武門の家の三男、鼠と契約する
「職業――〈テイマー〉」
神官の声が、聖堂の高い天井に吸い込まれていった。
水晶玉に乗せた七歳の手のひらの下で、淡い緑の光がふわりと灯り、そして消える。剣士なら赤、魔術師なら青、騎士なら白銀。緑は魔物使いの色だ。
静まり返っていた聖堂に、ひそひそ声が波みたいに広がっていく。
「ヴァルディス子爵のご三男が、テイマー……」
「ほう、運搬屋ですか」
「いやはや、よりにもよって武門の家に」
最前列の長椅子では、長兄レオニスが目を閉じていた。次兄ジークは「あっ」の形に口を開けたまま固まっている。母セリアは膝の上で両手をぎゅっと握りしめ、その隣、一番奥の席で腕を組む父、ガイゼル・ヴァルディス子爵は、石像みたいに動かない。
下級騎士の家から戦功だけで子爵まで駆け上がった〈烈剣士〉。その三男が、剣も魔法も持たない職業を引いた。聖堂中の視線が、哀れみ半分、好奇心半分でレクトの背中に刺さっている。
(あー……うん。こうなるよな)
当のレクトはといえば、水晶に手を置いたまま、妙に落ち着いていた。
怖くないわけじゃない。ただ、頭の半分が別のことで大忙しだったのだ。
(テイマーって、つまり育成枠だよな? 魔物を捕まえて、育てて、進化させて……)
前世の自分は、育成ゲームの攻略が何より好きな人間だった。二十代の半ばまで、いったい何百時間を「最短ルートの検証」に溶かしたことか。レベル上げの効率表を自作し、周回ルートを秒単位で詰め、攻略ノートが三冊目に突入したところで――まあ、その先は覚えていない。覚えている必要もない。
大事なのは、この世界でも「戦場では不遇職」と呼ばれているこのテイマーが、前世の自分にとっては、最高に楽しそうなおもちゃ箱だということだった。
胸の奥が、勝手にどくどくと熱くなってくる。
そのとき、後ろの席から、場違いに陽気な笑い声が響いた。
「はははは! いやあ子爵殿もお気の毒に! テイマーでは戦列に立つこともままならん。せいぜい荷駄を引く獣の世話係ですな!」
来賓席の騎士爵ドルクスだった。腹の突き出た大柄な男で、ガイゼルの出世を妬んでいることは領内の誰もが知っている。
聖堂の空気が、ぴしりと凍った。ジークが椅子から腰を浮かせかけ、レオニスが無言で弟の襟首をつかんで引き戻す。
ガイゼルが、ゆっくりと振り返った。
怒鳴らない。声を張りもしない。ただ、よく通る低い声で言った。
「ドルクス殿」
「は、はっ?」
「荷駄を引く獣の世話係は、軍の補給を握っている。補給が止まった軍がどうなるか、貴殿は北方の戦でよくご存じのはずだ」
ドルクスの笑みが、顔に貼りついたまま引きつった。
「飯抜きで戦えると言うなら、次の遠征は貴殿の隊だけ糧食なしで出そう。その覚悟があるなら、いくらでも笑われるがいい」
誰かが、ぶほっと咳き込んだ。ジークが両手で口を押さえて、肩をぶるぶる震わせている。ドルクスは真っ赤になって何か言いかけ、結局、何も言えないまま座り直した。
(父さん、かっこよ……)
レクトは心の中で盛大に拍手した。
式が終わって、帰りの馬車。窓の外を向いたままのガイゼルが、ぼそりと言った。
「戦場に出る道だけが、役目ではない」
短い言葉だった。
「お前に合う道を探す。剣も、学問も、領地の仕事も、全部見てから決めればいい。急ぐな」
落胆がないはずはなかった。武門の家の三男として、父がどんな未来を思い描いていたか、レクトにも分かる。それでも父の声には、息子を切り捨てる響きがひとかけらもなかった。母が「あなた、もう少し言い方というものが」と小声でたしなめ、ガイゼルが「む」と黙る。その横でジークが耐えきれずに吹き出して、レオニスに後頭部をはたかれた。
「大丈夫です、父さん」
レクトは笑った。
「俺、テイマー、わりと楽しみです」
その夜。
自室の窓辺で、レクトは月明かりの庭をぼんやり眺めていた。晩餐のあと、母が「少しだけよ」と言って温かいミルクを持ってきてくれた。カップが空になるころ、視界の端で、何かが動いた。
庭の隅の薪置き場。積まれた薪の影を、小さな灰色の塊がちょろちょろと走っている。
鼠だ。
その上に、半透明の光の枠が、すっと浮かび上がった。
〈灰鼠 未契約〉
〈危険度帯:最下位 主な生息域:人里・倉庫周辺〉
〈短い生態:雑食。夜行性。臆病だが、慣れた相手には肩に乗る〉
レクトは、息を止めた。
枠の隅で、見慣れない文字が小さく瞬いている。
〈魔物図鑑〉
(……固有技能、ってやつか?)
