二匹でなら、もう勝てる
「毎朝ですぞ、坊ちゃん。毎朝、この隅っこと格闘して一時間」
厩番のトマ爺が、ブラシ片手にため息をついた。
リプルの就職二件目の試験だ。朝食までに、この苔が落ちるかどうか。
厩舎の石組みの隅には、緑の苔と黒い藻が、年季の入った模様を作っている。水を流しても、こすっても、翌朝にはうっすら顔を出す。厩舎の馬たちは、主の格闘を藁の上から退屈そうに眺めていた。
「ちょっと試してもいい?」
「スライムにですかい? 坊ちゃんのお遊びで」
「遊びじゃなくて、試験」
壁に載せられたリプルが、ぷるぷるしながら広がっていった。透明な膜が苔を包んで、じわじわと呑みこむ。触れた部分は、水に濡れた白い石肌に戻っていく。
三分後。
苔のついていたあたりが、新品みたいに輝いていた。
「な……」
トマ爺は絶句して、ブラシを取り落とした。
「毎朝一時間かけて落としてた汚れが、三分……」
「すごいでしょ、リプル」
得意げにぷるんと揺れたリプルは、隣の石へ移っていく。取り込んだ汚れを体内でほぐし、不要な分だけ外に出す。石そのものは傷つけない。
(万能の治療水じゃない。でも掃除なら完璧だ)
見ていた栗毛の馬が、そっと首を伸ばして、リプルの膜をぺろりと舐めた。リプルがびくっとして縮む。馬は鼻を鳴らして藁へ戻った。
「あ、気に入られた」
「馬は水にうるさいですからな。坊ちゃんのスライムが通った場所は、飲み水まで美味くなるでしょうよ」
トマ爺の目が、いつのまにか潤んでいた。
「いや、すまねえ。わしゃあ、この三十年、毎朝この苔と戦ってきたもんで」
「トマ爺、泣いてる」
「泣いとらん。苔が目に入っただけで」
三つ目の石を拭っているとき、リプルの膜が不意に止まった。
苔の下から現れた石の面に、薄い線が走っていた。丸、直線、三つ並んだ点。
人の手で彫られたものだ。しかも、ずいぶん古い。
「トマ爺。これ、なに?」
「ほう……この厩舎は、わしが来る前からありますが、見たことがありませんな」
老眼鏡を引っぱり出して、トマ爺は石に顔を近づけた。
「昔の子爵様の頃は、この辺りに水を引く溝があったと聞きます。今はふさがってますが。もしかすると、その目印かもしれませんな」
胸が、すこしざわついた。
(庭の下に、水路?)
肩のチップが、前足を石につけて耳をそばだてる。しばらくして、首を横に振った。まだ、はっきり分からないらしい。
それでもレクトは、紙を取り出して刻みの形を写し取った。丸、直線、三つの点。石の位置も書き添える。
「ありがとう、リプル。きれいに出してくれて」
ぷるん、と答えが返る。
地図の白い部分を、自分の足で埋めていく感覚。前世で何より好きだったものが、むくりと起き上がってくるのを感じていた。
*
ばきゃっ、と殻が割れた。
庭の西端の草むらで、石甲虫の幼体が仰向けにひっくり返る。レクトの木剣の先は、首の付け根の継ぎ目にまっすぐ吸い込まれていた。
「一匹目!」
石甲虫は、固い殻が自慢の甲殻虫だ。以前なら遠回りして避けていた相手である。今日は二匹いた。草むらの影で動かない二つの黒い塊を見つけたのは、チップだった。
目標は、日が落ちる前に庭の西端を片付けること。二匹がかりの連携を、実戦で試す日だ。
「チップ、探知続行。リプル、後ろへ」
チップが地面に前足を押しつけた。
(右の虫は首を左へ向けてる。左の虫は、動く気配がない)
「右が先に動く。左は鈍い」
リプルが草の根元をするすると滑って、右の虫の背後へ回りこむ。水の薄い膜がぱあっと広がり、逃げようと後ずさった虫の足がぬるりと滑った。
「今だ!」
踏み込む。殻の継ぎ目。首の付け根。ばきゃっ。
二匹目は、仲間のやられた音に驚いて逆方向に逃げ出した。
「リプル、回りこんで……いや、チップ、右から、ええと、やっぱり左! いや――」
叫んでいる間に、虫は庭木のほうへ駆けていた。迷うレクトの代わりに、チップが気を利かせて進路を塞ぎ、リプルが膜を広げて足を取る。つるりと転んだ背中に、チップが前歯を突き立てた。
「ナイス! ……いや、今のは運がよかっただけだ」
反省は後回しにして、動けなくなった首の付け根へ木剣を落とす。ぱきん。
