兄の踏み込みと、研究者への手紙
翌朝の訓練場には、ぴりっとした空気が張りつめていた。
条件は一つ。目を閉じて、ジークの踏み込みを一度でも避けること。
できたら、次兄が父に口添えしてくれる。朝稽古に混ぜてほしい、と。
「つまり、お前は目を閉じて、俺の踏み込みを読むと」
木槍を肩に担いだジークが、半信半疑の顔でレクトを見下ろしている。
「はい。ただし本気は禁止です」
「ほんきって」
「兄さんの本気は、見ても分からないので」
「ほめてんのか、けなしてんのか」
頭をかきながら、ジークは笑った。六つ年上の次兄は、〈雷槍士〉の補正をすでに受け始めている。突きの速さは、屋敷の騎士見習いが相手でも互角という噂だ。そんな兄が、七歳の弟のために手加減を約束してくれた。
訓練場の端には、長兄のレオニスが腕を組んで立っている。その隣に、父ガイゼル。気づいていたが、レクトは視線を向けないようにした。見たら緊張する。
「ルールを確認する」
レオニスが言った。
「木槍の穂先には布を巻く。ジークは一歩目の踏み込みだけ、三割の力。レクトは目を閉じて立つ。当てるな。外すな」
「「はい」」
砂の上に、二人の足が沈む。距離は五歩。
レクトは目を閉じた。
色が消えて、足の裏が広がっていく。砂の粒、固い土、さらに深くの石の気配。遠くで小鳥が降りた震えさえ、ひとつずつ拾えた。
(兄さんの足は……右が前)
呼吸の音。足が砂をつかむ音。重心が、前へ、ごくわずかに傾いていく。
肩の上のチップが合図を送ってくる。
(右足が沈む。次に、左が蹴る――)
どん、と地面が鳴った。
考えるより先に、身体が動いた。半歩ぶん、右へ。
布を巻いた穂先が、さっきまで頭があった場所を、風を切ってすり抜けていく。
目を開けると、ジークが目を丸くして固まっていた。
「……避けた?」
「避けました」
「俺の踏み込みを、目ぇ閉じて?」
「足音で」
「足音で!?」
ジークは槍を取り落としそうになって、慌てて握りなおし、がばっと長兄を振り向く。
「兄貴! 聞いたか!? こいつ、足音で!」
「聞こえている」
レオニスは短く言って、父を横目で見た。
ガイゼルは腕を組んだまま、何も言わなかった。ただ、レクトの顔を長いこと見ていた。その目の奥に、式の日には見えなかった光が、ほんのかすかに灯っている。
「……もう一度だ」
ジークが、にやりと笑う。
「次は、フェイント入れるぞ」
「え。ルールは、一歩目だけって」
「ルールは、さっきのが終わったら更新だ!」
「レオ兄さん!」
「許可する」
「許可するの!?」
今度の足は、速かった。三割どころではない。左に重心を寄せたと思った次の瞬間、右へ切り返す。足音が二つに割れて、レクトの感覚がぶれた。
(待て、足音、二つに分かれて――)
「そこ!」
穂先が脇腹をぽんと突いた。体勢が崩れたところへ足払い。砂に尻もちをつくと、鼻先で穂先がぴたりと止まった。
「連撃は、まだ読めないな!」
「悔しいぃぃ……!」
「ははっ、でも一回は読んだ! すげえぞ、三男!」
兄はレクトの手を引っ張り上げ、砂をはたきながら、大声で父に呼びかけた。
「な、父上! こいつ、おもしろいだろ!」
「ああ」
ガイゼルが、短く答える。
「明日から、朝の稽古に混ざれ」
レクトは顔を上げた。
「……いいんですか」
「足音を聞く耳は、いい。だが聞こえても身体が追いつかなければ、意味がない」
それだけ言って、父は背を向けた。去り際に、広い肩が揺れた気がする。たぶん笑っていた。
肩の上で、チップがぱちぱちと小さな爪を鳴らした。
(最速で行く。この人たちに、追いつく)
*
庭の北の石垣の下には、三日前まで立入禁止の札が立っていた。
札を立てたのは庭師のガース。理由は赤背甲虫で、三匹が棲みついて植え込みを食い荒らし、庭師の脛を二人ぶん青くした。
「いつか」と先送りにしてきた場所だ。朝稽古の許しをもらった今日、その「いつか」が来た。昼までに片付けて、明日の稽古に胸を張って出たい。
「チップ、頼む」
石響鼠の耳が、ぴくりと動く。石垣の根元に前足を押しつけ、目を閉じて数秒、ひげだけを細かく震わせた。それから、きゅい、と短く三回。三匹。
足の裏の世界が、レクトにも流れ込んでくる。手前の二匹は脚をたたんで眠っている。奥の一匹は起きていて、右の前脚に体重を乗せたまま動かない。大きい。たぶん群れの主だ。
(右前脚から踏み込む癖があるな、あいつ)
分かっている突進は、ただの直線だ。
まず手前の二匹。木剣を担ぎ、足音を殺して三歩。眠っている背中の継ぎ目に、体重ごと突き下ろす。ぱきん、と乾いた音がして一匹目が沈黙した。二匹目は目を覚ましたが、起き上がるより早くチップが後ろ脚の関節に噛みついていて、転んだところへ二撃目を叩き込む。
「よし、あと一匹」
調子に乗ったのが、悪かった。
奥の主は、仲間が倒れる音を聞いて、突進の準備をしていた右前脚をそっと引いた。次の瞬間、赤背の巨体が石垣を蹴る。
(右じゃない、左から――!)
