最短三週間、石響鼠への進化
〈魔核の安定:78%〉
朝一番に確認した数字は、昨日より二つしか増えていなかった。
「……遅い」
寝床をのぞきこむと、チップは丸くなったまま、背中だけがゆっくり上下していた。起きている。けれど、いつもみたいに肩へ跳び乗ってこない。
〈魔核は成長の負荷が溜まると不安定になります。休息により安定します〉
図鑑の補足は、それだけ書いている。
レクトは唇を噛んだ。今日こそ一気に進化まで持っていけると思っていたのだ。狩りに行けばレベルは伸びる。魔核だって、強い刺激を与えればそのうち収まるはず。前世のゲームなら、迷わずそうしていた。
でも、チップの黒い目が、じっとこっちを見ている。
(……「行こう」って言ったら、お前は行くんだろうな。体調が悪くても)
それが、分かってしまった。
「今日は、なし」
自分の口から出た言葉に、自分で驚いた。
「狩りは中止。寝よう、チップ」
窓際の日当たりのいい特等席に寝床を移し、薄い布を二重に敷く。水は少しぬるめに、餌は小さく割って。それから、はたと気づいた。
(あれ。俺、今日、何するんだ?)
育成計画表が、真っ白になっていた。
狩り、素材、練習、観察。毎日びっしり書き込んでいた予定を、全部消したのだ。睡眠の欄はいつも最小限で、母に見つかるたび赤線を引かれて戻ってくる。その赤線すら、今日はない。
「……暇、だな」
つぶやいたとたん、チップがうっすら目を開けて、レクトの指先に前足をちょこんと乗せた。
そこにいろ、と言われた気がして、そのまま座っていた。
窓の外では庭師のガースが枝を切る音がしている。雲がゆっくり流れる。チップの寝息に合わせて、自分の呼吸まで少しずつ遅くなっていく。
昼下がり、次兄のジークが部屋にひょっこり顔を出した。
「おーい三男! 稽古しようぜ……って、うお、静かだな。鼠、死んでないよな!?」
「しーっ! 寝てるんだよ」
「お、おう。悪い」
声を落としたジークは、そろりと入ってきて寝床をのぞきこみ、不思議そうにレクトの顔を見た。
「お前、今日、顔ゆるんでないか?」
「そう?」
「ああ。前はずっと『次』『次』って顔してた」
返事に困って頬をかく。
「待つのも、育成なんだ」
「ふうん。よく分からんが、兄ちゃんは、そういうの嫌いじゃねえぞ」
ジークはがしがし頭をかいて、窓際の床にあぐらをかいた。そのまま日が傾くまで二人並んで黙っていた。次兄は三回あくびをして、一回居眠りをして、「寝てたぞ」と指摘されて「寝てない」と言い張った。
夕食後、セリアが部屋に来て、黙って机の上の計画表を取り上げた。
「あら、白紙」
「あ、いえ、これは」
「いい日ね」
母は紙を畳んで、小さく笑った。睡眠の欄に赤線を引かれなかったのは、これが初めてだった。
夜。
〈魔核の安定:96%〉
あと、ほんの少し。
レクトは寝間着のまま、チップの寝床の横に毛布を持ち込んだ。眠らなくていい。ただ、そばにいたかった。灯りを落とすと、暗い部屋に小さな寝息だけが続いた。
時間の感覚が消えかけたころ。
チップの小さな心臓が、とくん、とひとつ大きく鳴った。
レクトは、目を開けた。
*
光が、部屋に満ちた。
派手な閃光ではなかった。月明かりより濃い、灰がかった白。ろうそくの炎が揺れるように、それは小さな身体からにじみ出して、寝床の布の端まで広がっていく。
息を詰めたまま、レクトは手を伸ばしかけて、やめた。邪魔をしてはいけない。
光の中で、輪郭が少しずつ変わっていく。毛並みの灰色に、石英のような白い縞が走る。丸かった耳がひと回り大きく、貝殻のような形に伸びる。足先の爪は太く短く、土を踏むのにちょうどいい形へ整っていった。尻尾が、ぴん、と立つ。
やがて、光がふっと収まった。
〈灰鼠 → 石響鼠〉
〈進化条件、達成〉
静かな部屋に、小さな足音が響く。
ぱたぱたぱた。
寝床から這い出したチップが、よたよたとレクトの膝に登ってきた。いつもと同じ黒い目。けれど見上げた顔つきが、ほんの少しだけ、凛々しく見えた。
「……おはよう」
きゅい、と短い返事。
その瞬間、胸の奥に何かがぽとんと落ちた。
〈進化刻印:接地感知〉
〈従魔の進化特性が主人に刻まれました〉
〈効果:足裏から地面の振動を読み取る力が向上します〉
「ほんとに、俺にも来るのか……」
半信半疑のまま、素足で床に降りた。ひやりとした板の感触。立ち上がって、目を閉じる。
――聞こえた。
廊下の向こうを、誰かが歩いている。重たい足取り。左足を引きずる癖。
(家令のハンスだ)
