合図は三つでいい
「違う」
父の木剣が、レクトの肩を軽く打った。
「もう一度」
「はい」
構え、踏み込み、振り下ろす。ひゅ、と風が鳴る。
「違う」
また打たれる。型は教わった通りにやっている。腕の角度も足の幅も、手本を目に焼きつけて真似ている。なのに、何度やっても「違う」としか言われない。
十回目の「違う」を聞いたとき、父が木剣を下ろした。
「何が違うかは、自分で見つけろ。明日の朝までだ」
それだけ言って、背を向ける。見学席の石段で、ジークが声を殺して震えているのに気づいた。
「兄さん、笑ってるでしょ」
「笑ってない」
「肩が震えてる」
「寒いだけだ」
五月の昼間である。
日が傾いてから、レクトは庭の隅でチップを石の上に座らせた。
「頼みがある。俺の素振りを、外から見ていてほしい。見たものを、あとで俺に見せてくれ。視覚共有を、逆向きに使うんだ」
やり方は単純だった。チップを数歩離れた石に座らせて、剣を振る。その視界を借りて、自分の姿を見る。
自分の背中が、そこにあった。
小さな少年が、木剣を振り下ろしている。腕の動きは悪くない。足の置き場も悪くない。けれど、踏み込む瞬間――。
(あれ)
右肩が、ほんのわずか下がっている。
剣が前に出るより先に、右肩が落ちる。そのせいで腕の力が剣先に乗り切らず、振りが一瞬、鈍っていた。
「これか……!」
父の「違う」の中身が、ようやく見えた。
肩を落とさず、腰から剣を出す。そう意識して振り直すと、チップの視界の中で、剣先の描く弧がすっと真っ直ぐになった。三十回、四十回。夕焼けが庭を橙色に染めるころ、肩は一度も落ちなくなっていた。
翌朝。父の前で同じ素振りをすると、ガイゼルの木剣が、ぴたりと止まった。
「……肩の癖が、直ったな」
「チップに外から見てもらいました」
「ほう」
父は、少しだけ首を傾けた。
「私が三年かけて直した癖を、お前は一晩か」
「え、父さんも右肩が?」
「…………」
しばしの沈黙のあと、父は咳払いして背を向けた。
「もう一度だ。構えろ」
後ろでジークが、こそっと囁く。
「いま、父上、耳が赤いぞ」
「聞こえているぞ、ジーク」
「すんません!」
*
長兄のレオニスが大盾を地面に突き立てると、訓練場の空気が一枚、重くなった。
周りを囲む十人の騎士見習いが、一斉に木槍を構える。反対側にも十人。両側から挟んで、盾の兄に殺到する。
衝突音。掛け声。砂煙。
レクトは柵の外から、目を離せなかった。
(兄さんは、動いてない)
攻めているのは二十人のほうなのに、先に息が上がっていくのも二十人のほうだ。レオニスは盾を半歩ずらすだけで、槍の勢いをことごとく逸らしていく。力で受けているのではなく、流れを曲げているのだ。
「まとまりすぎだ」
低い声が飛ぶ。
「守りは、敵を受けるためだけにあるのではない。味方が動ける場所を作る。盾の後ろに余地を残せ」
見習いたちが、はっとして散開した。盾の両脇に回り込む。受けるのではなく、通す。通した先で、槍が待っている。
(場所を、作る)
その言葉を、レクトは手のひらの中で繰り返した。稽古が終わるのを待って、思い切って長兄の袖を引く。
「兄さん。試したいことがあるんです。リプルを、足場の補助に使ってみたい」
「やってみろ」
訓練場の隅の浅い溝に、リプルが薄い水の膜を張った。レクトとチップが同時に溝を飛び越える。着地の瞬間、足元の膜がふわりと衝撃を吸い込んだ。
「軽い!」
二度、三度と繰り返す。先回りしたリプルが足場を作り、そこへ踏み込む。三つの動きが、ひとつの流れになっていく。四度目、調子に乗って溝の端ぎりぎりに着地した。膜が足りなくて、思い切り尻もちをつく。
「いてて」
「今のは、場所が足りなかった。だが」
見下ろす兄の目が、わずかに緩んでいる。
「場所を作ろうとしたのは、合っている」
