運搬屋の先生と、透明な二匹目
朝食のテーブルの上に、薄い帳簿が置かれた。
表紙には、母の達筆で『小さなテイマーの餌代・暫定』。
「責めているのではないの。月末までに、数字を合わせましょう、という話」
「か、数字」
「あなたが好きでしょう?」
ぐうの音も出なかった。この数日でチーズの減りが倍になったことも、倉庫の灰土石が三袋消えたことも、全部記録されている。日付ごと、品目ごとに、罫線まで引いてあった。母の帳簿は、図鑑よりも正確だ。
見かねたように、ガイゼルがナイフを置いた。
「セリア。それは私から話そう」
父はレクトへ向き直る。
「敷地内の害獣調査を任せる。報酬は出す。ただし仕事だ。見つけたものは記録して、ハンスに報告しろ」
レクトは、椅子から腰を浮かせた。
「俺に、ですか」
「お前に、だ」
翌朝から、屋敷中が調査場になった。
最初の現場は厨房。チップの足裏が、床下で妙な音を拾った。壁の中だ。漆喰を叩くと、他の場所より少し軽い。厨房頭のモルドに頼んで剥がしてもらうと、大量の鼠の巣が転がり出た。
「うわあああ! 道理で最近、小麦袋に穴が!」
巨漢のモルドがオタマを振りかざして飛び跳ねる。その足元で、チップは同族の巣を暴いたことに微塵の罪悪感もない顔で、前足で顔を洗っていた。
「ちょっとチップ、少しは気まずそうな顔をしなさい」
きゅい。
倉庫の壁裏にも、納屋の屋根裏にも、似た巣があった。二日間で合計七ヶ所。場所と規模と推定数を紙に書き留めて、ハンスの机に置く。ハンスは眼鏡を直して一度読み、もう一度最初から読み直した。
「坊ちゃま。これほど精密な報告は、専門の駆除人でも書けません」
「チップが全部教えてくれたんです」
「その相棒を使いこなしておられるのが、坊ちゃまでございます」
三日後の夕方、小さな革袋を渡された。中身は、銅貨が五枚。
手のひらに載せたら、重さがほとんどなかった。
「最初だから、相場の半額にしておいたわ」と母がさらりと言う。
「半額!?」
「次からは、もう少し出すから。それで、次の寝床と素材を自分で選びなさい」
悔しいような嬉しいような気持ちで銅貨を握りしめ、はっと気づく。
(五枚あれば、藁と綿は買える)
初めての給料だ。その夜、自分の金で、自分の相棒のために藁と綿を買った。丸く編んだ藁の巣に綿をふかふかに詰めると、初めて作ったにしては悪くない出来になった。
チップは入るなり三回ぐるぐる回って丸くなり、一秒で寝た。
「……気に入ったか」
返事は寝息だけだった。
育成計画表の隅に、小さく書く。
〈収入:銅貨5。支出:藁と綿(銅貨4)。残り1〉
そこへジークが顔を出した。
「三男、銅貨一枚貸してくれ。賭けで負けた」
「貸す」
「やった」
「利子は、一日一割です」
「えっ」
「母さんの帳簿の影響です」
「お前、ほんとに七歳か」
兄は肩を落として、銅貨一枚の借用書に拇印を押して帰っていった。計画表の隅には、さっそく新しい行が増えた。
〈貸付:銅貨1(ジーク)。利率:一日一割〉
*
ハロルドの手は、とにかく大きかった。
指の節くれが太くて、関節ごとに古い傷痕が走っている。その手が荷運び山羊の首筋に触れるときだけ、驚くほど繊細に動いた。四十過ぎの運搬テイマーは、のんびりした声で言った。
「坊ちゃんが、うちの子たちを見たいと」
「お願いします。邪魔はしません」
「へい。見るだけなら、いくらでも」
屋敷の裏庭に停まった荷馬車には、山羊が二頭、角の生えた兎が一匹。荷を積む作業を、レクトは石の上から眺めていた。
(合図が小さい)
ハロルドはほとんど喋らない。山羊の肩を軽く叩く。喉の奥で短く「ん」と鳴らす。それだけで山羊が一歩さがり、荷の下に入る。命令というより、会話に見えた。
荷を積み終えると、ハロルドは山羊の脚を一本ずつ、手のひらで確かめ始めた。蹄、膝、腱。体温を測るように、ゆっくり撫で上げていく。
そこでふと手を止めて、レクトを振り返った。
「坊ちゃん。この二頭、どっちが今日、疲れてると思いなさる」
試されている。レクトは山羊を二頭並べて見比べた。チップを地面すれすれに降ろし、視覚共有で足元を見る。
左の山羊は、蹄が均等に地面を叩いている。右の山羊は、右前足だけ、置く音が一拍遅い。
「右の子です。右の前足。でも、疲れというより……」
目を凝らす。
「耳。右の耳だけ、朝からずっと後ろに倒してます。歩幅も右だけ狭い。たぶん、痛みを我慢してる」
