風切隼
荷馬車が、傾いた。
「うわっ!」
ハロルドの声と、荷が軋む音が重なる。断崖沿いの細い街道。右は切り立った崖、左は山肌。谷底から突き上げる突風が、荷馬車の片側の車輪を浮かせていた。
「ガルフ!」
レクトが叫ぶより早く、ガルフが車体の脇に身体を滑り込ませていた。肩で車軸を押さえ、足を踏ん張る。前足が地面にめり込む。
荷馬車が、少しだけ戻る。が、まだ傾いたままだ。もう一度突風が来たら、崖下に落ちる。
「次の風、来ます! 三秒後!」
ピピの警告が、頭の中に直接響いた。右から、強いのが来る。
「全員、左に重心! ガルフ、そのまま耐えて! リプル、鉄鉱石の水分を全部吸って、軽くして!」
指示を叫びながら、レクトは荷台の左側に飛びついた。ダリオとトールも駆け寄って、体重を乗せる。リプルの膜が山盛りの鉄鉱石を覆い、水分と砂を吸い込む。重さが、わずかに減った。
三秒後。
谷底から、咆哮のような風が駆け上がってきた。荷馬車が軋む。ガルフの足が地面を削る。山羊が悲鳴を上げた。
そのとき、ピピが飛んだ。
風の渦の真ん中に、小さな身体が突っ込む。風は、風に逆らわない。ピピは渦の流れに乗り、わずかに向きを変えた。少し羽ばたいた。それだけで、渦の方向が微妙にずれた。
突風が、荷馬車の右ではなく、頭上を通り過ぎた。
車輪が、ごとり、と地面に戻った。
誰も、動かなかった。
ガルフが、ふう、と鼻息を吐いて肩を車軸から外した。ピピがふらふらと降りてきて、ハロルドの肩に止まる。ハロルドはしばらく呆然としていたが、ゆっくりとピピに頭を下げた。
「恩に着ます」
ピピは胸を張った。
「ピッ」
「…………調子に乗るなよ」
レクトがつぶやくと、ぷい、と顔を背けた。が、尻尾の羽が、ぴょこぴょこ動いていた。
*
「ピピに手紙を運ばせたら、街道の馬より速いかもしれない? それは、本当にできるのか」
ジークの顔は半信半疑だった。
「やってみないと、分かりません」
「俺が馬で行く。お前の雀は空を飛ぶ。どっちが先に領都へ着くか、勝負だ」
「ジーク兄さんの馬は、街道一の駿馬では」
「だから、勝負になるんだ」
領都まで、街道で二十里。馬で二刻。領都の宿屋の主人にヴァルディス家の手紙を渡したほうが勝ち。
屋敷の前の広場に、見物人が集まった。ハンスが旗を持ち、ガイゼルが腕組みで見守る。母は日傘をさし、使用人たちは柵に鈴なりになっている。
「よーい」
旗が振り下ろされた。
ジークの馬が土煙を上げて走り出す。蹄の音が轟く。同時に、ピピが飛んだ。青い身体が空に吸い込まれていく。上昇気流を掴む。羽ばたきは最初だけ。あとは、滑る。
最初の十分は、ジークが先行していた。ところが峠にさしかかると、馬の速度が落ちる。急な坂、狭い橋。一方、ピピは山を、谷を、直線で越えていく。
領都の宿屋に青い影が降り立ったのは、出発から一刻半後だった。ジークの馬は、その十分後に着いた。
「…………負けた」
ジークが馬から降りて、苦笑する。
「空を使われたら、勝てねえな」
「ピピが、頑張ったんです」
「お前の雀、もう雀じゃねえな」
その言葉に、ピピは一番大きな声で鳴いた。
「ピィィッ!」
宿屋の主人は、鳥の足から手紙を受け取って目を丸くしていた。返事の手紙は、小さな包みと一緒に、ピピの足に結ばれた。
包みの中身は、淡く青い風晶の欠片が、二つ。
「駄賃です。珍しい配達でしたから」
*
その朝、ピピは峠の岩の上に立っていた。
夜明け前の、紫がかった空。東の稜線がうっすらと赤い。冷たい風が尾根を駆け上がってくる。ピピは胸を張って、風を受けていた。
〈風切隼への進化条件〉
〈風読み:10/10 達成〉
〈飛行持久:10/10 達成〉
〈風属性素材(風晶の欠片):2/2 達成〉
〈魔核の安定:100% 達成〉
「ピピ」
声をかけると、ピピがこちらを向いた。小さな目が、ちょっとだけ潤んで見えた。
(お前、よくやったな)
言葉にはしなかった。ただ頷くと、ピピも頷き返して、翼を広げた。
光が弾けた。
白と青の光が、峠の岩場を満たす。風が一斉に巻き起こり、レクトの髪を乱した。光の中で、ピピの身体がふわりと浮かぶ。小さな雀の羽根が、一枚ずつ、長く、細く、しなやかに変わっていく。胸が厚くなり、足先に鋭い爪が生え、頭の冠羽が後ろに流れる形になった。
〈風羽雀 → 風切隼〉
〈進化条件、達成〉
〈進化刻印:空中機動〉
そこにいたのは、レクトの腕ほどの大きさの隼だった。羽根の青色が、深く、鮮やかになっている。目が鋭い。それでいて、あの生意気な光は変わらない。
胸の奥に、風が吹き込んだ。
「ピピ、いくぞ」
視覚共有。
世界が、一気に広がった。峠の岩場が遠くなる。街道が細い線になる。屋敷も、領都も、麓の森も、手のひらの上にあるみたいに小さい。昨日までの雀の視界とは、桁違いに遠くまで見える。
その向こう。
遥か北の地平線に、白い線が見えた。雪を頂いた山脈だ。まだ誰も行ったことのない場所。低く垂れ込めた雲の隙間から、淡い光が漏れていた。
(あの山の向こうに、何がいる?)
ピピが、さらに高く上がった。
地上で、ガルフがそっとレクトの足元に寄り添った。護衛の三人が、後ろで空を見上げている。
「ピピ、お前、すごいな」