その奥、厨房のほうから、とん、とん、と小刻みな軽いリズム。母が夜食のパン生地をこねる、足踏みの音。
さらに奥。屋敷の外、遠い訓練場の砂地で、ざん、ざん、ざん、と鋭く土を蹴る足音。
「三歩……いや四歩の踏み込み。この力強さ。ジークだ」
思わず笑いが漏れた。耳で聞いているのではない。足の裏から骨を伝って、頭の奥にまで届いている。チップが感じていた地面の世界が、そのまま自分の中に流れ込んできたのだ。
「すごいぞ、チップ!」
抱き上げて、その場でくるくる回った。チップが「きゅいー!」と悲鳴を上げて爪を立てる。
「ごめんごめん、嬉しくて!」
勢いのまま部屋を飛び出した。裸足で廊下を駆け、階段を下り、厨房の入口でぴたりと止まる。
「母さん!」
「あら、どうしたの、こんな時間に」
「いま、右足に体重をかけて、左でこねてたでしょう。いつもより、一歩ぶんゆっくり!」
セリアが、手を止めた。
「……夜食のパンは、少し寝かせたかったのよ。どうして分かったの?」
「足音で!」
「足音?」
「あと、ハンスは今日、左足に靴擦れがある! たぶん!」
そのとき、廊下の角から、白髪の家令ハンスが顔を出した。咳払いをひとつして、いつもの平坦な声で告げる。
「坊ちゃま。……靴擦れは、確かにございます」
静寂。
それから、母の笑い声が厨房に弾けた。
「ふふっ、ふふふふ! あなたって子は。ほら、おいで。朝まで待てないのなら、せめて温かいミルクでも飲みましょう」
寝間着の少年と、肩に乗った小さな鼠と、笑いをこらえる家令と、粉だらけの手で頭を撫でてくれる母。
遠い訓練場で、また足音が三歩、土を蹴った。
(今のは、ちょっと焦ってるな。ジーク)
レクトはミルクの湯気の向こうで、にっと笑った。
カップを傾けかけた手が、ふいに止まった。
足の裏が、別の音を拾っていた。
訓練場ではない。もっと近い。屋敷の北、家畜小屋のほうへ続く畑道だ。軽くて、速くて、四つ足の足音。ばらばらに走る野犬の足とは違う。一つ、二つ、三つ、四つ、五つ。歩幅が揃っている。
「……母さん。ハンス」
声が、自然に低くなった。
「北の畑道を、五つ。四つ足で、揃って来てる。走ってない。獲物の位置を測ってる足だ。家畜小屋まで、たぶん百歩もない」
セリアの笑顔が消えた。ハンスは何も聞き返さなかった。ただ、「失礼いたします」と一礼して、靴擦れの足とは思えない速さで廊下を戻っていった。
数十を数える間もなかった。
遠い訓練場の足音が、止まった。
跳ねる音ではない。その脇にあった、ゆっくりと重い足音――動かなかったはずの足音が、たった一歩で土を割り、北へ向かって駆けた。地面が、低く唸った。その後ろを、ジークの軽い足が慌てて追う。
(……父さんだ)
行かなかった。レクトは椅子から立ち上がらずに、チップの背に手を置いたまま、足の裏だけで見ていた。
重い足音が柵の手前で止まる。五つの軽い足音が、一斉に向きを変える。散らばる。遠ざかる。先に気づかれた群れは、獲物の匂いより人間の気配を選んだらしい。畑道から、足音が一つずつ消えていった。
半刻もしないうちに、ジークが息を切らせて厨房に飛び込んできた。
「いたぞ! 灰牙狼の幼体の群れ、五頭! 小屋の羊を狙ってた! 親父が柵の前に立っただけで逃げやがった! ……おい三男、お前、なんで分かった?」
「足音で」
「足音?」
「うん。それより、羊は?」
「無事だ。一頭も欠けてねえ」
「よかった」
肩の力が抜けた。膝の上のチップは、騒ぎの間もずっと眠そうに目を細めていた。進化したばかりの身体は、休ませなければいけない。だから今夜は、これでいい。
ジークは目を丸くしたまま、まじまじと弟の足元を見下ろして、それからにやりと笑った。
「お前、今のでもう、うちの見張り番より早ぇぞ。……けどな、聞こえるのと避けられるのは別だ。明日の朝、訓練場で見せろ。目ぇ閉じて、俺の踏み込みを避けてみろ」
厨房の戸口に、いつの間にか、大きな影が立っていた。
父ガイゼルだった。外套には夜露がついている。何も言わず、ただレクトの素足と、膝の上の小さな鼠を、順番に見た。
長い沈黙のあと、父は一言だけ言った。
「……五つ、と言ったな」
「はい」
「正しい」
それだけ告げて、背を向けた。
足音が、ゆっくり遠ざかっていく。重く、静かで、ほんの少しだけ、いつもより軽かった。
レクトはカップを持つ手に、ぎゅっと力を込めた。勝ったわけでも、戦ったわけでもない。ただ、聞こえただけだ。
それでも、胸の奥が、じんわり熱かった。
(待ってよかった)
膝の上で、チップが、きゅい、と寝言を言った。