膝をついたレクトの頭の上に、大きな手が置かれた。剣だこだらけで、驚くほど温かい。
「お前の守りは、お前の仲間だ。大事にしろ」
足元でリプルが、ぷるんと揺れた。
その夜、レクトは育成計画表の隅に、初めて兄の言葉を書き写した。
〈盾の後ろに、余地を残せ〉
何年も先で、この一行が、あの人を救うことになる。そのときの彼はまだ、知らなかった。
*
「チップ、ちょっと右から回って、ええと、やっぱり左、いや」
先日の甲虫戦で、レクトはそれを骨身に染みて学んだ。
叫んでいる間に、戦いは終わっていたのだ。迷って言い直している間に、チップは気を利かせて動いた。運よく助かっただけだ。声での指示は、遅い。戦いの流れは、人間の舌よりずっと速い。
だから、合図を三つに絞ることにした。
進め。足を二回、とん、とん。
止まれ。足を一回、止める。
戻れ。短く「ほい」。
それだけ。
庭の隅で、さっそく稽古を始める。チップとリプルを前に座らせて、レクトが立つ。
「とん、とん」
チップが走る。リプルがゆっくりついていく。
「ほい」
二匹が戻ってくる。
「止まれ!」
チップがぴたりと止まった。調子に乗って連続で出したら、チップが急停止して、後ろから来たリプルが背中に激突した。ぷるん、と跳ね返ったスライムが、不満そうに揺れる。
「ごめん、速すぎた」
一日目は、散々だった。二日目に、チップだけ反応が揃った。三日目、リプルが意味を覚えた。四日目の朝には、連続の指示にも二匹がきちんと動いた。
そして実戦。庭の隅に出た甲虫を相手に、レクトは足を鳴らした。
「とん、とん」
チップが右へ回りこむ。
「ほい」
素早く戻ってリプルの後ろへ。
「とん」
二匹が同時に前へ出る。
言葉が、いらなかった。合図が出た瞬間に、二匹はもう動いている。レクトは自分の剣を振ることだけに集中できた。一歩ごとにチップが予告して、リプルが退路を塞ぐ。そのすきに踏み込んで、首の付け根に刃を通す。
あっけなく、終わった。
「ひとりで戦うより、ずっと楽だ」
きゅいっと鳴くチップ。ぷるんと揺れるリプル。植え込みの陰から見ていたガースが、そっと拍手をしていた。
三つの合図が、世界で一番速い言葉に思えた。
*
〈レクト:Lv10〉
〈契約上限:3〉
朝、目覚めた瞬間に、図鑑の隅に新しい文字が増えていた。
「きた……!」
寝台の上で、思わず拳を握る。昨夜の巡回でチップがこっそり稼いでくれた経験値が、あと少し足りなかった分を埋めたらしい。
(三枠目だ)
動きの速い仲間がほしい。チップは地面、リプルは水。次に加わる誰かが機敏なら、陣形の幅がぐっと広がる。ただし、速ければ誰でもいいわけではない。契約は、相手の一生に関わる。
図鑑の索引を開くと、〈灰猫〉の項が目に入った。
〈夜行性。足音を立てずに動く。縄張り意識が強い〉
〈飼育の目安:寝床は高所。爪とぎ用の木材が必要〉
〈性格傾向:気まぐれ・独立心が強い〉
「気まぐれ、か」
くすくす笑いが漏れた。うちの子たちは、素直なのしかいない。ちょっと癖があるのも、悪くない。
母のところへ行って、頼んだ。
「高い寝床に使える木の箱と、爪とぎ用の古い丸太、少し分けてもらえますか?」
「猫でも飼うの?」
「……まだ決まってないです。でも、用意だけ」
「そう。倉庫に余りがあるわ。ところでレクト、猫は窓際の日向が好きよ」
「えっ。なんで母さん、俺が猫を探してるって」
「あなた、朝からずっと、にやにやしているもの」
頬を押さえたレクトの背後で、ジークが通りすぎながら言った。
「どうせ竜とか言い出すんだろ三男は」
「言いません!」
その夜、倉庫から借りた木箱を窓際に置いて、中に古い布を詰めた。まだ誰も入っていない寝床を、チップとリプルが交互にのぞきこんでいく。
ベッドに入ってしばらくしたころ、納屋のほうから、猫の悲鳴のような声が聞こえた。




