経験値は、俺にも入る
初めての狩場は、庭の東側と決めた。
朝のうちに庭師のガースが見回りを済ませた区画だ。風通しがよくて、逃げ道が三つある。そこまで考えてから、レクトは「いや、考えすぎだろ」と自分に突っ込み、子供用の木剣を握りなおした。
「チップ、準備はいいか?」
肩の上で、灰鼠が尻尾をぱしんと鳴らした。
標的は、芝の端に一匹だけ孤立している針蟻。子猫ほどの大きさがあり、尻の針に刺されると三日は腫れる。庭ではお馴染みの害虫で、Lv2。Lv1の自分でも、チップと組めば何とかなる相手のはずだ。
〈針蟻 Lv2 HP18/18〉
「よし。チップは左から。俺は右」
囁いた瞬間、灰色の影が肩から飛び降りて、芝の上をするりと滑った。速い。蟻の側面に回り込むその動きに、迷いがない。
蟻が気づく。顎をがちがち鳴らしてチップのほうへ向きを変えた、その背中へ――。
「そこだっ!」
レクトは木剣を振りかぶって、全力で振り下ろした。
がつん、と鈍い音。腕にしびれが走る。蟻の甲殻は思ったより固い。けれど怯ませるには十分だった。蟻が身をよじって尻の針を突き上げる。レクトは慌てて飛びのき、針が袖をかすめて空を切った。
(あっぶな!)
心臓が跳ねる。笑える余裕はない。でも、前世の攻略の鉄則は、こういう時こそ思い出すものだ。最初の戦闘は「安全に削る」。欲張らない。
「チップ、足! 後ろ足を狙え!」
灰色の小さな牙が、蟻の後ろ脚の関節にがぶりと食い込んだ。蟻が暴れる。針があちこちに空を切る。その間合いの外から、レクトはもう一度、木剣を叩き込んだ。二度、三度。蟻の動きが鈍る。四度目で、チップが関節の隙間にぐっと潜り込み、ぱき、と小さな音がした。
蟻が、動かなくなった。
荒い息だけが、芝の上に残る。
腕がじんじんしている。握りしめていた木剣の柄が、汗でぬるぬるだった。チップが死骸から飛び降りて、レクトの肩に駆け戻ってくる。
その瞬間だった。
――ぽん。
身体の中心で、小さな鐘が鳴った。
熱いものが胸の奥から指先まで駆け抜けて、思わず息が止まる。
〈チップ:経験値獲得 Lv3→4〉
〈主人にも同量の経験値が還元されます〉
〈レクト:Lv1→2〉
「……っ!?」
木剣が、軽い。
さっきまで両手でやっと振っていたものが、片手でひょいと持ち上がる。足もだ。踏み込みが、半歩ぶん伸びる。呼吸が深くなる。たったLv1つ上がっただけで、これか。
「チップ! 聞いたか! お前の経験値が、俺にも入った!」
当の鼠は、きょとんと首をかしげている。
知識としては知っていた。従魔の得た経験値は、主人にも入る。ただ教本には「おまけ程度」と書いてあった。教本がそう書くのは、後ろで指示するだけの主人が多いからだろう。一緒に前へ出た身には、おまけどころじゃない。蟻一匹で、Lv1から2。自分ひとりで同じ蟻を倒していたら、ここまでは伸びなかった。
(従魔が強くなれば、その分だけ俺も強くなる。つまり)
(二重取りだ、これ!)
