
ぱちん、と糸がつながった。
〈契約成立〉
〈灰猫 Lv4 HP28/28〉
〈性格:気まぐれ・警戒心強・情に厚い〉
〈適性:影属性(小) 暗所視(高) 反射(高)〉
〈進化分岐:影足猫〉
「影足猫……!」
その下に進化条件がずらりと並ぶ。胸が高鳴ったが、今は後回しだ。
「名前は、ミュウ」
猫が、にゃあ、と答えた。
そのとき、肩の上のチップが、びくっと尻尾を膨らませた。ミュウの金色の目が、すっとチップに向く。チップが、じりじり後ずさる。
「ま、まあまあ。仲間だから」
あいだに入ったのは、リプルだった。のんびり揺れながら、ミュウの鼻先に、ぷるんと触れる。ミュウがぴくっと跳ねて、それから、おそるおそる、リプルをぺろりと舐めた。
「……やっぱり、リプルが一番強いな」
その日の夕食には、母が小さな皿を用意していた。焼いた白身魚。端に、丸い字で札が立ててある。
『ミュウちゃんの席』
「母さん、いつ書いたの」
「契約の瞬間に、あなたの顔を見て」
*
その夜、寝台は戦場になった。
膝の上にはミュウ、胸の上にはチップ、枕元ではリプルがぺたんと平たくなって、レクトの髪を溶かしかけている。
「リプル、髪はやめて! 髪は!」
ぷるん、と離れる。
「膝の上は、ひとつしかないんだ。順番にしよう」
ミュウがじろりと睨む。「私の場所だ」という顔だ。チップは胸の上で毛を逆立てた。「僕のほうが先だった」という顔だ。
結局、一時間かけて場所が決まった。ミュウは膝、チップは胸、リプルは足元。ところがしばらくすると、ミュウがぬっと立ち上がって、チップのいる胸の上へ移動してきた。
「なんで!?」
押し出されたチップが、「きゅ!?」と悲鳴を上げて布団の隙間に転がり落ちる。
笑いが止まらない。腹が震えるたびに、三匹がずるずる滑った。
窓の外で、風が草をなでていく。チップの寝息と、ミュウの喉の音と、リプルのぷるぷるが、混ざっていった。ひとつの毛布の中に、全部がある。
扉の外で、足音が止まる気配があった。ジークだ。そっと覗いて、何かを言いかけて、やめる気配。しばらくして、足音は遠ざかっていった。
あの夜、窓の向こうから小さな鼠がこっちを見ていた。あれから、まだ二ヶ月も経っていないのだ。
(増えたな)
そう思いながら、眠りに落ちた。
*
ミュウと感覚をつなぐのは、チップともリプルとも違う体験だった。
チップは「地面の声」、リプルは「水の手触り」。ミュウは、世界そのものが一段階、遅くなる。
「いくぞ、ミュウ。同調、軽めで」
庭の隅で、ジークが木槍を構えている。レクトは目を閉じ、肩に乗った猫と魔力の糸を結んだ。反射の感覚が流れ込む。ぴんと張った髭の先が、空気の揺れまで拾う。
「よし、来い兄さん!」
「おう、手加減はしてやるぞ!」
ジークの踏み込み。槍の穂先が、花びらが落ちるくらいの速さで見えた。
(見える! 見え――)
見えているのに、身体が動かなかった。足が置いていかれ、レクトは派手に前のめりになる。そこへ槍の柄がぽこんと脇腹に当たった。
「ぐえっ」
「ははははは! 見えてるのに転んでやんの!」
「うるさい、いま分析してるんだ!」
分析した。猫の反射に、人間の足が付いていけない。同調は「感覚」を借りるだけで、動かすのは自分の筋肉なのだ。ミュウが倒れたレクトを見下ろして、ふん、と鼻を鳴らした。「だらしない」とでも言いたげだった。
(見えるだけじゃダメだ。見えたものに、身体が応える練習が要る)
そこから三日、レクトは地獄の特訓をした。足の置き方、体重の抜き方、猫が「ここ」と感じる瞬間の重心を、自分の身体で再現する。倒れては起き上がり、リプルに擦り傷を洗ってもらい、またミュウと同調する。
四日目の朝。