「……ほう」
ハロルドの目が、すっと細くなる。
「正解ですわ。この子らは、不調を隠す癖がありましてな。耳の向きで読めるようになったのは、うちの弟子でも二年かかった」
耳まで熱くなる。初めて、大人の本職に認められた。
ハロルドは山羊の荷を半分下ろし、もう一頭へ振り分けながら、ぼそぼそと続けた。
「休ませ方にもコツがありますぞ。長距離のあとは、水より先に日陰。撫でる順番は、首、肩、背」
図鑑には載っていない知恵だった。レクトは唾を飲み込んで、手元に食い入った。
「ところで、うちの山羊には名前がないんですわ」
「えっ。二頭とも?」
「へい。一人前に働くまでは、名前をつけん。名前をつけると、情が移りすぎて、無理をさせられんくなる」
「……じゃあ、俺のチップは、もうだめですね。名前も、情も、全部つけちゃった」
「いえいえ」
ハロルドは、とても優しい顔で笑った。
「坊ちゃんのやり方は、坊ちゃんのやり方で、ええ」
その夜、チップに試してみた。首、肩、背。ゆっくり、一定の力で。
チップの身体から、ふっと力が抜けた。ころんと仰向けにひっくり返り、お腹を丸出しにして目をとろんと細める。前足が、空中でゆらゆら揺れた。
「効く……!」
翌朝、出発する荷馬車を見送ると、ハロルドは手綱を持ったまま、ぼそりと言った。
「いつか、坊ちゃんの従魔と、うちの荷を預かりっこしたいもんで」
「俺も、そうしたいです」
車輪の音が地面を伝って、いつまでも足の裏に残っていた。
*
お茶のポットから、ゼリーが出てきた。
「うわあああああ!?」
朝の食堂で、レクトは椅子ごとひっくり返った。ポットの口から、透き通った塊がにゅるっと顔を出し、きょろきょろ辺りを見回している(目はないが、そんな気がした)。
「あら、お茶に何か入っていたかしら」
「母さん、落ち着いて見てる場合じゃない!」
「水膜スライムね。うちの井戸のものでしょう」
〈水膜スライム 未契約〉
〈危険度帯:最下位 主な生息域:水辺・古い水路〉
〈短い生態:水中の汚れを取り込む。温厚。水質に敏感〉
「ポットの水を、きれいにしてたのね。おかげで今朝のお茶は、いつもより美味しいわ」
確かに、湯気の香りがやけに澄んでいる。スライムはポットの縁で、ぷるぷる震えながらこっちを窺っていた。おずおずと、でも逃げない。
契約の前に、好む水質を確かめる。
〈好む水:弱アルカリ・低温・有機物少〉
井戸水に灰をひとつまみ溶かしてバケツに溜めてやると、スライムはするりと降りて縁に載った。水に触れた瞬間、全身がぱあっと明るくなる。
指先を水に浸して、言う。
「契約を、お願いしたい」
ぷるん、と冷たい身体が指に触れた。
「〈テイム〉」
緑の光が水面に広がって、弾けて、静まった。
〈契約成立〉
〈水膜スライム Lv2 HP15/15〉
〈性格:のんびり・きれい好き〉
〈適性:水属性(中) 浄化(高)〉
〈進化分岐:清流スライム〉
「リプル。波紋のリプルだ」
名前を告げると、スライムが全身をぷるっと揺らした。指先から手のひら、腕へと登ってくる。
「ひゃっ、つめたっ」
肩のチップが「きゅい!」と抗議の声を上げた。
「あ、ごめんごめん。チップ、仲良くな」
チップがスライムをのぞきこむ。スライムも、チップを見上げて、ぷるぷるした。
沈黙。ぷるん。
チップの鼻先に、スライムの一部が、ちょん、と触れた。
「きゅっ!?」
チップは弾かれたように飛び退いて、肩の上でぐるぐる三周し、尻尾を二倍に膨らませた。
「ははははは!」
腹を抱えるレクトの足元で、チップはおそるおそる戻ってきて、もう一度だけ鼻先を伸ばした。ぷるん。今度は逃げなかった。
昼過ぎには、二匹は膝の上で仲良く並んで寝ていた。契約枠は、今は二つまで。これで満席だ。
翌朝の食卓で、母がカップを持ったまま、小さくため息をついた。
「ねえ、レクト。今朝のお茶、少し味が戻ってしまったの。リプルが、ポットにいてくれた間は、とても美味しかったのだけれど」
「…………」
「一日一回、ポットのお掃除をお願いできないかしら。もちろん、報酬は出すわ」
母の目は、真剣だった。
「……母さん、リプルを雇うの?」
「ええ。契約書も作りましょうか」
リプルが、ぷるんと誇らしげに揺れた。就職先は、その日のうちに決まった。
ポットが綺麗になるなら、もっと汚いものにも効くのではないか。
レクトは、頭の中で次の「試験」を考え始めていた。




