クロイツ女史と、荷運びの日
「あなたが、静止時間十一時間の子?」
玄関に現れた女は、挨拶より先にそう言った。
「イネス・クロイツです。王立研究院所属。昼の馬車で戻るので、使える時間は三時間」
二十代半ばだろうか。ほどけかけた三つ編み、インクで汚れた頬。片手に砂糖漬けの木の実の袋、もう片手には角の擦り切れた革の鞄。外套の肘に穴が空いている。全身から、徹夜明けの匂いがした。
背後で、家令のハンスが眉ひとつ動かさずに立っていた。この人は、絶対に予告なしの来訪を事前に知っていた。
「ハンス……」
「坊ちゃまがお喜びになると思いまして」
喜ぶ、どころではなかった。
応接間に通すと、クロイツ女史は椅子に座る間も惜しんで、鞄から分厚い資料を引っ張り出した。机に広がったのは、レクトが送った記録と、研究院の過去の観測記録。何十枚もの紙が、波のように重なる。
「聞くわ。魔核の安定が七十八パーセント、九十六パーセント、百。この数字は、どうやって測ったの?」
(来た)
心臓が跳ねた。
「え、えっと。観察と、感覚で」
「感覚」
「はい。魔核の状態を、なんとなく」
「…………」
女史は木の実をひとつ口に放り込んで、ゆっくり噛んだ。
「魔核の状態を数字で言える人間は、世界にいないの。できるなら、私の研究は三十年短縮される。ということは、あなたは私の知らない方法を持っている」
「あの」
「聞かないわ」
あっさり言われて、レクトは目を丸くした。
「聞かない?」
「聞いたら、あなたは嘘をつくか黙るか、どちらかでしょう。時間の無駄よ。私が欲しいのは数字の出処じゃなくて、数字そのもの。他の個体でも同じ傾向が出るか。それを確かめたい」
ペンが紙の上を走る。
「協力して。あなたの記録を研究院に提供してほしい。名前は伏せる。成果が出たら、共同研究者として載せる」
「俺なんかで、いいんですか」
「『なんか』じゃないわ」
顔を上げた彼女の目は、少女のように輝いていた。
「静止時間は、十五年、誰も埋められなかった空白なのよ。それを七歳の男の子が、一件目を書いた」
「もう十二歳です」
「失礼」
(認められた。しかも、理由を聞かれないまま)
肩の力が、すっと抜けた。
そのとき、窓際で寝ていたチップが、ひょこっと起き上がった。地脈鼠になって、まだ数日。背中の金色の縞が、日光を受けてきらりと光る。
クロイツ女史の動きが止まった。
「あ、チップ。さっき進化したばかりで」
「地脈、鼠」
女史は手のペンを取り落とし、床に膝をついて、チップの前に正座した。
「本物?」
「たぶん」
「文献では実在が確認されていない種よ。記録は、古い伝承がひとつだけ」
「でも、うちの子です」
「…………触っても、いい?」
チップが、ふい、と顔を背けた。
「あ。ごめん、チップは人見知りで」
渋々という顔で、チップは女史の指に鼻先を近づけた。
クロイツ女史は、涙ぐんでいた。
*
「坊ちゃん、荷を預けます」
ハロルドの頼みは、あまりに簡単だった。
領都へ運ぶ鉱山の荷。鉄鉱石と炭と、坑夫の家族への生活物資。荷馬車は三台。三日以内に着けば、冬支度に間に合う。護衛はベルクたち三人。そこに、ヴァルディス家の三男と六体の従魔が加わった。
「あの、ハロルドさん。俺が、運ぶんですか」
「一緒に運びまさあ。ただし、一台は坊ちゃんの責任で」
最後尾の荷馬車の手綱が、レクトに渡された。荷台には鉄鉱石が山と積まれ、山羊が二頭、のんびり草を噛んでいる。
「頼むよ」