ジークの二連撃。一撃目をかわし、その流れで二撃目の下をくぐった。
「――お?」
槍が空を切り、レクトの背中すれすれで止まる。
「いま……二つ目を、避けたよな?」
「避けました!」
「一度だけだぞ、一度だけ! 次は当てるからな!」
「次は避けない!」
「避けろよ!」
兄弟の笑い声が、朝の庭に響いた。肩の上のミュウが、ほんの少しだけ頭をレクトの頬にこすりつける。「まあまあね」という意味だと、レクトは受け取ることにした。
*
リプルの図鑑の欄が、ある朝、ふっと明るくなっていた。
〈清流スライムへの進化条件〉
〈水膜制御:達成〉
〈水属性素材(水属性魔石・小):1/2〉
〈魔核の安定:未〉
「あと一つ」
水属性魔石は、子供の小遣いでは足りない値段だった。雑貨屋の主人が渋い顔をする。
「欠片だけで、銅貨二十枚」
レクトの貯金は、十三枚。
「ジーク兄さん、貸した銅貨、返してください」
「お前の利子、えげつないんだよ」
「契約です」
ぶつぶつ言いながら兄が銅貨を返し、足りない分は母が「お手伝い賃」として、書庫の整理と引き換えに渡してくれた。三日間、埃まみれの帳簿の山を整理して、ようやく二十枚が揃う。
買い物の日、雑貨屋の主人が包みを手渡してくれた。
「それと、これを。おまけだ。坊ちゃんの鼠とスライムは、うちの店先で評判になってるんでね」
小さな欠片がもう一つ、ついていた。
揃った素材をリプルに与える。魔石の欠片が、水の中でほどけるように消えていく。リプルの身体が、ほんのり青く染まった。
〈水属性素材(水属性魔石・小):達成〉
〈魔核の安定:未〉
「あとは、待つだけ」
声に出すと、不思議なくらい落ち着いていた。桶を日陰に移し、布をかけ、水温は少し低めに。ミュウが気まぐれに覗きにきて、尻尾で水面をぱしゃんと叩いて去っていく。チップは桶の縁に座って、リプルの揺れに合わせて小刻みに頭を振っていた。
進化は、夜明けと同時に始まった。
最初に気づいたのは、チップだった。きゅい、と鳴く声でレクトが目を覚まし、桶に駆け寄る。
水が、光っていた。うっすら青白い、朝霧みたいな光。リプルの輪郭がほどけるように広がって、また集まる。透明だった身体に、水の流れのような模様が走った。桶の中に、小さな川が生まれたみたいだった。
〈水膜スライム → 清流スライム〉
〈進化条件、達成〉
リプルが、ぷるん、と跳ねた。水がばしゃんと桶から飛び出し、レクトの顔にかかる。
「わっぷ! 嬉しいのは分かった!」
〈進化刻印:衝撃受け流し〉
〈効果:衝撃を細かく分散させ、姿勢の崩れを軽減します〉
〈洪水を止める力ではありません〉
「そんな大層なものを期待してないって」
そう言いながら、レクトはにやりと笑った。
「試してみたい。ジーク兄さん!」
あくびをしながら現れた次兄は、話を聞いて一瞬で目が覚めた。
「いいぜ。布を巻いた槍で、肩を軽く押すだけな」
とん。槍の柄が、レクトの肩に当たった。普通ならよろめく強さだ。けれど、足が動かなかった。肩から腰、腰から足へと衝撃が細かく散らされ、地面へ抜けていく。
「……お?」
ジークがもう一度、少し強めに押す。びくともしない。
「なんだこれ。壁を押してる気分だ」
三回目で、さすがにレクトは一歩だけ後ろへ下がった。
「あ、ダメだこれ、限界!」
「ははっ、でも踏ん張れるようになったな! 偉いぞ、リプル!」
リプルが桶の中で得意げに水を跳ねさせた。その水が全部ジークの顔に命中して、庭に笑い声が響いた。
三匹と一人。やれることが、一気に増えた。
笑いが収まった庭で、ふと、厩舎の石に刻まれた丸と線と、三つの点を思い出す。
三匹そろった今なら、あの印の先を追えるかもしれない。
庭の下に、本当に水路はあるのだろうか。