足の裏が教えた方向とは逆だった。主は、癖をわざと外してきたのだ。
木剣で受けたが腕ごと弾かれ、背中から芝に転がる。目の前に、赤黒い殻が迫った。
その鼻先に、灰色の塊が飛び込んだ。チップが、触角に噛みついている。甲虫が首を振った隙に、レクトは転がって距離を取った。
(癖を外してくる。ってことは、癖があると知ってるのか)
石垣、芝、三歩先の植え込み。視線を走らせて、閃いた。
「チップ、離れて! 俺が正面に立つ!」
虫が突進の体勢に入る。レクトは半身になり、木剣を下げて、わざと隙だらけの構えで待った。主は、さっき外した癖をもう一度外してくるはずだ。
(左から来る)
足の裏は教えてくれなかった。教えたのは、さっきの経験だった。
赤い殻が、左から滑り込んできた。レクトはその軌道に合わせてひらりと右へ身を引き、突進の通り道に、足を出した。
つまずかせたわけではない。ただ、甲虫は避けたレクトの後ろの石垣に、まっすぐ突っ込んだ。
ごつん。
自慢の頭を、自慢の突進で、自慢の石垣にぶつけたのだから、世話はない。星を飛ばして仰向けにひっくり返った腹に、チップが継ぎ目へ前歯を差し込んだ。それで終わりだった。
〈レクト:Lv5→6〉
芝の上にぺたんと座り込む。
「……生意気な虫だったな」
チップが得意げに胸を張った。飛びかかってくれなければ、危なかった。頭を撫でると、ひげがくすぐったそうに揺れた。
昼食の席は、さっそく話題になった。
「聞いたぞ三男。北の石垣の赤背、お前が片付けたんだって?」
「え、もう噂に?」
「庭師のガースが泣いて喜んでた」
焼き芋を頬張るジークの隣で、母がスープをすすった。
「ひと言ぐらい、行く前に言いなさい。怪我は?」
「ないです。ちょっと転んだだけで」
「転んだの?」
「あ」
母の眉が、ほんの少し上がった。父は無言でパンを千切っている。ただ、おかわりのスープを取るとき、視線が一瞬、レクトの肘の擦り傷のほうへ流れた。
食後、部屋の前に薬箱が置かれていた。誰が置いたのかは、聞かなくても分かった。
*
午後は、台車に積まれた本が十二冊、書庫に待っていた。
「坊ちゃま。魔物の進化に関する書物をご所望とのことでしたので。読みやすい順に並べてございます」
「ハンス、ありがとう。でも俺、七歳なんだけど」
「ご安心を」
窓の光に埃が金色に舞っている。床に座り込み、一番上の一冊を開いた。背表紙の箔押しは、イネス・クロイツ。
頁をめくるたび、筆者が頭を抱えている様子が行間ににじんでいた。
〈これらの条件のうち、いずれが当該個体にとっての律速であるかを、外部から判定することは困難である〉
足りないものが何か、誰にも分からない。この世界のテイマーたちは、そうやって何十年も、暗闇の中で壁を叩いてきたのだ。自分は、たまたまその壁に窓がついていただけで。
(この人たちが候補を全部洗い出してくれたから、俺は図鑑の数字を読めるんだ)
そこへ、頭上から声が降ってきた。
「うわ、字だらけ。三男、これ全部読むのか?」
回廊の手すりから、ジークが逆さまにぶら下がっていた。
「兄さん、落ちるよ」
「落ちねえよ。……『りっそく』? 何それ、うまいのか?」
「全然うまくない」
「じゃあ兄ちゃんはいいや。槍の本ならあるぞ」
笑いながら去っていく足音を聞いて、もう一度、頁を繰る。赤い線が一本、頁の端に引かれていた。
〈魔核の安定には個体ごとの「最適な静止時間」が存在すると考えられるが、定量化には至っていない〉
(……あ)
あの日が、頭に浮かんだ。ジークと並んで日が暮れるまで座っていた、長い一日。魔核の安定が78%から96%まで上がり、夜中に百になった。
図鑑は百分率で教えてくれたけれど、「何時間」かは数えていなかった。いや、思い出せる。朝から夜中まで、およそ十一時間。
白紙を一枚引き抜いて、鉛筆を走らせる。
〈石響鼠チップ。進化前の静止時間:およそ十一時間。安定率:78→96→100〉
たった一行。けれど、この赤線の空白を埋める、世界で一件目のデータだ。
(これを百件にしたら、誰かの役に立つかもしれない)
気づけば、窓の光が傾いていた。夕食に遅れたレクトを、母が書庫まで迎えにきた。扉を開けた母は、本の山の向こうで、半分眠りかけたまま鉛筆を握っている息子を見つけて、言葉を飲んだ。
そっと近づき、紙を覗き込む。日付、時刻、数値。母は帳簿係だ。数字の並び方を見れば、その人が真面目か、いい加減かが分かる。
「……ハンス」
「はい、奥様」
「これを、王立研究院へ送る手紙に添えてあげて。差出人はレクトの名前で」
「畏まりました。旦那様のご許可は」
「私から取っておきます」
翌朝、父は手紙を三秒で読み、署名だけして返してくれた。
「……長い」
「すみません」
「次は、結論を先に書け」
レクトは大きく頷いた。本当に、いい忠告だった。
手紙は、その日のうちに王都へ向かう荷に載った。
その夜、廊下の向こうの母の部屋に、遅くまで灯りがともっていた。ぱら、ぱら、と帳簿をめくる音がする。
(……チーズの減り、絶対に見られてる)
返事が来る前に、請求書のほうが先に来るかもしれない。