〈チップ:経験値獲得〉
〈リプル:経験値獲得〉
〈レクト:Lv7→8〉
熱が、身体の底からせり上がる。従魔が得た経験値が、そのまま自分にも入ってくる。仕組みは分かっているのに、身体で受けると、やっぱり笑いが込み上げた。
「ははは! やった! 見たか今の!」
しゃがみ込んで、チップとリプルを一度に抱きしめた。温かい毛と冷たい水が、腕の中で混ざり合う。
少し離れたところで、ガースが鋏を持ったまま固まっていた。口が半開きだった。
「坊ちゃん……あの甲虫、今朝から庭で一番手を焼いてたやつですぜ。それを、鼠とスライムと坊ちゃんで」
ガースは、一度だけ首を振った。
「いや、見事なもんだ。うちの孫にも見せたかった」
その夜、レクトは育成計画表の一番上に大きく書いた。
〈二匹いれば、足し算ではなく、掛け算〉
少し考えて、その下に付け足す。
〈三匹目は、どんな掛け算ができるだろう〉
そして、小さく。
〈声での指示は、遅い。何か考える〉
*
夜の巡回は、チップの仕事になった。
石響鼠は夜行性だ。レクトが眠っているあいだに屋敷の外壁に沿って短い距離を歩き、異常がなければ戻ってくる。行き先は点検済みの範囲だけ。危なければ戦わずに帰る。それだけを、何度も何度も言い含めてある。
その夜、レクトは寝台でうつらうつらしながら、チップの視界を借りていた。月明かりの庭。湿った土の匂い。北の石垣のあたりで、足の裏がぞわりと震えを拾った。
(……多い)
十、二十、もっとだ。小さな足音が草の下で一斉に動いている。灰蟻の行列だろう。チップ一匹で突っこむ数ではない。
チップは足を止めて、ほんの一拍、考えるようにひげを揺らした。それから、くるりと踵を返して全力で走り出した。
草、石、塀の隙間。屋敷の壁の下をくぐり、階段を駆け上がり、廊下を抜けて――そこで、視覚共有が切れた。距離が遠すぎたのだ。
「チップ?」
跳ね起きて、寝台から飛び降りる。足の裏には、もう何も伝わってこない。扉を開けて廊下へ出ると、階段の下の暗がりに、人影が座っていた。
長兄のレオニスだった。夜着に外套を羽織って、壁にもたれて、腕を組んでいる。
「……兄さん」
「眠れないのか」
「チップが、帰ってこなくて」
「そうか」
兄はそれ以上、何も訊かなかった。自分の隣の床を、とん、と叩く。座れ、ということだ。
並んで座る。夜の屋敷は、いろんな音がした。梁が冷えて軋む音。遠くで鳴く夜鳥。厨房の水瓶から垂れる水滴。
「待つのも、仕事だ」
しばらくして、レオニスが言った。
「部隊の連中が前線に出ている間、俺はいつも待っている。何もできない時間が、いちばん長い」
「怖くないんですか」
「怖いさ。だから、座っている」
ぽんぽん、と大きな手が、レクトの背中を叩いた。
一刻ほど経った頃。廊下の奥から、ぱたぱたぱた、と小さな足音がした。暗がりの向こうから、灰色の塊が転がるように走ってきて、レクトの膝に飛び込む。毛に煤と夜露の匂いが残っていた。小さな胸が、せわしなく上下している。
「チップ!」
戦ってはいない。経験値もない。ただ「危ない」と判断して、まっすぐ帰ってきた。それだけの話だ。
「偉いぞ。偉い。ほんとに偉い」
隣でレオニスが、ふ、と短く息を吐いた。それが笑ったのだと気づくまでに、少しかかった。
翌朝、北側を見に行った使用人たちが、まだ小さい灰蟻の巣を見つけた。早く潰せて助かった、と口々に礼を言われる。
「坊ちゃんの鼠は優秀ですなあ」
「うちの相棒です」
胸を張って答えたら、朝食の席で母が小さく笑った。
「今日の夕食、チップの分にチーズを追加しておくわね。ただし、レクトは野菜を残さないこと」
「うっ」
食堂の端で、ジークが手を挙げる。
「母上、兄ちゃんの部屋の巡回も頼めないか。夜中に腹が減ると鼠が」
「それは普通の鼠です」
食卓が、笑いで揺れた。
その笑いが収まったころ、上座の父が、パンを置いて言った。
「レクト。明日の朝は、足音の稽古ではない。剣の型を見る」
食卓が、ふっと静かになる。ジークが「お」と小声を漏らした。
「……はい」
返事をしながら、胸の奥が少し騒いだ。
型を見られる。自分の剣に、何が足りないのか。