山羊の耳が、ぴくりと動いた。
出発して一刻。重い荷車が斜面で傾くたび、ガルフが肩で支えて押し戻す。ピピは先に飛んで、道の様子を見ては戻ってくる。チップは荷台の隅で路面の振動を拾い続け、ミュウは荷物の上で寝ている。アンバーはレクトの腹の上で湯たんぽ。リプルは鉄鉱石に張りついて水を吸い、重さを減らしていた。
前の馬車から、ハロルドが振り返って口をぽかんと開けた。
「坊ちゃん、うちの荷が、予定より半日早く着きそうなんですが」
「すみません、速すぎました?」
「いや、嬉しい悲鳴で」
荷下ろしの時間も、普段の半分だった。夕方の宿場町で、ハロルドは荷馬車の上で煙草をくゆらせた。
「仲間が仲間を支える運び方を、うちの弟子に見せたかったですなあ」
「ハロルドさんの運び方を、真似しただけです」
「いや、真似だけじゃ、ああはなりません」
その夜、六体と一人で囲んだ焚き火は、いつもより明るかった。
*
ピピが落ちた。
「ピピ!」
峠の頂上近く、突風が吹き抜けた瞬間だった。青い影が、翼を畳めずに回転しながら、岩場の向こうへ吹き飛ばされていく。レクトが叫ぶより早く、ガルフが駆け出した。
岩場の底で、ピピは羽根を広げたまま転がっていた。
抱き上げると、小さな身体がぷるぷると震えている。羽根は折れていない。傷もない。ただ、目がぎゅっと閉じている。
「大丈夫、大丈夫だ」
撫でようとすると、ぷい、と顔を背けられた。ピピはレクトの手から抜け出し、岩の上に飛び乗って、背中を向けて丸くなった。
(拗ねてる)
生意気な性格。落ちたことが、悔しいのだ。それも、自分の失敗として。
誰かが慰めても、余計に傷つく。レクトは岩のそばに黙って座った。ガルフが隣に座り、ミュウも少し離れたところで丸くなる。
誰も、何も言わない。
風が、岩場の隙間を鳴らしている。ひゅう、ひゅう、と笛みたいな音がする。
しばらくして、ピピが顔を上げた。空を見ている。
高い空の端で、大きな鳥が翼を広げて滑るように飛んでいた。羽ばたきは、ほとんどない。風に乗って、ゆっくり旋回している。
ピピは、日が暮れるまで、ずっとそれを見ていた。
*
翌朝、ピピは一番先に目を覚ました。
峠の道沿いに、レクトは長い紐を何本も張った。紐の先に、軽い布切れを結ぶ。風が吹くたび布が揺れて、見えない風の流れが、色のついた旗のように目で追えるようになる。
「ピピ、見てて」
峠の風は、斜面に沿ってゆるやかに上昇している。尾根を越えると、急に下降する。谷では渦を巻く。布切れが、それを正直に教えてくれた。
ピピは、布の動きをじっと見ていた。それから、翼を広げた。
ひとつ、羽ばたく。ふわりと浮く。次の瞬間、上昇気流を掴んだ。
「お」
羽ばたきを、やめた。
青い身体が、風に乗ってぐんぐん上がっていく。昨日、突風に叩き落とされた峠の空を、今日は風と一緒に滑っていた。
(そうか。逆らわないんだ)
昨日の大きな鳥は、風に逆らわず、風と一緒に動いていた。ピピは、それを見ていたのだ。
旋回し、下降し、また上昇する。布切れの旗の間を縫うように飛び、最後にレクトの頭上でぴたりと静止して、翼を畳んで肩に落ちてきた。
「ピッ!」
胸を張って、レクトの頬をくちばしでつついた。
「痛い痛い!」
笑いながら、レクトは峠の先を見た。前の馬車から、ハロルドが道を指さしている。
「この先は、断崖沿いの細道でしてな。風の通り道なんですわ」
(ピピは風を掴んだ。でも、荷馬車ごと持ち上げる風が来たら、俺たちはどうする?)