「よーし、次の一匹行くぞ!」
勇んで歩き出したその足を、肩の上のチップの前足が、ぺしぺし叩いて止めた。
見ると、黒い目がじっとこちらを見ている。小さな胸が、せわしなく上下していた。
「……あ」
そうだ。さっきの戦いで、チップは全力で走って、噛みついて、跳び回った。息を切らしている。このまま次へ行けば、足がもつれる。
「悪い。今日はここまでにしよう」
レクトは蟻を丁寧に処理して、庭の隅の石の下に埋めた。チップには水と、約束のチーズ。自分も井戸の冷たい水をがぶ飲みして、芝の上に大の字にひっくり返った。
空が、めちゃくちゃ青い。
通りがかった庭師のガースが、鋏を持ったまま足を止めて言った。
「坊ちゃん、東の針蟻を、おひとりで?」
「鼠と二人で」
「そりゃあ……旦那様に報告しておきますぜ」
「やめて、まだ内緒にしてて!」
ガースが笑いながら去っていく。レクトは空を見上げたまま、肩の相棒に囁いた。
「最速で行こうぜ、チップ。でも、無理はしない」
すり、と首筋に毛の感触がして、チップが頬の横に丸くなる。
寝転んだ地面から、小さな足音が伝わってきた。庭を歩くガースの、土を踏む音。チップはそれを、頬をつけたまま、ずっと聞いていたらしい。
効率厨としては、これ以上ない朗報だった。
*
最初の週。レクトは毎朝、庭の点検済みの区画で蟻や小さな甲虫を狩り、昼は日陰でチップの様子を見守り、夜は早く寝た。早寝は母との約束で、破ると朝食のデザートが没収される。
二週目に入って、視覚共有ができるようになった。
「いくぞ、チップ。見せてくれ」
目を閉じて、肩の上の気配に意識を重ねる。契約の糸をたどるように、意識の端を、そっと引く。
ぱっと視界が切り替わった。
低い。世界が、とにかく低い。足、足、足。床の木目。パンくず。見上げるほど巨大な椅子の脚。それから、少し離れたところに――。
(……あれ、俺だ)
自分が、遠くで目を閉じて突っ立っている。こうして外から見ると、思った以上に間抜けな立ち姿だった。
調子に乗って耳も共有してみる。床板の軋みが一本ずつ聞こえた。次に鼻。そして台所から、焼きたてのパンの匂いが猛烈な勢いで押し寄せてきて、本体の腹が盛大に鳴った。
「ぶはっ」
通りかかった母が吹き出す。
「何をしているの、レクト」
「ちょっとチップと、あの、会話を」
「パンの匂いで?」
見抜かれていた。
三週目の入口で、素材の問題が立ちはだかった。図鑑にはこう出ている。
〈地属性素材(微量):0/3〉
〈適合:灰土石の粉(粒径の細かいもの)〉
「灰土石の、粉」
聞き慣れない名前だった。ひとしきり頭をひねってから、レクトは大人に聞くことにした。
「ああ、あるわよ。畑の土を改良するのに使う鉱石ね。倉庫にあるはず」
帳簿を預かる母セリアは、倉庫の棚の中身を空で覚えている。連れていかれた倉庫では、白髪の職人ダンカンが、石臼をごりごり回して何かを粉にしていた。
「坊ちゃん、灰土石ですかい。また渋いものを」
「チップに食べさせたいんです」
「……ほう」
ダンカンの目が、すっと細くなった。
「魔物に鉱石を食わせるのは、量を間違えりゃ腹を壊す。細かく砕きすぎても、粗すぎても駄目だ。教えてやるから、ちゃんと見ときな」
粒の揃え方、ひとつまみの量。本には載っていない細かな知恵が、ぽんぽん出てくる。三回に分けて少しずつ、がチップには最適らしい。
「いい目をしなさる、坊ちゃんは。教わったことを、自分の中でちゃんと組み直してる」
耳まで赤くなった。
三日かけて、粉を少しずつ与えた。二回目のあとで元気がなくなったときは、狩りを切り上げて毛布をかけた。
図鑑が更新される。
〈基礎Lv:5 現在5 達成〉
〈振動感知の練習:10/10 達成〉
〈地属性素材(微量):3/3 達成〉
〈魔核の安定:未〉
「あと、ひとつ」
声に出すと、胸の鼓動が速くなる。
残る条件は、魔核の安定。素材でも、狩りでも埋められない最後の一枠だった。