職業の水晶は、固有技能までは映さない。本人だけに開く、自分だけの能力。そういう人間がこの世に何人かいる、とは聞いていた。まさか自分がそうだとは。
試しに、枠の隅へ意識を向けてみる。説明文が、するりと展開した。
〈契約後、個体の進化条件を表示します〉
〈――この個体に、不足している要素〉
「不足している、要素」
声に出してみて、背中がぞくりとした。
つまりこういうことだ。この小さな鼠が、いつ、何を足せば、何に進化するのか。他のテイマーが何年もかけて手探りするその部分が、答え合わせ付きで見える。ただし見えるのは「何が足りないか」までだ。足りないものをどう手に入れるかは、自分の足で探すしかない。
前世の自分なら、泣いて喜ぶ攻略本だ。
レクトは窓枠に手をかけて身を乗り出した。胸の中で、何かが、かちりと音を立てて噛み合う。
(最短ルート、組めるぞ。これ)
七歳の少年の口元が、吊り上がっていく。
薪の影の灰鼠が、ふと顔を上げて、こちらを向いた。
小さな黒い目と、目が合った。
*
翌朝、レクトは朝食を三分で終わらせた。
「ごちそうさまでした!」
「待ちなさい。パンを持ったまま走らない」
「はい母さん! 行ってきます!」
「どこへ」
「庭です!」
セリアは額を押さえて、隣の席のガイゼルを見た。ガイゼルは書類の陰で、口の端をほんのわずかに上げていた。
まずは、計画を立てる。
庭の薪置き場の裏にしゃがみ込み、レクトは頭の中で手順を確認した。契約魔法の基本は、書庫の本で読んである。相手の同意が要る。力ずくで結んだ契約は、結ぶ前に魔物が壊れるか、結んだ後に主人が噛まれるかのどちらかで、教本にはそういう失敗談が山ほど載っていた。
(まず、捕まえようとしない。向こうから来てもらう)
……と、頭では分かっていたのだ。
最初の十分間のことは、あまり思い出したくない。
薪の隙間から灰色の背中が見えた瞬間、勢いよく飛びかかったレクトは、鼠に華麗に避けられて、薪の山に顔から突っ込んだ。薪が崩れて、頭の上に降ってきた。鼠は三メートル先の塀の上から、呆れたようにこっちを見ていた。
「……そうだよな。そうなるよな」
鼻の頭をこすりながら、立ち上がる。前世でも、野生の動物を追い回してうまくいった試しはない。
ポケットから、朝食のときにこっそり取っておいたチーズのかけらを出した。小指の先ほどのやつだ。それを自分の膝の前、五歩ぶんの距離に置いて、あとは動かない。
三分。五分。十分。
しびれた足を、蟻が登ってくる。この世界の蟻も遠慮がない。
(前世のキャンプで、こういう我慢強さは養ったはずなんだ……)
灰鼠のひげが、ぴくりと動いた。
薪の影から鼻先がそろそろと出る。チーズのにおいを確かめ、レクトを見て、また引っ込み、また出て、ついにかけらをくわえて、すばやく後ろへ戻った。
(逃げてない。よし)
食べ終えた鼠が、薪の端から顔だけ出して、じっとこっちを見ている。
「……もう一個、あるぞ」
二つ目を、今度は三歩の距離に置く。同じことを四回繰り返して、最後のかけらを、開いた手のひらに載せた。
鼠が、止まった。
小さな身体が、ゆっくり、ゆっくり近づいてくる。爪が手のひらに触れて、くすぐったい。ひげが指をかすめる。心臓の音が、鼠にまで聞こえているんじゃないかと思った。
今だ、と思った。
「契約を、お願いしたい。俺は、レクト」
指先から、薄い緑の光が糸のようにほどけた。
「〈テイム〉」
光が鼠の額に触れ、弾けて、消えた。
静かだった。
次の瞬間――ぱちん、と何かがつながる感触が、胸の真ん中に落ちた。
〈契約成立〉
〈個体解析を開始します〉
視界に枠がぱっと展開する。
〈灰鼠 Lv3 HP22/22〉
〈性格:慎重・食いしん坊〉
〈適性:地属性(微) 振動感知(高)〉
〈進化分岐:石響鼠〉
「石響、鼠……!」
その下に、見たかった文字列が、整然と並んだ。
〈石響鼠への進化条件〉
〈基礎Lv:5 現在3 残り2〉
〈振動感知の練習:0/10〉
〈地属性素材(微量):0/3〉
〈魔核の安定:未〉
〈――最短見込み:約三週間〉
声が出なかった。
最短見込み。そう書いてある。この世界のテイマーが、年単位の試行錯誤の末、運がよければ辿り着く進化が。
「三週間、で」
ようやく絞り出した声は、自分でも笑ってしまうくらい裏返っていた。
鼠が、手の上でひくひくと鼻を鳴らす。それから、するすると腕を駆け上がって、肩にちょこんと座った。重さは、ほとんどない。毛の温かさだけが、首筋に伝わってくる。
「お前、なんて呼ぼうか」
少し考えて、レクトは笑った。
「チップ。チーズのかけらから来た相棒だ。よろしくな、チップ」
肩の上の小さな頭が、こくん、と動いた気がした。
その様子を、屋根の上から次兄のジークが、こっそり見ていた。見ていたし、聞いていた。
「……なあレオ兄。うちの三男、鼠に向かって『三週間』って叫んでたぞ」
「見なかったことにして、朝稽古に行くぞ」




